試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中のp.40~p.41。
L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
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第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑤。
許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。<以上、前回と重複>
何人かのマルクス主義思想家たちは、ルカチ(Lukács)からロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)まで、同じ見地からこの状況を理解した。
しかしながら、トロツキーは、スターリンの政策は自分のそれと同一だとは考えていなかった。(トロツキーは1926年秋に政治局から排除され、1928年初めにアルマ・アタ(Alma Ata)へと追放され、トルコ政府の同意を得て1929年2月にトルコに亡命した。)
彼は、こう書いた。スターリンの官僚機構は実際に反対派の圧力によって左翼の目標を採用するように強いられたのではなく、容赦のないかつ日和見主義的なやり方で自分たちで実行した、と。
反対派は集団化に賛成したが、大量の強制的手法にではなかった。クラクを抑制して、「経済的手段によって」それと闘うべきだつたのだ。
こうしたことはまた、のちに全てのトロツキー支持者が採った考え方だった。//
しかしながら、このような論じ方は、きわめて薄弱なものだ。
トロツキーは強制的集団化について語らなかった、というのは本当だ。しかし、当時はスターリンも語らなかった。
スターリンの演説や論文だけからあの年代の歴史を知る者は誰でも、疑いなくつぎのように想定するだろう。農民たちはより良き生活のために集団農場へと押し寄せた、「上からの革命」は無制限の喜びでもって歓迎された、厳格な措置の被害者はたんに一握りの度し難い怠業者たち、労働者民衆とその民衆の利益を過ちなく表現する政府の敵にすぎない、と。
本当(true)はどうだったかと言うと、スターリンが唯一の可能な方法で反対派のプログラムを実行に移した、ということだ。
彼らが提示していた全ての経済的な誘導策は、スターリンが公然たる強制力行使に訴える前に、すでに試みられていた。
税と価格による動機づけ、そしてテロルを制限するという政策は、その前の二年間に実施されていた。しかし、その唯一の結果は、穀物の配送量が低下し、さらにもっと悪化しそうだ、ということだった。
経済的圧力という手段はもはや残っておらず、つぎの二つの選択肢だけがあった。
すなわち、第一に、完全な形態でのネップ(「新経済政策」)に戻り、自由取引を許し、食糧生産と配分を確保すべく市場を信頼する。
第二に、すでに着手していた路線を追求し、軍隊と警察を大量に用いることで自立農民層の全体を廃絶させる。
スターリンは後者の政策を選択して、実現可能に思えたやり方でのみ、左翼の要求を実行した。//
スターリンは、なぜそうしたのか?
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ここで区切る。⑥へとつづく。
L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
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第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争⑤。
許しを乞うのに成功したラデク(Radek)のような者たちは、数年間は長く国家に奉仕することができた。最終的な破滅を、彼らは逃れることはなかったけれども。<以上、前回と重複>
何人かのマルクス主義思想家たちは、ルカチ(Lukács)からロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedyev)まで、同じ見地からこの状況を理解した。
しかしながら、トロツキーは、スターリンの政策は自分のそれと同一だとは考えていなかった。(トロツキーは1926年秋に政治局から排除され、1928年初めにアルマ・アタ(Alma Ata)へと追放され、トルコ政府の同意を得て1929年2月にトルコに亡命した。)
彼は、こう書いた。スターリンの官僚機構は実際に反対派の圧力によって左翼の目標を採用するように強いられたのではなく、容赦のないかつ日和見主義的なやり方で自分たちで実行した、と。
反対派は集団化に賛成したが、大量の強制的手法にではなかった。クラクを抑制して、「経済的手段によって」それと闘うべきだつたのだ。
こうしたことはまた、のちに全てのトロツキー支持者が採った考え方だった。//
しかしながら、このような論じ方は、きわめて薄弱なものだ。
トロツキーは強制的集団化について語らなかった、というのは本当だ。しかし、当時はスターリンも語らなかった。
スターリンの演説や論文だけからあの年代の歴史を知る者は誰でも、疑いなくつぎのように想定するだろう。農民たちはより良き生活のために集団農場へと押し寄せた、「上からの革命」は無制限の喜びでもって歓迎された、厳格な措置の被害者はたんに一握りの度し難い怠業者たち、労働者民衆とその民衆の利益を過ちなく表現する政府の敵にすぎない、と。
本当(true)はどうだったかと言うと、スターリンが唯一の可能な方法で反対派のプログラムを実行に移した、ということだ。
彼らが提示していた全ての経済的な誘導策は、スターリンが公然たる強制力行使に訴える前に、すでに試みられていた。
税と価格による動機づけ、そしてテロルを制限するという政策は、その前の二年間に実施されていた。しかし、その唯一の結果は、穀物の配送量が低下し、さらにもっと悪化しそうだ、ということだった。
経済的圧力という手段はもはや残っておらず、つぎの二つの選択肢だけがあった。
すなわち、第一に、完全な形態でのネップ(「新経済政策」)に戻り、自由取引を許し、食糧生産と配分を確保すべく市場を信頼する。
第二に、すでに着手していた路線を追求し、軍隊と警察を大量に用いることで自立農民層の全体を廃絶させる。
スターリンは後者の政策を選択して、実現可能に思えたやり方でのみ、左翼の要求を実行した。//
スターリンは、なぜそうしたのか?
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ここで区切る。⑥へとつづく。