秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

2018/03

1762/三全体主義の共通性②-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章の試訳のつづき。p.263-4.
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 (序説②)
 この問題は、ナツィスに近い理論家のカール・シュミット(Carl Schmitt)によって、理論的に説明され、正当化された。
 彼はヒトラーが政権に達する6年前にこう書いて、激しい憎しみ(enmity)は政治の質を明確にするものだと定義した。
 『政治的な行動と動機を下支えする特殊に政治的な区別は、<味方(friend)>と<敵(foe)>の区別だ。
 この区別は政治の世界上のもので、別の世界での相対的に自立した対照物に対応する。すなわち、倫理上の善と悪、美学上の美と醜、等々。
 味方と敵の区別は自己充足的なものだ。-すなわち、いずれもこれらの対照物の一つ又は多くから由来するものでもないし、これらに帰結するものでもない…。
 この区別は、理論上も実際上も、その他の区別-道徳、審美、経済等々-に同時に適用されることなくして、存在する。
 政治上の敵は、道徳的に悪である必要はないし、経済的な競争者として出現する必要もない。また、日常的仕事をする上ではきわめて利益になる者ですらあるかもしれない。
 しかし、敵は、他者であり、よそ者だ(the other, the stranger)。そして、敵であるためにはそれで十分なのであり、特殊にきわめて実存主義的意味では、異質で無縁な(different, alien)者なので、衝突が生じた場合には、その者は自分自身の存在を否定するものとして立ち現れる。そのゆえに、その者と、自分の存在に適した(self-like, seinmaessig)生活様式を守るために抵抗し、闘わなければならないのだ。』 (75)
 この複雑な文章の背後にあるメッセージは、政治過程では諸集団を区別する違いを強調することが必要だ、なぜなら、それは政治にはその存在が無視できない敵を手玉にとるための唯一の方法だから、ということだ。
 「他者」は実際に敵である必要はない。異質な者だと感受されるということで十分だ。//
 ヒトラーがその性分に合うと感じたのは、憎悪への共産主義者の執着だった。
 そしてこれは、なぜヒトラーは社会民主党を妨害する一方で、幻滅した共産主義者たちをナツィ党が歓迎するように指示したかの理由だ。
 憎悪は、ある対象から別の対象へと、容易に方向を変えたのだから。(76)
 そして、1920年代の初めに、イタリア・ファシスト党の支持者の最大多数は元共産党員だ、ということが起こった。(77) //
 我々は、三つの全体主義体制に共通する特質を、三つの項目のもとで考察しよう。すなわち、支配政党の構造、機能、権威だ。そして、党の国家との関係、そして党の民衆一般との関係だ。//
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 (75) Carl Schmitt, in : Archive fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Vol. 58, Pt. 1 (1927), p.4-5.
 (76) Rauschning, Hitler Speaks, p.134.
  (77) Angelica Balabanoff, Errinerungen und Erlebnisse (Berlin, 1927), p.260.
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③第Ⅰ款・「支配党」へとつづく。

1761/三全体主義の共通性①-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.262-3.
 つぎの節の大部分にはさらに下の見出しが付いているので、原著にはないが、初めの部分にかりに「序説」という表題を付けておく。
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 第5節・三つの全体主義体制に共通する特質①-序説①。
 (序説)
 三つの全体主義体制は、いくつかの点で異なる。この相違については、いずれきちんと論述するだろう。
 しかしながら、それらを結合するのは何かは、それらを分離するものは何かよりもずっと重要だ。
 第一に、最も重要なのは、共通する敵があることだ。すなわち、複数政党システム、法と財産の尊重、平和と安定という理想をもつ、リベラルな民主政体(liberal democracy)。
 レーニン、ムッソリーニおよびヒトラーの「ブルジョア民主主義」と社会民主主義者に対する激しい非難は、完全に相互交換が可能だ。//
 共産主義と「ファシズム」の関係を分析するためには、「革命」とはその本性からして平等主義的(egalitarian)かつ国際主義的で、一方のナショナリストによる変革は本来的に反革命的だとの伝来的な考え方を正さなければなければならない。
 こうした考え方は、ヒトラーのような率直なナショナリストが革命的願望を持っているはずはないと信じて、最初に彼を支持したドイツの保守派が冒した過ちだ。(70)
 「反革命」という語は、1790年代のフランスの君主制主義者が本当にそう考えたように、革命を取り消して以前の状態(status quo ante)に戻そうとする運動についてだけ、適正に用いることができる。
 「革命」を現存する政治体制を、つづいて経済、社会構造および文化を、突然に転覆させることを意味すると定義するならば、この用語は同等に、反平等主義的なおよび外国人差別の大変革にも適用することができる。
  「革命的」という形容詞は、変化の内容ではなく、それが達成される態様-すなわち、突然にかつ暴力的に(violently)-を描写するものだ。
 したがって、左翼による革命を語るのと同様に右翼による革命を語るのは適切だ。
 この二つが共存できない敵として相互に対立しているということは、有権者大衆をめぐって競争することに由来し、方法または目標の不一致に由来するのではない。
  ヒトラーもムッソリーニも、自分を革命家だと思っていた。正しく(rightly)、そう考えた。
 ラウシュニンクは、国家社会主義の目標は、実際には、共産主義とアナキズムのいずれよりも革命的だ、と主張した。(71)//
  しかしおそらく、三つの全体主義運動の間の最も根本的な親近性(affinity)は、心理(psychology)の領域に横たわっている。
 共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、大衆の支持を獲得するために、そして民主主義的に選出される政府ではなく自分たちこそが民衆の本当の意思を表現しているという主張を強化するために、民衆の憤懣(resentments)-階級、人種、民族-を掻き立てて、利用した。
 これら三つは全て、憎悪(hate)という感情に訴えたのだ。//
 フランスのジャコバン派は、階級的憤懣の政治的潜在力を認識した最初のものだ。
 彼らはそれを利用して、貴族制主義者その他の革命の敵による恒常的な陰謀を手玉にとった。ジャコバン派は没落する直前に、間違いなく共産主義的な含意をもつ、私有の富を没収する法令案を作った。(72)
 マルクスが歴史の支配的な特質として階級闘争の理論を定式化したのは、フランス革命とその影響に関する研究からだった。
 彼の理論で、社会的な敵意(antagonism)は初めて道徳上の正当性を授けられた。ユダヤ教を自己破壊的なものと非難し、(怒りの外装をまとう)キリスト教を大罪の一つだと見なす憎悪(hatred)は、美徳に作り替えられた。
 しかし、憎悪は両刃の剣で、犠牲者たちは自己防衛のためにそれを是認した。
 19世紀の終わりにかけて、階級戦争のための社会主義的スローガンとして民族的および人種的憤懣を利用する教理が出現した。
 1902年の予言的書物、<憎悪のドクトリン>で、アナトール・ルロイ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu)は、当時の左翼過激主義者と右翼過激主義者の間の親近性に注意を促し、両者の共謀性を予見した。それは、1917年のあとで現実になることになる。(73) //
 レーニンが富裕層、つまりブルジョア(the burzhui)に対する憤懣を都市の庶民や貧しい農民を結集させるために利用した、ということについて詳しく述べる必要はない。
 ムッソリーニは、階級闘争を「持てる」国家と「持たざる」国家の対立として再定式化した。
 ヒトラーは、階級闘争を人種や民族の間の対立、すなわち「アーリア人」のユダヤ人およびその言うユダヤ人によって支配されている民族との対立だと再解釈することによって、ムッソリーニの技巧に適応した。(*)
 ある初期の親ナツィの理論家は、現代世界の本当の対立は資本とそれに対する労働の間にではなく、世界的ユダヤ「帝国主義」とそれに対する人民(Volk)主権を基礎とする国家の間にある、ユダヤ民族が経済的に生き残る可能性を奪われて絶滅してのみこの対立は解消される、と論じた。(74)
 革命運動は、「右」と「左」のいずれの変種であれ、憎悪の対象を持たなければならない。抽象化を求めるよりも、見える敵に対抗するように大衆を駆り立てるのは、比較にならないほど容易だからだ。
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 (70) Hermann Rauschning, The Revolution of Nihilism (New York, 1939),p.55, p.74-75, p.105.
 (71) 同上、p.19。
 (72) Pierre Gaxotte, The French Revolution (London & New York, 1932), Chapter 12.
 (73) Anatole Leroy-Beaulieu, Les Doctrine de Haine (Paris,(1902)) 。リチャード・パイプス・ロシア革命p.136-7 を参照。
  (*) 階級戦争という考えが人種的な意味で再解釈される可能性は、すでに1924年に、ロシアのユダヤ人移住者、I・M・ビカーマン(Bikerman)が、ボルシェヴィキに親近的な同胞に対する警告として、指摘していた。
 Bikerman, Rossia i Evrei, Sbornik I (Berlin, 1924), p.59-p.60.
 「ペトルラの自由コサックあるいはデニーキンの志願兵はなぜ、全ての歴史を諸階級の闘争ではなく諸人種の闘争へと変える理論に従えなかったのか? なぜ、歴史の罪を正して、悪の根源があるとする人種を絶滅させることができなかったのか?
 略奪し、殺戮し、強姦する、こうした過剰は、伝統的に、同じ一つの旗のもとで、別の旗のもとでと同じように冒されることがあり得る」。
 (74) Gottfried Feder, Der dutsche Staat auf nationaler und sozialer Grundlage, 11th ed. (Muenchen, 1933).
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 段落の途中だが、こここで区切る。②へとつづく。

1760/ヒトラーと社会主義②-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.260-1。
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 第4節・ヒトラーと社会主義②。
 (冒頭の一部が前回と重複)
 この党は1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗り、政綱に反ユダヤ主義を追加し、退役軍人、個人店主、職業人を組織へと呼びよせた。
 (党名にある「労働」という言葉は「全ての働く者」を意味し、産業労働者のみではない。(61))
 ヒトラーが1919年に奪い取ったのは、この組織だった。
 ブラヒャー(Bracher)によると、こうだ。
 初期の党のイデオロギーは、『非理性的で暴力志向の政治イデオロギーの内部に、完全に革命的な中核部分を含んでいた。
 たんに反動的な体質を表現したものでは全くなかった。すなわち、労働者と労働組合主義者の世界が本源にあった。』(62)
 ナツィスは、労働者は共同体の柱石だと、そしてブルジョアジーは-伝統的貴族階級とともに-滅亡する階級だ、と宣言して、ドイツ労働者の社会主義的な伝統に訴えた。(63)
 同僚に自分は「社会主義者」だと語った(64)ヒトラーは、党に赤旗を採用させ、政権を取れば5月1日を国民の祝日にすると宣告した。
 ナツィ党の党員たちは、お互いに「同志」(Genossen)と呼び合うように命じられた。
 ヒトラーの党に関する考えは、レーニンのごとく、軍事組織、戦闘団(Kampfbund、「Combat League」)のそれだった。
 (「運動を支持する者は、運動の目標に合意することを宣言する者だ。
 党員は、その目標のために闘う者だけだ」。(65))   
 ヒトラーの究極の目的は、伝統的諸階層が廃止され、地位は個人的な英雄的資質(heroism)によって獲得されるような社会だった。(66)
 典型的に過激な流儀でもって、彼は、人間は彼自身を再生するものだと心に描いた。ラウシュニンクに、こう語った。
 「人は、神になりつつある。人は、作られつつある神だ」。(67)//
 ナツィスは当初は労働者を惹きつけるのにほとんど成功せず、党員たちの大多数は「プチ・ブル」〔小ブルジョアジー〕の出身だった。
 しかし、1920年代の終わり頃、その社会主義的な訴えが功を奏し始めた。
 1929-1930年に失業が発生したとき、労働者たちがひと塊になって(en masse、大量に)入党した。
 ナツィ党の記録文書によれば、1930年に、党員の28パーセントは産業労働者で成っていた。
 1934年に、その割合は32パーセントに達した。
 いずれの年にも、彼らはナツィ党の中で最大多数を占めるグループだった。(*)
 ナツィ党の党員たちがロシア共産党におけるそれと同じ責任を負うのではないとしても、誠実な(bona fide)労働者(全日勤務の党員となった元労働者は別)の割合は、ナツィ党(NSDAP)ではソヴィエト同盟の共産党におけるよりも、なんと予想に反して、高かった、と言える。//
 ヒトラーの全体主義政党のモデルは共産主義ロシアから借りたという証拠は、状況的な(circumstantial)ものだ。というのは、全く積極的に「マルクス主義者」への負い目を承認している一方で、彼は、共産主義ロシアから何ものかを借用したことを承認するのを完全に避けたからだ。
 一党国家という考えは、ヒトラーの心の中に、1920年代半ばには明らかに生じていた。1920年のカップ一揆(Kapp putsch)の失敗を省察し、戦術を変更して合法的に権力を掴もうと決心したときに。
 ヒトラー自身は、紀律ある階層的に組織された政党という考えは軍事組織から示唆された、と主張した。
 彼はまた、ムッソリーニから学んだことは積極的に認めることとなる。(68)
 しかし、その活動がドイツのプレスで広く知られていた共産党がヒトラーにも影響を与えなかった、というのはきわめて異様だ。明白な理由から、彼はその事実を認めるのは不可能だと分かっていたけれども。
 ヒトラーは、私的な会話では、つぎのことを認めることを厭わなかった。「レーニンとトロツキーおよび他のマルクス主義者の著作から革命の技巧を勉強(study)した」ということを。(+)
 彼によると、社会主義者から離脱して、「新しい」ものを始めた。社会主義者たちは-大胆な行動をすることのできない-「小者」だからとの理由で。
 これは、レーニンが社会民主党と決別してボルシェヴィキ党を設立した理由とは、大きく異なっている。//
 ローゼンベルクの支持者とゲッベルスやシュトラサーの支持者とが論争したとき、ヒトラーは最終的には前者の側に立った。
 ヒトラーにはドイツの投票者を怯えさせるユダヤ共産主義の脅威という妖怪が必要だったので、ソヴィエト・ロシアとの同盟はあるべくもなかった。
 しかし、このことは、彼自身の目的のために共産主義ロシアの中央志向の制度と実務を採用することを妨げはしなかった。//
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 (61) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.17.
 (62) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.59. 〔ドイツの独裁〕
 (63) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.48.
 (64) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.157.
 (65) The Impact of the Russian Revolution, 1917-1967 (London, 1967), p.340.
 (66) Rauschning, Hitler Speaks, p.48-p.49.
 (67) 同上、p.242.
 (*) Karl Bracher, Die deutsche Diktatur, 2ed. ed. (Cologne-Berlin〔ケルン・ベルリン〕, 1969), p.256.
 David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.28、p.36 は、少しばかり異なる様相を伝える。
 あるマルクス主義者の歴史家たちは、ナツィ党に加入したり投票したりする労働者を労働者階級の隊列から除外することによって、この厄介な事実を捨て去る。労働者たる地位は職業によってではなく「支配階級に対する闘争」によって決定される、との理由で。Timothy W. Mason, Sozialpolitik im Dritten Reich (Opladen, 1977), p.9. 〔第三帝国の社会政策〕
 (68) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, xiv.
 (+) Rauschning, Hitler Speaks (London, 1939), p.236.
 ヒトラーは1930年に、トロツキーが近年に出版した<わが人生>を読み、多くのことを学んだ、この著を「輝かしい(brilliant)」と称した、と驚く同僚に語った、と言われている。Konrad Heiden, Der Fuehrer (New York, 1944)、p.308。  
 しかしながら、ハイデン(Heiden)はこの情報の出所を記していない。
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 つぎの第5節の表題は、「三つの全体主義体制に共通する特質」。

1759/ヒトラーと社会主義①-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)の試訳のつづき。p.258~p.260.
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 第4節・ヒトラーと社会主義①。
 政治現象として言えば、ナチズムとはつぎの二つのことだった。政治過程に民衆が参加するという装いを与える大衆操作の技巧、ドイツ国家社会主義労働党が権力を独占して国家制度をその道具に変える統治のシステム。
 これら二つのいずれについても、その始源的およびボルシェヴィキ的な両者の意味でのマルクス主義の影響は明白だ。//
 青年ヒトラーが社会民主党はいかにして群衆を操縦しているかを綿密に研究した、ということが知られている。
 『ヒトラーは、社会民主党から大衆政党と大衆プロパガンダ〔虚偽宣伝〕に関する考え方を引き出した。
 彼は<我が闘争>に、ウィーンの労働者の大衆示威活動での行進で四列の絶えることのない隊列を凝視したときの印象を叙述している。
 「私はほとんど二時間、私の前にまっすぐにゆっくり進んでくるその巨大な龍のごとき人々を眺めながら、物を言えないまま立ちつくした」。』(*)
 ヒトラーは、このような観察から大衆の心理に関する彼の理論を発展させた。のちにそれを使用して、彼は目を見張る成功を遂げた。
 彼は、ラウシュニンクとの会話で、社会主義に対する自分の負い目(debt)をつぎのように認めている。
 『私は、認めるのを躊躇しないほど、多数のことをマルクス主義から学んだ。
 その退屈する社会理論や歴史の唯物論的理解を意味させているのではない。あるいはその馬鹿げた「限界効用」論(!)等々でもない。
 しかし、彼らの方法を学んだ。
 彼らと私自身との違いは、陳腐な商品売り(peddlers)や退屈な簿記係(penpushers)がおずおずと開始したことを、私は現実に実践した、ということだ。
 国家社会主義の全体は、それから始まった。
 労働者の体育クラブ、工場内の細胞、大衆デモ、大衆に理解しやすく書いた宣伝パンフレットを見ろ。
 政治闘争のためのこれらの新しい方法は全て、本質的にはマルクス主義に根源がある。
 私がしなければならなかったのは、これらの方法を奪い取って我々の目的に適合させることだ。
 私はただ、民主政体の枠の中で進展を実現しようとしたために社会民主主義が何度も失敗したことを、論理的に発展させなければならなかった。
 国家社会主義とは、民主主義秩序との馬鹿げたかつ人工的な絆を断ち切ることができていればマルクス主義がなっていたかもしれないものだ。』(58)
 この最後には、ボルシェヴィズムがしたもの、そしてボルシェヴィキがそうなったもの、と追記されてよい。(+)
 共産主義のモデルをナツィス運動へと送り込む一つの交信手段は、「民族的(national)ボルシェヴィキ」として知られる(++)、ヒトラーに跪いている左翼との間の右翼知識人のそれだった。
 彼らの主要な理論家、ヨゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)とオットー・シュトラサー(Otto Strasser)は、ロシアでのボルシェヴィキの成功に大きな感銘を受けた。そして、ソヴェト・ロシアがその経済を建設するのをドイツが助けて、その見返りにフランスとイギリスに対抗する政治的支援を得ることを望んだ。
 彼らは、モスクワは国際的なユダヤ人の陰謀の司令塔だとの、ヒトラーが採用したローゼンベルクの論調に、共産主義は隠されたロシアの伝統的民族主義の表むきの顔(facade)だ、と反応した。
 『彼らは、世界革命と語り、ロシアのことを意味させている』。(**)
 しかし、「民族的ボルシェヴィキ」は、共産主義ロシアとの協働以上のことを願った。すなわち、政治的権力を集中し、対抗する政党を絶滅させ、自由市場を規制することによって、ロシアの統治システムをドイツが採用することを望んだ。
 ゲッベルスとシュトラサーは、1925年にナツィの日刊紙である Voelkischer Beobachter に、「社会主義独裁(socialist dictatorship)」の導入だけが混沌からドイツを救い出すことができる、と主張した。
 ゲッベルスはこう書いた。-『レーニンは、マルクスを犠牲にした。その代わりに、ロシアに自由を与えた』。(59)
 彼自身のナツィ党についてゲッベルスは、1929年に、「革命的社会主義者」の党だ、と書いた。(60)//
 ヒトラーは、こうしたイデオロギーを拒んだ。しかし、ドイツの労働者を社会民主党から離脱させるために社会主義的スローガンを用いるという範囲では利用した。
 ナツィ党の名にある「社会主義」および「労働」という形容句は、たんに人気のある言葉を詐欺的に使用したものではない。
 この党は、この世紀の初めの年代にチェコ人出稼ぎ労働者と競争するためにボヘミアで形成されたドイツ人労働者の団体から、成長した。
 ドイツ労働党(Deutsche Arbeiter Partei)、この組織はもともとはこう称していたのだが、この党の綱領は、社会主義、反資本主義および反聖職者主義をドイツ民族主義(nationalism)と結びつけたものだった。
 ドイツ労働党は、1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗った。
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 (*) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.44.
 1919-20年の冬に社会民主党の演説を聴く群衆の中のヒトラーを撮した写真が、Joachim Fest, Hitler (New York, 1974) の144~145頁の間に再掲されている。
 (58) Rauschning, Hitler Speaks, p.185.
 (+) ヒトラーは1941年月の演説で、率直にこう述べた-「根本的には(basically)、国家社会主義はマルクス主義と同一のものだ(the same)」。
 The Bulletin of International News (London), XVIII, No.5 (1941年3月8日)、p.269.
 (++) この用語は、1919年にラデックによって、侮蔑的な意味で作られた。
 この傍流的であっても興味深い運動に関する最良の研究書は、Otto-Ernst Schueddekopf, Linke Leute von Rechts (Stuttgart, 1960) 〔右からの左の者たち〕だ。
 (**) Schueddekopf, Linke Leute, p.87.
 共産主義は本当はロシアの民族的利益を表現するものだとの考えは、N. Ustrianov および1920年代初頭のロシア移住者のいわゆる「Smena Vekh」運動の理論家から始まる。同上、p.139 を見よ。
  (59) 以下からの引用。Max H. Kele, Nazis and Workers (Chapel Hill, N.C., 1972)、p.93.
 (60) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.25.
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1758/ナチスの反ユダヤ主義③-R・パイプス別著5章3節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク、1995)、第5章の試訳のつづき。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義③。
 
これら国外移住者(emigre)の中で最も悪名高いのは、ドイツ系出自のロシア将校、F・V・ヴィンベルク(Vinberg)だった。この人物のユダヤ人に対する強迫観念は、病的な程度にあった。(48)
 彼はロシア革命をユダヤ人人の、かつユダヤ人だけによる手仕事だと見なした。その出版物の一つの中に彼は、ほとんど全てはユダヤ人だと言われているとする、間違ったソヴィエト将官のリストを載せた。(49)
このような見方はたちまちにドイツの右翼グループに受け容れられた。彼らは、ドイツの敗北という苦渋をなめ、共産主義者の反逆に怯えていた。
 悪名高いユダヤ恐怖症のドイツ人と一緒に、<議定書>の最初の翻訳書をドイツで発行したのは、ヴィンベルクだった。
 1920年1月に発刊され、すぐに人気を博した。
 のちの数年の間にドイツには、数十万冊のこの本が溢れた。
ノーマン・コーンは、ヒトラーが権力を奪うまでにドイツで少なくと<も28版までが流通していた、と見積もる。(50)
 ほどなく、翻訳書がスウェーデン語、英語、フランス語、ポーランド語で出版され、その他の外国語版が続いた。
 1920年代に、<議定書>は、国際的なベスト・セラー本になった。//
 <議定書>のメッセージにとくに敏感だったのは、駆け出したばかりのドイツ国家社会主義党だった。この党は1919年の最初から病的な反ユダヤ主義を表明していたが、そのための理論的根拠を欠いていた。
 1919年に発表された最も初期のナツィ(Nazi)の綱領は、ドイツの敵として、第一にユダヤ民族、第二にベルサイユ条約、第三にマルクス主義者を掲げた。このマルクス主義者は共産主義者ではなく社会民主党を意味しており、ナツィス(Nazis)は、共産党とは友好的な接触を保っていた。(51)
 ユダヤと共産主義との連結は、<議定書>の助けで確立された。これがヒトラーの注目を惹いたのは、アルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)による、と言われている。
 ロシアで建築設計を勉強したバルト系ドイツ人の一人は、ロシアの旅券を持ち、ドイツ語よりも流暢にロシア語を話した。このローゼンベルクは、ヴィンベルクの考え方を支持するように変わり、それをナツィの運動へと接ぎ木した。そして彼は、ナツィ運動の主なイデオロギストとなった。
 ヴィンベルクによって彼は、ロシア革命はユダヤ民族が世界制覇をするために設計したものだった、と確信した。
 <議定書>は、未来の総統(Fuehrer)に対して圧倒的な印象を与えた。
 ヒトラーは、初期の同僚だったヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、こう語った。
 『「シオン賢者の議定書」を読み終わった。-全く唖然とした。敵が秘密的なこと、そして、いたる所にいること!
 私はすぐに、我々はこれを真似なければならないと分かった。-もちろん、我々の方法で。』(52)
 ラウシュニンクによると、<議定書>は、政治的な思いつき(inspiration)をする主要な情報源としてヒトラーに役立った。(53)
 こうしてヒトラーは、世界征服のためにユダヤ人の戦略に関する本当ではない手引き書を利用した。ユダヤ人はドイツの不倶戴天の敵だと叙述するためのみならず、その方法を採用して世界支配という彼自身の願望を実現するために。
 彼は、世界制覇の追求へのユダヤ人のいわゆる狡猾さに敬意を払ったので、彼らの「イデオロギー」と「プログラム」を完全に採用することに決めた。(54)//
 ヒトラーが反共産主義へと転じるのは、彼が<議定書>を読んだ後のことにすぎない。//
 『ローゼンベルクは、ナツィのイデオロギーの上に永遠の痕跡を残した。
 党は、1919年のその創立のときから病的な反ユダヤ主義だった。
 しかし、1921-22年だけは、ロシアの共産主義に夢中になった。
 そして、これは多くはローゼンベルクがしたことだったように思われる。
 ローゼンベルクは、ロシアの黒い百人組(the Black Hundred)のタイプの反ユダヤ主義と、ドイツの人種主義者の反ユダヤ主義とを、連結させた。
 もっと細かく言うと、ボルシェヴィズムはユダヤ人の陰謀だとするヴィンベルクの考え方を彼は採用したうえで、民族的・人種主義的(voelkisch-racist)な用語でもって再解釈した。
 それが帰結させた夢想は、数多くの記事や冊子で説明されているように、ヒトラーの思考とナツィ党の見解やプロパガンダにおける強迫観念的(obsessive、偏執症的)主題となった。』(55)//
 ヒトラーには大きくはつぎの二つの政治目標しかなかった、と言われてきた。ユダヤ民族の破壊と東ヨーロッパの生存空間(Lebensraum)への膨張。彼の政綱のその他の要素は全て、社会主義であれ資本主義であれ、これらの目標に達する手段にすぎなかった。(56)
 このようにして、祖国を襲った厄災についての生け贄(scapegoat、贖罪者)を世界ユダヤ民族の「隠された手」のうちに探して見出したロシアの過激派君主主義者たちの狂信は、やがてドイツの全権力を獲得することとなる党の政治イデオロギーへと注入された。
 ナツィによるユダヤ人絶滅のための理由づけは、ロシアの右翼グループに由来した。
 ユダヤ人の肉体的な絶滅を最初に公然と呼びかけたのは、ヴィンベルクとその仲間だった。(57)
 ユダヤ人のホロコーストは、こうして、予期されも意図されもしなかった、ロシア革命の多くの帰結の一つだったことが分かる。//
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 (48) この人物については、Walter Laqueur, Russia and Germany (ロンドン、1965年)、p.114-8. を見よ。〔ワルター・ラカー・ロシアとドイツ〕
 (49) F. Vinberg, Krestnyi put' I, 2nd ed. (ミュンヘン、1922年)、p.359-p.372.
 (50) Cohn, Warrant, p.293.
 (51) Laqueur, Russia and Germany, p.55.
 (52) Rauschning, Hitler Speaks, p.235.
 (53) 同上、p.235-6。
 (54) Alexander Stein, Adolf Hitler, Schueler der "Weisen von Zion" (カールスバート、1936年).〔アレクサンダー・シュタイン・ヒトラー-『シオンの流儀の生徒』〕
 (55) Cohn, Warrant, p.194-5.
 (56) Eberhard Jaeckel, Hitlers Weltanschauung〔ヒトラーの世界観〕 (テュービンゲン、1969年)。Kuhn, Das faschistische Herrschaftsystem 〔ファシストの支配体制〕のp.80 から引用した。 
 (57) Laqueur, Russia and Germany, p.115.
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 第4節へとつづく。つぎの表題は、「ヒトラーと社会主義」。

1757/ナチスの反ユダヤ主義②-R.パイプス別著5章3節。

 前回の試訳のつづき。p.255~p.257。
 なお、見出しに「別著」と記しているのは、R・パイプスの1990年の著、Richard Pipes, The Russian Revolution (ニューヨーク・ロンドン)とは「別著」であるR・パイプスの1995年の著、Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク)、という本の訳だという意味だ。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義②。
 このような展開について最大の責任があったのは、いわゆる<シオン賢者の議定書(Protocols of the Elders of Zion)>、これに関する歴史家であるノーマン・コーン(Norman Cohn)の言葉によるとヒトラーのジェノサイドのために『保証書』を与えた偽書、だった。(44)
 この偽造書の執筆者の名は、特定されていない。しかし、ドレフュス事件の間に1890年代のフランスで、反ユダヤの冊子から収集されて編まれたもののように見える。この冊子の刊行は、1897年にバーゼルで開催された、第一回国際シオニスト大会に刺激を受けたものだった。
 ロシアの秘密警察である帝制オフラーナ(Okhrana)のパリ支部は、これに手を染めていたと思われる。
 この本〔上記議定書(プロトコル)〕は、ある出席者から得られたとされる、特定できない時期と場所でユダヤ人の国際的指導層によつて開かれた会合の秘密決定、キリスト教国家を従属させユダヤ人の世界支配を樹立する戦略を定式化する決定、を暴露するものだと主張する。
 想定されたこの目標への手段は、キリスト教者たちの間に反目を助長することだった。ときには労働者の騒擾を喚起し、ときには軍事競争と戦争を誘発し、そしてつねに、道徳的腐敗を高めることによって。
 ひとたびこの目的を達成するや出現するだろうユダヤ人国家は、いたる所にある警察の助けで維持される、僭政体制(despotism)になるだろう。それは、穏和なものにする、十分な雇用を含む社会的利益がないばかりか、自由が剥奪された社会だ。//
 このいわゆる『議定書』は、最初は1902年に、ペテルブルクの雑誌に公刊された。
 そして、三年後、1905年の革命の間に、セルゲイ・ニルス(Sergei Nilus)が編集した、<矮小なる者の中の偉大なる者と反キリスト>というタイトルの書物の形態をとって登場した。
 別のロシア語版が続いたが、外国語への翻訳書はまだなかった。
 ロシアですら、ほとんど注目を惹かなかったように見える。
 きわめて熱心な宣伝者(propagator)だったニルスは、誰もこの本を真面目に受け取ってくれないと愚痴をこぼした。(45)//
 <議定書>をその瞠目すべき履歴に乗せたのは、ロシア革命だった。
 第一次世界大戦はヨーロッパの人々を完全な混乱に追い込み、彼らは、大量殺戮の責任を負うべき罪人を見つけ出したかった。
 左翼にとって、第一次大戦に責任がある陰謀者は『資本家』であり、とくに兵器製造業者だった。すなわち、資本主義は不可避的に戦争に至るとの主張は、共産主義の多くの支持者の考えを捉えた。
 このような現象は、陰謀理論の一つの変種だった。//
 別の、保守派の間で一般的だった考えは、ユダヤ人に向けられた。
 第一次大戦に対して他の誰よりも大きい責任のある皇帝・ヴィルヘルム二世は、戦闘がまだ続いている間にもユダヤ人を非難した。(46)
 エーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorf)将軍は、ユダヤ人はドイツが屈服すべくイギリスとフランスを助けたのみならず、「おそらく両者を指示した」と、つぎのように主張した。
 『ユダヤの指導層は、<中略>来たる戦争はその政治的、経済的目的、つまりユダヤのためにパレスチナに国家領土と一つの民族国家としての承認を獲ち取り、ヨーロッパとアメリカで超国家かつ超資本主義の覇権を確保すること、を実現する手段だと考えた。
 この目標に到達する途上で、ドイツのユダヤ人は、すでに屈服させていた諸国〔イギリスとフランス〕でと同じ地位を占めるべく奮闘した。
 この目的を達するためには、ユダヤの人々にとって、ドイツの敗北が必要だった。』(47)//
 このような「説明」は、<議定書>の内容を反復しており、そして疑いなく、その書の影響を受けていた。//
 ボルシェヴィキの、ユダヤ人が高度に可視的な体制による世界革命への激情と公然たる要求は、西側の世論が贖罪者を探し求めていたときに、発生した。
 戦後には、とくに中産階級や職業人の間では、共産主義をユダヤ人による世界的陰謀と同一視し、共産主義を<議定書>が提示したプログラムを実現するものと解釈するのが、一般的(common)になった。
 一般的な感覚〔常識的理解〕は、ユダヤ人は「超資本主義」とその敵である共産主義の二つについて責任があるという前提命題は拒んだかもしれないが、一方で、<議定書>の論法は、この矛盾を十分に調整することができるほどに融通性があった。
 ユダヤ人の究極の目的はキリスト教世界を弱体化することだと語られたので、情勢とは無関係に、彼らは今は資本主義者として行動でき、別のときは共産主義者として行動できるだろう、とされた。
 実際に、<議定書>の著者によれば、ユダヤ人は、自分たちの「弱い兄弟たち」を戦上に立たせるために、反ユダヤ主義と集団虐殺(pogrom)に助けを求めることすらする。(*)//
 ボルシェヴィキが権力を掌握して彼らのテロルによる支配を開始したのち、<議定書>は、予言書としての地位を獲得した。
 傑出したボルシェヴィキの中にはスラブ的通称の背後に隠れたユダヤ人がいる、という知識がいったん一般的になると、物事の全体が明白になるように見えた。すなわち、十月革命と共産主義体制は、世界支配を企むユダヤ人にとって、決定的な前進だった。
 スパルタクス団の蜂起やハンガリーおよびバイエルンでの共産主義「共和国」には多くのユダヤ人が関与していて、根拠地ロシアの外部でユダヤ人の権力を拡大するものだと理解された。
 <議定書>の予言が実現するのを阻止するためには、キリスト教者(「アーリア人」)は危険を認識し、彼らの共通の敵に対して団結しなければならなかった。//
 <議定書>は、1918-1919年のテロルの間に、ロシアでの人気を獲得した。その読者の中に、ニコライ二世がいた。(**)
 この書物の読者層は皇帝一族の殺害の後で拡大し、ユダヤ人は広く非難された。
 1919-1920年の冬に敗北した数千人の白軍の将官たちが西ヨーロッパでの庇護を探り求めたとき、ある程度の者たちは、この偽書を携帯していた。
 そのことは、この書物を有名にして、総体的にヨーロッパ人の運命と無関係では全くなく、共産主義はロシアの問題ではなくてヨーロッパ人もまたユダヤ人の手に落ちるだろう世界の共産主義革命の第一段階だと、ヨーロッパ人に警告するという彼らの関心に役立った。//
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 (44) Norman Cohn, Warrant for Genocide (London, 1967).
 (45) 同上、p.90-98。
 (46) R・パイプス・ロシア革命(1990年)、p.586。
 (47) Erich Ludendorf, Kriegsfuerung und Politik 〔E・ルーデンドルフ・戦争遂行と政治〕 (ベルリン、1922年)、p.51。
 (*) Luch Sveta Ⅰの<議定書>、第三部 (1920年5月)。 このような霊感的発想をするならば、ヒトラーが気乗りしていない兄弟たちをパレスチナに送るためにホロコーストを組織するのをユダヤ人が助けた、というテーゼをソヴィエト当局が許し、またそのことによってそのテーゼの信用性を高めた、というのはほとんど確実だ。 L.A.Korneev, Klassovaia sushchnost' Sionizma (キエフ、1982年) 。
 (**) アレクサンドラ皇妃は、1918年4月7日(旧暦)付の日記に、こう記した。
 『ニコライは、私たちにフリーメイソンの議定書を読み聞かせた。』(Chicago Daily News, 1920年6月23日、p.2。)
 この書物は、エカテリンブルクでのアレクサンドラの身の回り品の中から発見された。N.Sokolov, Ubiistvo tsarskoi sem'i (パリ、1925年)、p.281。
 前に述べたように、これはまた、コルチャク(Kolchak)のお気に入りの読み物だった。
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 ③へとつづく。

1756/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書⑤。

 小川榮太郞の昨年の著というのは、つぎだ。
 小川榮太郞・徹底検証「森友・加計事件」-朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪(飛鳥新社、2017.10)。
 小川はまた、同じく飛鳥新社を出版元とする、花田紀凱編集長の姓を名とする月刊Hanadaでしきりと朝日新聞を攻撃している。後者は、別に、<日本の保守>の項あたりで触れたい。
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 小川榮太郞もまた、言葉の厳密な使い方をしていないように見える。
 もまた、というのは、安倍晋三首相と同様に、という意味だ。
 3/19・20あたりの安倍首相国会答弁は、1年余り前の「かかわる」・「関係する」を「関与する」に変えているように感じる。
 関係すると、関与するは、意味・ニュアンスが異なる。
 つまり、<関与>の方が主体的・積極的だ。
 <関係>だと、意に反して<関係させられた>、<かかわったことになった>ということが語義上は認められると思われるが、<関与>の場合は、そのような語法が適切である可能性はより低いと考えられる。
 上の小川榮太郞著は、p.29で昨年2月17日のいまや有名な「間違いなく総理大臣も国会議員も辞める」の発言部分を引用している。
 一方で、小川は、こういう表現の仕方をする。
 p.1-①「森友学園問題、…は、いずれも安倍とは何ら関係のない事案だった。」
 p.5-②「朝日新聞自体が、…安倍の関与などないことを知りながらひたすら『安倍叩き』のみを目的として、疑惑を『創作』した」。 
 p.25-③「現実の政治を知れば関与などあり得ない-そういう地方案件が今回の森友の土地払い下げ問題」だ。
 安倍晋三首相の昨年の発言中の「かかわる」・「関係する」の真の意味は、<働きかけ>を含みうる「関与」だった可能性はあるだろう。対象を「この認可にもあるいは国有地払い下げにも関係していない」と明言していて、「日本会議」との関係を否定しているのでもない。
しかし、言葉それ自体としては、「関係」と「関与」は同じではない、というべきだ。これらを同じ意味で使ったのだとすれば、厳格さが足りないし、総理答弁としては不用意で、これに限っても「問題視」されうるのではないかと思われる。
 これと同様に、小川榮太郞もまた、上の①~③のように、「関係」と「関与」を意識的にかどうか、混用している。文学部出身の文芸評論家<あがりの政治評論家?>だとは思えない。
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 つぎに、前回に論及した、小川による佐川局長答弁の(結果としての)擁護・支持部分はつぎのとおり。p.43~p.44。小川が引用する佐川答弁(2017年2月24日)も、そのままここでも引用する。
 小川-「佐川は、交渉の詳細を幾ら質問されても、全て交渉記録は破棄して残っていないの一辺倒で通した」。
 A・佐川局長(当時)「…確認しましたところ、近畿財務局と森友学園の交渉記録というのはございませんでした。/面会等の記録につきましては、財務省の行政文書管理規則に基づきまして保存期間一年未満とされておりまして、具体的な廃棄時期につきましては、事案の終了ということで取り扱いをさせていただいております。」
 (同・つづき)「本件につきましては、平成28年6月の売買契約締結をもちまして既に事案が終了してございますので、記録が残っていないということでございます。」 
 B・小川榮太郞<いくつかに分け、適宜番号を付す>①「国の行政文書は、よほどの特例でない限り一年未満に破棄する規則がある。」
 ②「この規則は、森友、加計の二例に鑑みれば明らかに問題だ。二例とも国政と関係のない細かな行政事案で、記録がない為に国会が重大な遅滞を呈した。行政文書の保存基準は大幅に見直すべきだろう。」
 ③「だが、現状では佐川の答弁は規則通りで、特例ではない。」
 小川は財務省に対して批判的な記述もするが、ここの文書管理部分では明らかに、財務省・理財局・佐川局長を擁護・支持している-③。「現状」ではやむをえない旨を明記している。
 既述のように、不審をもったのは、奇妙だと「直感」したのは、この部分だ。
 立ち入っていくと、佐川答弁についてもいろいろと不思議なことが出てくる。
 しかし、とりあえず書けば、小川榮太郞は、財務省の行政文書管理規則あるいは現状である「行政文書の保存基準」を見て、きちんと精査したうえで、昨年秋に上の文章を書いたのか?(同じことは、この答弁を聞いたメディア関係者もなぜ吟味しなかったのか、と言える。)
 上の①は、対象を「行政文書」全体にまで拡張していて、文書管理のあり方自体を知らない、全くのウソだ。「行政文書」の定義もおそらく知らず、つぎの規則も見ず、堂々と書いているのが怖ろしい。
 財務省行政文書管理規則(・同細則)の読み方(解釈の仕方)は別の機会にでもさらに触れるだろうとして、「面会等の記録」は「一年未満」だとは前回言及の「別表第一」には少なくとも明記されていない(同細則でも同じ)。
 「別表第一」は正確にはまだあくまで「基準」であるので、大臣官房文書課または理財局内部での「文書管理者」が(局長であることがありうる)かなり個別的な決定をして「面会等の記録」は「一年未満」だと定め可能性がある。
 つぎを参照-「別表」 の「備考」/「六 本表が適用されない行政文書については、文書管理者は、本表の規定を参酌し、当該文書管理者が所掌する事務及び事業の性質、内容等に応じた保存期間基準を定めるものとする。」
 もう一つの不審は、「面会等の記録」と「売買契約締結」に関する文書を明確に分けることができるのか、だ。まず、面会「等」の「等」は何を含むのか不明瞭だが、貸付または売買(予定者又は具体的にその方向である者)の一方当事者と会うことや、話を聞くことを、ふつうはたんなる「面会」とは言わないように感じられる。すでに「交渉」だ。
 つぎに、より重要なのは、「売買契約締結」に関する文書の中に、「面会」を含めてもよいが、交渉過程、つまり当該契約締結に至るまでの過程はいっさい含まれないのか?だ。 
 これは、<含む>と解される。なぜなら、前回言及の財務省行政文書管理規則・別表第一の「28」の項の一つめの列の見出しは「…の実施に関する事項」だが、二つめの列には「国有財産の管理(取得、維持、保存及び運用 をいう。) 及び処分の実施に関する重要な経緯」 とある。そして保存期間30年とされる取得・処分にかかる文書の例として明記されるのが「売払決議書」だ。なお、貸付にかかる文書(例、貸付決議書)については、保存期間は、貸付期間終了後の10年とされている。
 小川榮太郞は佐川局長の言い分をそのまま信じて、本の叙述の前提にしているのだが、前提自体が怪しいと感じるべきだろう。感じないのは「ど素人」の証拠だ。すなわち、「面会等」あるいは「交渉」にかかる文書と「売買契約締結書」またはそのための「決裁文書」は明確に区別されてはいないし、区別してはいけないのだ(上記のとおり規則「本文」と一体である「別表」上に「重要な経緯」と書かれている。)
 前回にこの欄で紹介した、2017年2月24日午後の-佐川答弁より後の-菅官房長官発言は、すでに?なかなか的確だ(あるいは意味深?)だと思われる。
 「基本的には、決裁文書についてはは30年間保存するのだから、そこに、ほとんどの部分は記録されているのではないでしょうか」。
 佐川局長のつぎの言い分も、したがってまた、奇妙だ。
 「平成28年6月の売買契約締結をもちまして既に事案が終了してございますので、記録が残っていない。」
 2017年2月は「平成28年6月の売買契約締結」後の半年余の後だ。
 佐川局長は「面会等の記録」は「1年未満」で廃棄してもよいからそうしたのだ、という趣旨を言いたかったのだろう。
 しかし、「平成28年6月の売買契約締結」に関する文書自体は30年とされていることを、局長クラスが全く知らないとは想定し難い。
 この時点の佐川氏について、推測できるのは、つぎの二つのいずれかだ。
 A「売買契約締結」文書・決裁文書に「交渉過程・経緯」まで書かれていることを知らなかった。そして、迂闊にか、意識的にか、「面会等の記録」の中には書かれていたかもしれないが、廃棄して今はない、というストーリーにした。
 B 上のこと及びその詳細な内容をすでに知って驚き?、書き直し・改竄をすでに指示して、「交渉過程・経緯」を含む(前の)決裁文書が存在しないようにしていた(答弁時点で完璧に終了していたかは別として)。だからこそ、かなりの自信を持って、断定的に答弁できた。
 いずれについても、不思議さは残る。さらに言及する。
 小川榮太郞に戻ると、この人は、現実の政治や行政についての知識が乏しい、ということを自覚した方がよいと思われる。今回は書かなかったことで、そういう例、言葉遣いがまだ多くある。

1755/R・パイプス別著(ボルシェヴィキ体制下のロシア)第5章第3節。

 リチャード・パイプス『ボルシェヴィキ体制下のロシア』。計587頁。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (Vintage/USA, 1995).
 この本のうち、すでに試訳の掲載を済ませているのは、以下だ。
 ①p.240-p.253。第5章:共産主義・ファシズム・国家社会主義ー第1節・全体主義という概念。/第2節・ムッソリーニの「レーニン主義者」という出自。
 ②p.388-p.419。第8章:ネップ・偽りのテルミドールー第6節・強制的食糧徴発の廃止とネップへの移行。/第7節・政治的かつ法的な抑圧の強化。/第8節・エスエル「裁判」。/第9節・ネップのもとでの文化生活。/第10節・1921年の飢饉。
 ③p.506-p.507。終章:ロシア革命に関する考察ー第6節・レーニン主義とスターリニズム。
 上の①のつづきの部分(ヒトラーと社会主義との関係等)について、試訳を続行する。
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 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第3節・ナツィの反ユダヤ主義①。
p.253~。
 ボルシェヴィキとファシズムの出自は、社会主義だった。
 国家社会主義(National Socialism)は、異なる種子から成長した。
 レーニンの出身が位置の高いロシアの官僚階層の出身で、ムッソリーニのそれは疲弊した工芸職人階層であるとすると、ヒトラーは小ブルジョアの背景をもち、社会主義への敵意とユダヤ人への憎悪で充満した雰囲気の中で、青年時代をすごした。
 当時の政治的、社会的な理論に通じた熱心な読者だったムッソリーニやレーニンとは違って、ヒトラーは無知で、観察やときたまの読書や会話から知ったものを拾い上げた。
 ヒトラーには理論的な基礎がなく、意見と偏見だけはあった。
 そうだったとしてすら、最初にドイツの自由を排除し、つぎにヨーロッパじゅうに死と破壊を植え込んだ、そのような致命的な効果を与えて彼が用いることとなる政治的イデオロギーは、消極的にも積極的にも、ロシア革命によって奥深く影響されていた。
 消極的には、ロシアでのボルシェヴィズムの勝利とヨーロッパを革命化する企ては、ヒトラーの本能的な反ユダヤ主義と、ドイツ人を恐れさせる「ユダヤ共産主義」の陰謀という妖怪とを正当化した。
 積極的には、ロシア革命は、大衆操作の技術をヒトラーに教え、一党制の全体主義国家のモデルを提供することによって、ヒトラーが独裁的権力を追求するのを助けた。//
 反ユダヤ主義は、国家社会主義のイデオロギーと心理において、中心的で逸れることのない目標として独特の位置を占める。
 ユダヤ人恐怖症の起源は古典的太古にさかのぼるけれども、ヒトラーのもとで不健全で破壊的な形態を帯びたそれは、歴史上かつて見ないものだった。
 このことを理解するには、ロシアおよびドイツの民族主義運動に対するロシア革命の影響について記しておくことが必要だ。//
 伝統的な、20世紀以前の反ユダヤ主義は、もともとは宗教上の敵意によって強くなった。つまり、キリスト殺害者で、キリスト教の福音を頑強に拒む邪悪な人々だというユダヤ人に対する先入観。
 カトリック教会や一部のプロテスタント教派のプロパガンダのもとで、この敵意は、経済的な争いや金貸しで狡猾な商人としてのユダヤ人への嫌悪によって補強された。
 伝統的な反ユダヤ主義者にとって、ユダヤ人は「人種」でも民族を超える共同体でもなく、誤った宗教の支持者であり、人類への教訓として、故郷を持たないで(homelss)苦しみ、漂流するように運命づけられていた。
 ユダヤ人は国際的な脅威だとの考えが確立されるためには、国際的な共同社会が存在するに至っていなければならなかった。
 これはもちろん、世界的な商業と世界的な通信の出現とともに19世紀の過程で発生した。
 これらの発展は、地域と国家の障壁を超えて、近代までは相当に保護された自己完結的な存在だった共同体や国家での生活に対して、直接に影響を与えた。
 人々は、突然にかつ訳が分からないままに、自分たちの生活を支配することができなくなる感覚を抱き始めた。
 ロシアでの収穫が合衆国の農民の生活状態に影響を与え、あるいはカリフォルニアでの金の発見がヨーロッパでの価額に影響を与え、国際的な社会主義のような政治運動が全ての既存体制の打倒を目標として設定したとき、誰も、安全だと感じることはできなかった。
 そして、国際的な出来事が持ち込む不安は、全く自然なこととして、国際的な陰謀という考えを発生させた。
 ユダヤ人以上に誰がその役割をより十分に果たすのか?。最も可視的な国際的集団であるのみならず、世界的な金融とメディアで傑出した位置を占めている集団は誰か?。//
 ユダヤ人を、見えざる上位者の一団が統轄する、紀律のとれた超国家的共同社会とする見方は、最初はフランス革命の騒ぎの中で登場した。
 フランス革命への役割は何もなかったけれども、反革命のイデオロギストたちはユダヤを容疑者だと見なした。一つは、公民的平等を与えた革命諸法律によって彼らは利益を得たとの理由で、また一つは、フランスの君主主義者が1789年の革命についての責任があると追及したフリーメイソン(Masonic)運動と彼らは広くつながっているとの理由で。
 ドイツの急進派は、1870年代までに、全てのユダヤ人はどこに公民権籍があろうと秘密の国際組織によって支配されている、と主張した。この組織はふつうは、実際の仕事は慈善事業だった、パリに本拠がある国際イスラエル連合(the Alliance Israelite Universelle)と同一視された。
 このような考えはフランスで、ドレフュス(Dreyfus)事件と結びついて1890年代に一般的になった。
 ロシア革命に先立って、反ユダヤ主義は、ヨーロッパで広汎に受容されていた。それは主としては、パリア・カスト〔最下層貧民〕として彼らを扱うことに慣れていた社会で対等なものとしてユダヤ人が出現してきたことへの反作用だった。また、解放された後にすら同化することを拒むことへの失望によっていた。
 ユダヤ人は、その同族中心主義や秘密主義、いわゆる「寄生的」な(parasitic)な経済活動や「レバント」的(Levantine)挙措だと受け止められたことで、嫌悪(dislike)された。
 しかし、ユダヤ人に対する恐怖(fear)は、ロシア革命とともに生じた。そして、その最も厄災的な遺産であることが判明することになる。//
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 (秋月)今回の部分には注記はない。
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 ②へとつづく。

1754/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書④。

 今夕の日本テレビ/読売テレビ系番組で、しっかりと報道されていた。
 2017年2月24日午後の記者会見で、菅官房長官は、財務省の国有地売却等「決裁文書」の保存期間について、つぎのように明言していた。
 秋月瑛二が前回に「すでに私自身は判明させたつもりでいる」と書いたとおりだ。30年だ。
 そして、なぜこんな単純なことに誰も気づいていなかったのだろう、財務省の文書管理関係職員はきっと知っていたに違いない、と思っていた。
 私は知らなかったのだが、一年も前に政府高官・菅官房長官が、つぎのように語っていた。
 したがって、第一に、佐川元理財局長が、交渉に関する記録は「残ってございません」と答弁していたのは、虚偽だったと思われる。実際の決裁文書に「交渉過程」も記されていることを知らなかったのか?
 第二に、小川榮太郞著の<政治的偏見に満ちた>叙述も、間違いだったことが判明する。
 小川は、昨年の書物で、森友文書関連質問を受けて「面会等の記録(の保存期間)は1年未満だ」旨の佐川答弁をそのまま支持し、<廃棄してしまっていたことに何ら問題はない>と昨年の本で叙述していた。
 以下、菅官房長官・2017年2月24日午後記者会見にかかる、ネット上の映像・動画情報による。 http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201702/24_p.html -首相官邸ホームページ。
 記者質問「今日の予算委員会の方で、財務省の佐川理財局長が、森友学園と財務局側の交渉記録について、記録は残っていないと、事案が終了したのですみやかに廃棄されていると思うと答弁しているが、その点について、これは適当だと思うか」。
 菅官房長官「財務省においては公文書管理法の規定にもとづいて制定されている。
 そして、その財務省の行政文書管理規則にもとづいて国有財産の取得および処分に関する決裁文書については、30年の保存期間が定められている。
 ですから、30年間は保存するのです。
 一方で、面会等に関する記録文書については、その保存期間は1年未満とされている。そこで、具体的な廃棄がされている。その時期については説明したとおりだと思っている。」
 記者質問要旨/<面会等に関する記録についての1年未満を再検討する考えはないか>。
 菅官房長官「いずれにせよ、各省庁とも公文書管理法の規定にもとづいて行っているのだろう。そのことで、著しい弊害があるのであれば、また見直しする必要があると思うが、基本的には、決裁文書については30年間保存するのだから、そこに、ほとんどの部分は記録されているのではないでしょうか」。
 これの基礎にある、財務省側からこの日に資料提供を受けたのではないかと見られる、財務省行政文書管理規則の定めは、つぎのとおり。
 「第13条1項 文書管理者は、別表第1に基づき、標準文書保存期間基準を定めなければならない。
 2項 第11条第1号の保存期間の設定については、前項の基準に従い、行うものとする。」
 「別表第1・行政文書の保存期間基準」。
 <秋月注-以下は一部で、全体が表の形式をとっているため、表の最上部にある「列」の見出し-事項・業務の区分・当該業務に係る行政文書の類型・保存期間・具体例-を書き加え、かつ後の三者は一括して同じ行で記載する。いずれによ、実質的に原文ママ。> 
 『28・事項/国有財産の管理及び処分の実施に関する事項。
 業務の区分/国有財産の管理(取得、維持、保存及び運用をいう。)及び処分の実施に関する重要な経緯。
 当該業務に係る行政文書の類型 (令別表の該当項)/保存期間/具体例/
 ①国有財産(不動産に限る。)の取得及び処分に関する決裁文書/30年/・引受決議書 ・売払決議書。
 ②国有財産の貸付けその他の運 用に関する決裁文書で運用期間を超えて保有することが必要な文書/運用終了の日に係る特定日以後10年/・貸付決議書。
 ③国有財産の管理及び処分(① 及び②に掲げるものを除く。 )に関する決裁文書又は管理及び処分に関する重要な実績が記録された文書/10年/・行政財産等管理状況等監査報告。』
 この<保存期間>に関心をもったのは、小川榮太郞著が<「面会等の記録」は1年未満とされているのだから、文書が残っていなくとも何ら問題はない>と書いているのを、不審に思ったことによる。
 国有地の貸付・売却(処分)に関する「決裁文書」が「面会等の記録」の中に含まれるのか、1年未満というのはこの「決裁文書」についてはいかにも短かすぎるだろう、という直感による。
 小川榮太郞著の正確な引用と批判は、別の回に行う。

1753/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書③。

 一 「普通財産」とは、国公有財産のうち「行政財産」以外のものをいう(国有財産法。公有財産については、地方自治法)。以下は国有地に対象を限る。
 「行政財産」とは違って、原則的には民事上(の私人間取引)と同じ処理がなされる。しかし、「国有」であり「行政」権者としての「国」が管理・処分をするので、一私人のそれとは異なり、それなりの法的制約がある。
 だがしかし、一方で、対等当事者の契約によるというのが建前なので、厳格なまたは厳密な法的規制があるわけではない。
 「法治国家」、「法治行政」あるいは「法の支配」も具体的様相は多様であり、これらから、行政官による「法の機械的な執行」というイメージを導くのは誤り。「法の機械的な執行」でなければ<政治の圧力による>と理解するのも誤り。
 相手方の選択、価額、諸条件等について、関係法令を適正にかつ「機械的に執行」すれば、一律の結論が出てくる、というものではない。<それなりの法的制約>の具体的内容は、それこそ関係法令を見なければわからないし、正規の法令ではないがほとんど実務慣行の規準となっているような「内部規則」類も存在する。それらは、財務大臣あるいは実質的には局長等々のレベルで(実務の必要を充たすために)定められている。
 <忖度(そんたく)>というとすれば、その意味を明確にさせて、本来は用いるべきだろう。最も広く理解すれば、これは、考慮、斟酌、参酌、配慮等々と同じ意味だ。そして、<それなりの法的制約>の範囲内では、<それなりの考慮、斟酌、参酌、配慮等々>が実際には行われているし、それは場合によっては、あるいはむしろ通常は、必要なことだ。
 だからといって、<それなりの考慮、斟酌、参酌、配慮等々>がつねに適正で合理的とは限らず、種々の観点から、政治的観点からも(政治家による圧力等々が重要な動機となっている場合のように)、その合理性・正当性は検証されてよい。
 二 つぎに、「決裁文書」という概念について。
 <公文書管理法>(略称)という法律自体が、前回にも触れた<(行政機関)情報公開法(略称)を補完する重要な役割をもつものとして制定・施行された。
 この法律がいう「行政文書」の定義は、後者と全く同じ(公文書管理法2条4項)。
 情報公開(行政文書の開示)請求に対して、その情報・文書が存在しなければそもそも公開・開示できない。存在しない場合に非公開・不開示とすることを、情報公開法自体が認めている。
 それはそうだろう。ないものを、見せるわけにはいかないし、見せたくとも見せることができない。
 しかし、存在・不存在の判断自体が奇妙だと、存在してはいるが、<存在していないことにして>公開しない、というむろん本来許されない決定がなされる可能性がある。
 森友文書問題でも、都合の悪い(書き換え・改竄前の)文書を「存在しない」ものとして公開・非公開の判断をした事例があった、と報道されている。
 そうすると、「存在」するか否かは重要な問題だ。そして、行政機関に「行政文書」が<存在するように>、つまりは<作成>したり<保存>したりする義務を課すのが、情報公開法を補完するものとしての公文書管理法の重要な機能だ(それだけではないとしても)。
 しかし、この法律自体は「基本精神」と<公文書管理の基本的仕組み>を定めるだけで、「保存」についても、詳細は各省大臣等が定めるものとされる「行政文書管理規則」に委ねている(10条)。
 そして、おそらく全省庁について同様だろうが、この各省庁の「行政文書管理規則」の中に、「決裁文書」という概念が出てくる。しかも、本体の別表のかつ「備考」の欄で。
 財務省行政文書管理規則(大臣訓令。最新改正、2015年4月)は、上記の微妙な?箇所でこう定義する。
 「4 決裁文書 行政機関の意思決定の権限を有する者が押印、署名又はこれらに類する行為を行うことにより、その内容を行政機関の意思として決定し、又は確認した行政文書」。
 ここで「行政機関」とは財務省のことを意味する。「行政機関の長」は財務省の場合、財務大臣。
 この「決裁」の<内部委任>が通常の行政の多くの場合になされていることは、すでにこの欄に書いた。
 「決裁文書」という日本語をどのような意味で使おうともそれは自由なのだが、このように行政的?または公的には?定義されていることは知っておいても悪くないだろう。
 しかして、(決裁文書に限っても)いわゆる森友文書なるものの「保存期間」は、この「規則」(訓令)上はどう定められていたのか。廃棄されていて(=一定期間以上は保存する必要がなくて)存在しない、と言えるものなのか?
 これについては、たぶん次回に書く(すでに私自身は判明させたつもりでいる)。
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 資料・史料。2017年2月19日、安倍晋三首相・衆議院予算委員会答弁。 
 「私や妻」は、「もちろん事務所も含めて」、「この認可あるいは国有地払い下げ」に、「一切かかわっていない」。「もしかかわっていたのであれば」、「私は総理大臣をやめる」。/「繰り返」すが、私や妻が「関係していたということになれば」、「間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」。「全く関係ない」。

1752/スターリニズムの諸段階②-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.8-p.9。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階②。
 一方では、コミンテルンが、数年のうちにソヴィエトの外交政策と諜報の装置へと変質した。
 コミンテルンの政策は、適正であるかを問わず、国際状勢に関するモスクワの評価に合致するように揺れ動き、変化した。
 しかし、この変化は、イデオロギー、教理、あるいは「左翼」と「右翼」の違いとは、何の関係もなかった。
 例えば、ソヴィエト同盟の蒋介石やヒトラーとの協定、スターリンによるポーランドの共産主義者の虐殺、あるいはスペイン内戦へのソヴィエトの関与は、マルクス主義と合致するか、「左翼」または「右翼」政策を示すものだった。
 これら全ての動きは、ソヴィエト国家をどの程度強くするか、どの程度その影響力を増大させるか、に照らして判断することができる。しかし、それらを守るために付けられたいかなるイデオロギー上の根拠も、目的のために案出されたもので、イデオロギーの歴史上の意味はなかった。ソヴィエト国家の<存在理由(raison d'etat)>のための装置という役割を、いかに完全に辱めたかを示したこと以外には。//
 このように叙述したが、我々は、レーニン死後のソヴィエト同盟の歴史を三つの時期に区分してよい。
 第一は1924年から1929年で、ネップの時期だ。
 この時期には、私的商取引のかなりの自由があった。
 党の外にはもはや政治生活は存在しなかったが、指導者層の内部では純粋な論争と対立があった。
 文化は公的に統御されていたが、マルクス主義および政治的服従という制約の範囲内では、意見や討論の異なる諸傾向が許されていた。
 「真の(true)」マルクス主義の性格に関する討議は、まだ可能だった。
 一人の人物の独裁は、まだ制度化されていなかった。そして、社会のかなりの部分-農民、あらゆる種類の「ネップマン」-は、経済の観点からすると、まだ完全には国家に依存していなかった。
 第二の時期は、1930年から1953年のスターリンの死までで、個人的な専制、ほとんど完璧な市民社会の絶滅、恣意的な公的指示への文化の服従、そして哲学とイデオロギーの国家への編入、を特質とする。
 第三の時期は1953年から現在〔秋月注・この著刊行は1976年〕に至るまでで、我々が適正に考察すべき、それ自身の特質をもつ。
 どの特定のボルシェヴィキ指導者が権力をもつかは、一般的に言って、大して重要ではない。
 トロツキストは、むろんトロツキー自身は、彼が権力から排除されたことが歴史的な転換点だったと考える。
 しかし、これに同意できる根拠はないし、我々が見るだろうように、「トロツキズム(トロツキー主義)」なるものは存在しておらず、これはスターリンが考案した、空想の産物だった。
 スターリンとトロツキーの間の意見不一致は、現実に、ある程度まで存在していた。しかしそれは、個人的権力を目ざす闘争によって粗大に誇張されたもので、決して、二つの独立した、明瞭な理論にまで達するものではなかった。
 このことは、ジノヴィエフとトロツキーの間の論争についてもっと本当のことであり、のちのジノヴィエフとトロツキー対スターリンの対立についてもそうだった。
 ブハーリンおよび「右翼偏向者」とのスターリンの対立はより実質的だったが、それもなお、原理に関する論争ではなく、手段と、それを実行に移す行程表に関する論争にすぎなかった。
 1920年代の工業化に関する論議にはたしかに、工業と農業に関する実際的な決定に関して、したがって数百万人のソヴィエト民衆の生活に関して、大きな重要性があった。しかし、根本的な教理上の論争だと、あるいはマルクス主義またはレーニン主義の「正しい(correct)」解釈をめぐるものだと理解するのは、大袈裟すぎるだろう。
 全てのボルシェヴィキ指導者たちは、例外なく、問題に対する態度を急進的に変更したのであって、理論が明瞭に一体になったものだと、あるいは基本的なマルクス主義の教理の諸変形だと、トロツキー主義、スターリニズム、あるいはブハーリン主義を語るのは、無意味だ。
 (この問題に関して、イデオロギーに関する歴史家は、それ自体は二次的な、理解の仕方に関心をもつ。彼には、数百万の民衆の運命よりも教理上の立場の方がもっと重要なのだ。
 これはしかし、客観的な重要性のある問題ではなく、たんに職業上の関心物にすぎない。) 
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 第2節は終わり。

1751/「日本会議」問題としての森友問題と決裁文書②。

 片山さつきが某テレビ番組でふいに「よけつれい」という語を出していた。
「よけつれい」とは、間違いなく<予算決算及び会計令>(勅令→政令、1947年。2017年最終改正)のことだ。
 何の説明もなくこんな言葉を発するとは、時間不足のためもあろうが、視聴者・庶民には分からないかもしれないが、知らないだろうが、という感覚も感じさせられて、愉快にはならない。
 山口真由は別の某テレビ番組で率直に?、「キャリア」・「ノンキャリア」という語を使って、両者の行政・公務員感覚の違いを述べていた。
 これはこれで、そのような観点からのコメントを聞かないので、よいだろう。
 しかし、言葉不足があって、むろん山口真由が知らないはずはないが、財務省(・理財局)と同省近畿財務局の違いが「キャリア」と「ノンキャリア」の違いに該当するかのごとき誤解を生じさせかねなかった。
 本省にも「ノンキャリア」はいるし、近畿財務局にも「キャリア」はいる。
 「キャリア」組が<地方支分部局>の長を経て(渡り歩いて?)地方の実情と現場も知って(?)いずれ本省に戻ってくる、というのは、よく知られる。
 森友問題時代の近畿財務局長の迫田?という人物はいま、財務省の別の局長らしい。
 その他、八幡和郎も含めて、森友問題あるいは決裁文書改竄にかかる元「キャリア」のコメントを知るのは、なかなか面白い。
 さすがに行政経験からもよく知っている(ある範囲の問題については)と思うが、「上級行政官僚だった」ことについての<矜持>(・誇り)らしきものも、人によって同一ではないが、垣間見えて、この点も興味深い。
 ついでに書くと、第一に、文書処理に関して<公文書管理法>という法律に焦点があてられている印象もある。しかし、国会との関係以外に直接に対国民でも重要な関係法律に、<(行政機関)情報公開法>がある。
 これによると、「決裁」済み文書のみならず、<組織として行政のために用いた、用いている>文書(電子情報もこの場合は含む)も開示請求の対象になり、かつ、原則としては(この法律が定める「支障」等に該当する等の例外事由のないかぎり)請求者(国民)に開示しなければならない。
 第二に、<書き換え前>文書は「起案文書」あるいは「ドラフト(案)」ではなかったのか、という問題も提起されていたようだが、これは否定されたはずだ。
 なお、(最終)決裁文書に問題があるとすれば、もう一度決裁をやり直して、新しい、最々終の決裁文書を作成すればよいことになるはずだ(技術的な些細な修正ならやり直す必要もないかもしれない)。このことは否定できないだろう。
 しかし、<最々終の決裁文書>を作成しても、その前の<最終の決裁文書>の存在を否定・消去できるわけではない。
 本当に最後の「決裁」文書でなくとも、存在していれば、上記のとおり、情報公開請求の対象にはなる。
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 「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もしかかわっていたのであれば、これはもう私は総理大臣をやめるということでありますから、それははっきりと申し上げたい、このように思います。/
 繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。全く関係ないということは申し上げておきたいと思います。」
 池田信夫が適切に指摘しているように(3/14)、この安倍晋三首相国会答弁をどう<理解>するかは、同首相又は同夫人が「かかわっていた」とか「関係していた」という言葉の意味にかかわる。
 曲解しなくとも、言葉をふつうに理解するかぎりは、「かかわっていた」・「関係していた」ことにはなるだろう。
 「(直接の)働きかけ」とか、「直接の関与」という言葉を安倍晋三は用いなかったのだから。
 この答弁の当日(昨年2月)の報道によってだろう、随分と思い切ったことを言っているな、という感想を自分が抱いたことは明確に記憶している。
 したがって、この答弁の<正確な意味・意図>が問われなければならないし、また、少なくとも安倍首相の不用意・迂闊さ(あるいは傲慢・慢心?)は指摘されなければならないだろう。
 八幡和郎は、池田信夫と同じブログ・サイトで、つぎのように書く(3/13)。
 「森友問題の本質は、文書改竄ではない。籠池さんという厄介な人にいろんな人が振り回されて、苦し紛れに、少し安すぎるかもしれない価格で国有財産を売り渡したというだけのことである。」
 これは少し違う。第一に、決裁文書の扱い方、という<行政>上の基本問題がある。
 第二に、森友某氏の娘と結婚した籠池某氏という「厄介な人」が少なくともかつて「日本会議」に属していて(日本会議もこれを否定してはいない。日本会議大阪の役員だったようだ)、この籠池某氏が「日本会議」の名(知名度?、権威?)を少なくとも<利用>したことは間違いないだろう。
 そうでなければ、竹田恒泰や安倍総理夫人は関係する小学校での講演などしなかっただろう。ましてや、経緯はあっても、強く固辞しても、最終的に「名誉校長」にはならないだろう、と普通人の私は感じる。
 <政治>的には、森友問題は「日本会議」問題だ。「日本会議」問題としての森友問題なのだ。むろん、安倍首相と「日本会議」には「関係がある」ことが前提。
 だからこそ、日本共産党も朝日新聞も躍起になって突き、叩こうとしている。
 小川榮太郞が昨年以来の各種報道は<朝日新聞の謀略>だつたと言いたい気持ちは分かるし、実際に間違いなく、日本共産党や朝日新聞の<謀略>的な政治姿勢・報道姿勢はある(なお、朝日新聞社内には日本共産党の党員もいる)。
 しかしまた、<安倍晋三あるいは安倍政権は絶対に誤らない>はずだというのも、一つの<謀略>観に似た<思い込み・観念>なのであり、<反・朝日新聞>史観?・政治観?にだけ頼るのも、危険だ。
 小川榮太郞の書物を、森友問題の「勉強」のためにいま読んでいるのだが、この本の主張内容もまた、(興味深いという意味で)面白い。
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 なお、日本共産党と「日本会議」が(まして朝日新聞と「日本会議」が)真正面から対立しているとは、秋月瑛二は考えていない。そう理解してはいない。
 180度反対では全くなく、せいぜい45度以下の、30-35度程度の角度の開きしかないだろう。
 しかし、もちろん、「日本会議」-安倍晋三と朝日新聞・日本共産党が正面から対立している「ように見えている」現実はある、ということは承知している。

1750/スターリニズムの諸段階①-L・コワコフスキ著1章2節。

 試訳の前回のつづき。分冊版第三巻、p.5-p.8。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /第三巻=3.The Breakdown.

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 第2節・スターリニズムの諸段階①。
 全ての時代を諸段階に分かつのは、ソヴィエト歴史学者の一つの熱狂心(マニア、mania)だ。
 しかし、とくに境界の画定がイデオロギー上の根拠にもとづいている場合には、その手続をとるのは正当なことだ。//
 スターリニズムはたんにソヴィエトのではなく世界的な現象だったので、その多様な姿は、ロシアの国内政治や党派的対立の観点からだけではなく、コミンテルンおよび国際的ボルシェヴィズムの観点からも考察しなければならない。
 しかしながら、各時期を相互に関連づけること、したがってまた、その術語方法には、困難がつきまとう。
 トロツキストや元共産党員は、ソヴィエト史を「左翼」段階と「右翼」段階に区別する習癖がある。
 1917年直後の、内戦と世界革命の希望で占められた時期は「左翼主義」だとされ、世界全体での「資本主義の一時的な安定」を党が承認したネップ(N.E.P)という「右翼主義」の時期が続くとされる。
 そして、1928-29年の「左翼への揺れ(swing)」が到来し、党はこの安定は終わったと宣言する。
 「革命の潮目」がもう一度始まり、社会民主主義は「社会ファシズム」だとして非難され、闘争相手になる。そして、ロシアは、民衆の集団化と強制的産業化を視ることになった。
 この段階は、ファシズムに対する人民戦線のスローガンのもとで「右翼主義」政策が採用された1935年に終わった、と考えられている。
 これらの連続した変化は、ロシアの指導者層の間の党派的かつ個人的な内部闘争と関連していた。
 スターリン、ジノヴェフおよびカーメネフによる支配は、トロツキーの政治的排除へと至った。
 ついで、ジノヴェフとカーメネフは、ブハーリン、リュコフおよびトムスキーのために追放された。
 そして1929年にブハーリンが追い出され、ボルシェヴィキ党の中での有効な意見不一致は終わりを迎えた。//
 しかしながら、このような年代史的叙述は、「左翼」と「右翼」という語の曖昧でかつ恣意的な用い方を別に措くとしてすら、困難さに満ちている。
 概念用法に関しては、「社会ファシズム」のスローガンはなぜ「左翼」で、蒋介石(Chiang Kai-shek)との妥協の試みはなぜ「右翼」なのかは明確でない。
 あるいは、大規模の農民迫害がなぜ「左翼」で、政治目的のための経済的手段はなぜ「右翼」なのか。 
 もちろん、政治がテロルをより多く含んでいればいるだけ「左翼」的だということが前提にある、と言うことはできる。-この原理的考え方は今日でも頻繁に用いられており、しかも共産主義者の公刊物においてのみではない。そして、「左翼主義」という伝統的な観念によって何を意味させているのかを理解するのは困難だ。
 この点はさておき、コミンテルンの政策の変化とソヴィエト国内の政治やイデオロギーの異なる局面との間にいかなる相互連関があったのかは、明瞭でない。
 ヨーロッパの社会民主主義はファシズムの一部門だとのいわゆる「左翼主義者」の主張は、ジノヴィエフによって案出され、遅くともすでに1924年には通用していた。
 社会民主主義に対するコミンテルンの闘いは、ロシア農業の強制的集団化が考案されるよりもかなり前、1927年に強化された。
社会民主主義に対する反対運動を中止してそれとの同盟を繕い直す不細工な努力がなされた1935年には、ソヴィエト同盟ではすでに民衆の政治的抑圧の波が存在しており、新しい、より怖ろしい抑圧がまさに始まろうとしていた。//
 要するに、「左翼」や「右翼」という技巧的標識である用語によってソヴィエト同盟の歴史を提示するのは、意味のないことだ。それは、ある場合には、馬鹿げた諸結論を導く。
 政治局(Politboro)の変化を歴史的転換点だと解釈するのも、適切ではない。
 レーニンの死後の時期に、一定の政治的およびイデオロギー的特質が、着実により顕著になった。他のものは、状勢次第での重要なことに揺れ動いている間に。
 体制の全体主義的性格-すなわち、市民社会の破壊の進行、社会生活の全態様の国家による統合-は、1924年から1953年までの間、ほとんど遮られることなく増大した。そして、確実に、私的所有と取引への譲歩にかかわらず、ネップよって縮小することはなかった。
 我々が見たように、ネップ(N.E.P)は、軍隊と警察という手段によって経済全体を作動させるという政策からの退却であり、経済の破滅が切迫しているとの見込みによって余儀なくされたものだ。
 しかし、政治的対抗者に対するテロルの使用、党内部での厳正さや脅迫の増大、哲学、文筆、芸術そして科学に対する自立性の抑圧と強制の増大-これらは全て、ネップの全期間を通じて深刻化し続けた。
 こうした観点からは、1930年代は、レーニンが生きている間に彼の指令のもとで始まった過程を強化し、高めたものにすぎなかった。
 無数の犠牲者を出した農業の集団化は、まさしく、転換点だった。
 しかしこのことは、体制の性格の変化、あるいは「左翼への揺れ」をもたらしたがゆえにではない。そうではなく、それ〔農業の集団化〕が決定的な重要性のある一つの部門で、根本的な政治的かつ経済的な全体主義の原理を強要したのが理由だ。
 農業集団化は、ロシアのきわめて多数の社会階層から財産を完全に剥奪し、農業への国家統制をひとたび全てのために確立し、何らかの程度で国家から自立していた共同体(community)の最後の部門を絶滅させ、無制限の権力をもつ東方の総督カルト(oriental cult of the satrap)の基礎を築いた。そして、飢饉、民衆の虐殺、数百万の死という手段によって、民衆の精神(spirit)を破壊し、抵抗の最後の痕跡を消去した。
 これは、疑いなく、ソヴィエト同盟の歴史上の画期的なこと(milestone)だった。しかし、それは、その根本的な原理、すなわち国家が課したり規制したりしていない全ての形態の政治的、経済的および文化的生活の廃絶、を継続するもの、あるいは拡張するものだつた。//
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 ②へとつづく。

1749/スターリニズムとは何か②-L・コワコフスキ著3巻1章1節。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 試訳の前回のつづき。分冊版第3巻、p.3-p.5。
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第1節・スターリニズムとは何か②。
 スターリニズムの歴史は、詳細な諸点に関しては議論があるにもかかわらず、広く知られていて、多くの書物で適切に叙述されている。
 この著のこれまでの二つの巻でのように、この著の主要な対象は、教理(doctrine)の歴史だ。
 政治の歴史は、その中でイデオロギーの生命が進展した大枠を示すに必要なかぎりで、簡単に叙述されるだろう。
 しかしながらスターリン時代では、教理の歴史と政治的事件の間の連環は、以前よりも密接だ。我々が研究しなければならない現象は権力の装置としてのマルクス主義を絶対的に制度化したもの(institutionalization)だからだ。
 まさに、この過程は早くから始まった。
 それは、マルクス主義は「党の世界観」でなければならない、言い換えれば、マルクス主義の内容は個々の局面での権力闘争の必要に応じて決定されなければならない、とするレーニンの考え方にまでさかのぼる。
にもかかわらず、レーニンの政治的な日和見主義は、一定範囲で教理上の考慮によって制限された。
しかし他方でスターリンの時代には、1930年代の早くから、ソヴィエト政権およびそれが行う全てのことを正当化し賛美する目的のために、教理は絶対的に従属した。
 スターリンのもとでのマルクス主義は、言明、考え、あるいは概念をいくら収集しても定義することができない。
 何がマルクス主義であり何がそうでないかを全ての時点で宣告することのできる、全権の権威が存在した、ということ以外には、前提命題に関する疑問はなかった。
 「マルクス主義」とは、多かれ少なかれ、問題についての権威、すなわちスターリンの現在の見解以外の何ものをも意味しはしなかった。
 例えば、1950年6月までは、マルクス主義者だということは、とりわけ、N・Y・マッル(Marr)の哲学理論を受け容れることを意味した。そして、その日以降は、その理論を完全に拒否することを意味した。
 何か特別の思想-マルクス、レーニン、あるいはスターリンのでも-が正しい(true)と考えるがゆえにマルクス主義者だったのではなく、至高の権威者がきょう、明日あるいは一年のあるときに宣告するだろうものを何であっても受け容れる心づもりがあるがゆえに、マルクス主義者だったのだ。
 こうした制度化と教条化の程度は以前は全く見られなかったもので、1930年代にその頂点に達した。しかし、明らかにその根源への痕跡は、レーニンの教理へとたどることができる。  
マルクス主義はプロレタリア政党の世界観であり道具であるので、「外部から」どんな異論が挟まれても、それを無視して、何がマルクス主義であり何がそうではないかを決定するのは党だ。
 党が国家および権力装置と同一視され、それは一人の人物の僭政のかたちをとって完全な一体性を達成するならば、教理は国家の問題になり、僭政体制は不可謬だと宣せられる。
 じつに、マルクス主義の内容に関するかぎり、スターリンは実際に不可謬<である>のだ。
 党はプロレタリア-トが発言する口としての権能をもって主張し、ひとたび一体化を達成した党は、独裁者たる人物に具現化される指導性を通じてその意思と教理を表現するのだから。
 このようにして、プロレタリア-トは歴史的に他の全階級とは対照的な指導階級であり、客観的な真実の所持者であるという教理は、「スターリンはつねに正しい(right)」という原理へと変形された。
 このことは実際、党を労働者運動の前衛だとするレーニンの考えと結びつけられたマルクスの認識論を歪曲するものでは全くない。 
 真理(truth)=プロレタリアの世界観=マルクス主義=党の世界観=党の指導者たちの声明=最高指導者の声明、という等号化は、レーニンのマルクス主義に関する理解の仕方と完全に合致していた。
 我々は、スターリンがマルクス=レーニン主義と名付けて洗礼を施したソヴィエト・イデオロギーの最終的表現が見出されるこの等式化の過程を、追跡するよう努めるだろう。
 スターリンは、二つの別々の教理があると意味させていただろうマルクス主義<および>レーニン主義ではなく、このマルクス=レーニン主義という語を選択した、ということは重要だ。
 この複合表現は、レーニン主義は-マルクス主義のレーニン主義ではない別の形態があるかのごとく-マルクス主義内部での独自の傾向ではなく、傑出した(par excellence)マルクス主義であり、マルクス主義を新しい歴史の時代に展開し適合させた唯一の教理だ、ということを意味させた。  
 現実に、マルクス=レーニン主義は、スターリン自身の教理にマルクス、レーニンおよびエンゲルスの著作から彼が選んで引用したものを加えたものだった。
 マルクス、レーニンあるいはスターリン自身のですら、これらから随意に引用する自由が、スターリン時代に誰にもあった、などと想定してはならない。
 マルクス=レーニン主義とは、独裁者がいま権威を与えている引用句でのみ成り立つもので、その教理に合致するようにスターリンは発表していたのだ。//
 スターリニズムはレーニン主義の本当の(true)発展形だと主張するが、私は、それでスターリンの歴史的重要性を過小評価するつもりはない。
 レーニンの後、そしてヒトラーの傍らに並んで、スターリンは確実に、第一次大戦以降のどの人物よりも、いま現にある世界を形成する多くのことをした。
 にもかかわらず、党と国家の単一の支配者になったのは他のいずれのボルシェヴィキ指導者でもなくスターリンだったということを、ソヴィエト体制の本質によって説明することができる。
 スターリンの個人的な性格は対抗者たちに勝利するのに大きな役割を果たしたが、それ自体はソヴィエト社会の基本路線を決定したのではない、との見解がある。この見解を支持するのは、スターリンはその初期の経歴の間ずっと、ボルシェヴィキ党の中の急進派に属していなかった、ということだ。
 また一方では、スターリンは穏健派的人物で、彼は党内部の論争においてしばしば、良識や慎重さの側に立った。
 要するに、僭政君主としてのスターリンは、その創設者以上にはるかに、党が創出したものだった。スターリンは、抗しがたく個人化されていく体制を人格化したものだった。//
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 第1節、終わり。次節の表題は「スターリニズムの諸段階」。

1748/田久保忠衛・日本会議会長は平然とウソをつく。

 「日本会議」のウェブサイト上に「平成29年(2017年)03月15日」付けの、日本会議会長・田久保忠衛の名による、「日本会議への批判報道を糾す」という文章が掲載されている。月刊Hanada(飛鳥新社)2016年8月号に掲載のものに加筆したものだというが、後者で確認しても、ここで秋月瑛二が問題にしたい部分には変更がなく、全く同じだ(後者p.32~のうち、p.35)。。
 どちらを見てもよいのだが、日本会議会長・田久保忠衛は、憲法改正・九条問題についてこう明記している。
 ①「そもそも、改憲論者で第九条の二項を変えようという者はいるが、一項を変えようという者はいない。
 そして、日本国憲法現九条一項と二項を引用したうえで、②「読めばわかるように、一項は『侵略戦争をしない』との意味で、これに反対する人はいまい。しかし、二項のままでは自衛隊は軍隊ではない」、と説明する。
 上の①は、「改憲論者」の中には九条「一項を変えようという者はいない」ということ。
 これは、全くのウソ、全くのデマだ。しかも、田久保忠衛が自身が「改憲論者」だとすれば、この人は自分自身がしたことを意識的に無視しているか、呆然として忘れている。
 産経新聞・同社は、月刊正論編集部も含めて、「改憲」支持派だろう。
 しかして、産経新聞のウェブサイトにも載っているが、現「一項を変えようとする」憲法改正案を堂々と発表している。
 2013年(平成25年)春に発表された、産経新聞社「国民の憲法」草案要綱は、現在の第二章を第三章とし、表題を「国防」と改めて、つぎの条文を提案した。
 「第一五条(国際平和の希求) 日本国は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国が締結した条約および確立された国際法規に従って、国際紛争の平和的解決に努める。
 第一六条(軍の保持、最高指揮権) 国の独立と安全を守り、国民を保護するとともに、国際平和に寄与するため、軍を保持する。
  2 軍の最高指揮権は、内閣総理大臣が行使する。軍に対する政治の優位は確保されなければならない。
  3 軍の構成および編制は、法律でこれを定める。」
 この15条、16条が現行の9条全体に代わるものとして提言されていることは、ここで子細を書くと面倒なので避けるが、明らかだ。
 そして、<「国民の憲法」要綱全文と解説>のうちの解説は、つぎのように叙述する。「」は直接の引用。
 「侵略のための武力行使の放棄や国際平和に努める『平和憲法』は外国の憲法でも珍しくない。こうした現状を踏まえ、現行憲法第9条1項前段にうたわれた「国際平和の希求」は今後も堅持すべきだと結論づけた。
 ただ、同項後段にある武力行使を禁止した件には疑問が出された。ある委員は、現行規定をそのまま残し、国際社会にも武力行使を慎むよう期待を表明する条文を提案した。
 最終的には単に『戦争を放棄する』とした『消極的平和主義』から、紛争の平和的解決や国際平和の実現にわが国が尽くしていく『積極的平和主義』に立脚した表現に改められた。」
 これについて、田久保忠衛は「一項を変えようという」ものではない、あるいは一項の「平和主義」は変わらない、と理解するのかもしれない。
 しかし、<一項を変える>ということの意味にもかかわるが、<消極的平和主義>から<積極的平和主義>へと変えるものであることは明言されている。また、現在の「同項後段にある武力行使を禁止した件には疑問が出された」という委員の意見が最終的には生かされたかたちになっている。
 なお、現九条一項は、つぎのとおり。念のため。
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
 ところで、田久保忠衛は上の産経新聞「国民の憲法」案起草委員会の委員長だった
 その田久保忠衛が上のように「一項を変え」るものではない、と理解するのは無理であるのは、田久保自身の著のつぎの文章からも明らかだ。また、「武力行使を禁止した件には疑問」があるとしたのは、田久保自身である可能性がある。
 田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)。
 田久保自身が、こう明記する。p.175。
 「産経新聞社の『国民の憲法』要綱は」、「現行憲法第一項を含めて全文を改め」(ここで上記15条・16条を挿入)「…と規定した」。
 これは、田久保が2016年・2017年そして現在の、「そもそも、改憲論者で第九条の二項を変えようという者はいるが、一項を変えようという者はいない」という理解・主張と合致するか?
 田久保自身が、「一項を変えようという」、「改憲論者」なのではないか。少なくとも2013年時点および上の著刊行の2014年時点では、そうだったのではないか。
 そして、日本会議会長としての2016年以降の上掲文章は、真っ赤なウソはないか。
 追記すると、上の2014年著で田久保は、「第一項を含めて全文を改め」る必要を、一項について、森本敏の指摘に「全く同感」だとして、つぎの二点を述べる。以下は、抜粋・要約的引用。
 第一。「国連多国籍軍」のような「集団的安全保障に参加」できるかが疑問。「第一項をそのまま残」すと「国際紛争にかかわる集団的安全保障に参加できないことになる」。
 第二。集団的自衛権行使容認に「法制局解釈」が改められると「日本は米国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する場合、米国が多国籍軍に入っているときに、日本はどうするか」という問題が生じる。「第一項がある限り、日本は動きがとれなくなってしまう」。
 立ち入らないが、現一項(と二項の関係)の解釈自体や現行の平和安全法制が容認する<フル・スペックではない>集団的自衛権行使の具体的態様にかかる解釈・現実運用、「米国が多国籍軍に入っているとき」ということの意味・可能性の問題でもあるだろう。
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 田久保忠衛は、日本会議系とされる<美しい日本の憲法をつくる国民の会>の共同代表を櫻井よしことともに務めている。
 そして同会の冊子やウェブ上の現九条一項・二項に関する考え方と、上の産経新聞社の改正草案要綱や田久保・上掲書の考え方は一致していない、同じことだが矛盾していると、この欄ですでに指摘したことがある。
 №1275/2015.01.22、№1494/2017.04.11
 日本会議会長としても、田久保忠衛は、自分自身の過去の見解を無視して(あるいは呆然と忘れて)、平然とウソをついているのだ。
 憲法改正問題、とくに九条問題にはいまや大きな関心はないのだが、こんな<大ウソ>が吐かれていることを知って、記しておく気になった。
 なお、自民党の公式の現在の改正案は(その前の<桝添要一委員長>を経た改正案も)、および読売新聞社の憲法改正草案は、現一項を(上の産経新聞社案と違い、基本的には)そのまま残すこととしている。
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 上の産経新聞社の現九条関係の<解説>は、他にも興味深いことを述べている。
 以下に引用する。
 「現行憲法第9条2項の「…<中略>」との条文を全面的に見直し、現存する自衛隊を軍として明確に憲法に位置づけることにも、全委員が賛成した。」
 これは、昨2017年5月の<二項存置・自衛隊明記>という安倍晋三自民党総裁提言に正面から反対することを意味する。しかし、産経新聞はこの提案をどう受け止めたか?
 もちろん、2013年と2017年という違いはある。それに、何と言っても<安倍晋三首相>の提言なので、産経新聞社がかつては会社としても採用したはずの改正案起草委員全員による二項<全面見直し>論を捨ててしまった、としても無理はないだろう。

1747/江崎道朗・コミンテルンの…(2017)⑥。

 江崎道朗はわが国の2014年の特定秘密保護法について、下の著の当該箇所でこの法律に反対せず、むしろこれを前提として、「特定秘密」を入手する者の中に「スパイ」がいる場合の危険性を、戦前にゾルゲ事件と密接にかかわった「ソ連のスパイ」尾崎秀実を例に挙げて指摘している。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.08)、p.34-35。
 この江崎の著が加藤哲郎・ゾルゲ事件(平凡社新書、2014)の一部を肯定的に引用し江崎の本の二頁余も下敷きとして用いていることは、すでにこの欄で触れた。同上、p. 387-9。
 加藤哲郎はいかなる関心からゾルゲ事件について探求し、また、上記の特定秘密保護法をどう見ているのか? 
 加藤・上掲書の「あとがき」p.243は、この書の意図はゾルゲ事件にかかる「通説、通説的イメージに挑戦」することだとし、戦前特高警察・裁判記録等によるストーリーを疑問視する、と明記している。江崎道朗・上掲書とは、関心が大きく異なるようだ。
 また、特定秘密保護法について、加藤はこう書く。p.245-6。
 特定秘密保護法を支持する「世界一の発行部数」の新聞社の某論者は、「ゾルゲ事件を引き合いに出して、明らかに特定秘密保護法制定のために利用しようとしている」。
 江崎は、特定秘密保護法の限界を尾崎秀実等の「ゾルゲ事件」犯罪者に言及して指摘する。
 加藤は、ゾルゲ事件に論及して特定秘密保護法を支持しようとする議論に反撥する。
 両者は、ほとんど真逆の立場にいる。
 なお、加藤は「安倍晋三首相の靖国神社参拝」に批判的であることも明らかにしている(p.247)。加藤哲郎は、日本共産党員ではなくなっていても、「左翼」ではあるのだ。
 さて、当然の疑問に行き着く。
 江崎道朗は、いかなる意味で、いかほどの吟味を行った上で、その自分の著で加藤哲郎の上掲書を肯定的に引用しかつ下敷きにしているのか?
 答えはおそらく、単純だろう。
 江崎道朗は加藤哲郎がどういう学者・研究者であるかを知らず、詮索しようともしていない。ひょっとすれば一橋大学名誉教授という「肩書き」にだまされている可能性がある。。
 かつまた、加藤・上掲書の「あとがき」部分に全く目を通していない。この部分を読めば、江崎道朗の少なくとも特定秘密保護法についての見方やゾルゲ事件への関心とは異なるそれらの持ち主であることは明らかだ。
 江崎の本の最後の方に加藤の本への言及が出てくるのを見ると、執筆時間の最後の方になって加藤の本から急いで<江崎のストーリーに都合のよいところだけ>抜き出したのだろう。あるいは、『ゾルゲ事件』と題打つ近年の新書を無視してはマズいと判断したこともあるかもしれない。
 こうした、参照または利用文献の処理のいいかげんさは、江崎道朗の上掲書の中に随所に見られる。この後も、余裕があれば、いくらでもこの欄で指摘する。
 ところで、加藤哲郎はいわば<左派>の「インテリジェンス」研究者を目ざしているようだ(加藤・p.247)。
 江崎道朗は、2017夏の書物で安易に加藤哲郎の本を基礎にしている。
 この江崎に「インテリジェンス」の重要性を説く資格があるのだろうか?
 この加藤の本に関する例は、わずかな一端だ。
 江崎道朗もまた、戦後日本を覆う「インテリジェンス」活動にすでに敗北してしまっている、と思われる。その例もまた、余裕があれば、この欄で指摘する。

1746/スターリニズムとは何か①-L・コワコフスキ著3巻1章。

 もともとロシア革命等の歴史をもっと詳しく知っておこうと考えたのは、日本共産党(・不破哲三)が1994年党大会以降、レーニンは「ネップ」路線を通じて<市場経済を通じて社会主義への途>を確立したが、彼の死後にスターリンによってソ連は「社会主義を目指す国家」ではなくなった、レーニンは「正しく」、スターリンから「誤った」という歴史叙述をしていることの信憑性に疑いを持ち、「ネップ(新経済政策)」期を知っておこう、そのためにはロシア「10月革命」についても、レーニンについても知っておこうという関心を持ったことに由来する。元来の目的は、日本共産党の「大ウソ・大ペテン」を暴露しようという、まさに<実践的な>ものだった。
 不破哲三(・日本共産党)によるレーニン・「ネップ」理解の誤り(=捏造)にはとっくに気づいているが、最終の数回の記述はまだ行っていない。
 もともとはスターリン時代(この時代のコミンテルンを含む)に立ち入る気持ちはなかった。それは、日本共産党もまたスターリンを厳しく批判しているからだ。但し、以下のL・コワコフスキ著の第三巻の冒頭以降は、スターリンに関する叙述の中でレーニンとスターリンとの関係や「ネップ」に論及しているので、しばらくは、第三巻の最初からの試訳をつづけてみる。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第一章から第三章までの表題と第一章の中の各節の表題は、つぎのとおり。
 第一章/ソヴィエト・マルクス主義の第一段階/スターリニズムの開始。
  第1節・スターリニズムとは何か。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・一国での社会主義。
  第4節・ブハーリンとネップ・イデオロギー、1920年代の経済論争。
 第二章・1920年代のソヴィエト・マルクス主義における理論上の論争。
 第三章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 p.1~の第一章から。Stalinism は「スターリン主義」ではなく「スターリニズム」として訳す。なお、Leninism は「レーニニズム」ではなく「レーニン主義」と訳してきた(これからも同じ)。
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 第1節・スターリニズムとは何か①。
 「スターリニズム」という語が何を意味するかに関する一般的な合意はない。
 ソヴィエト国家の公式なイデオロギストたちはこの語を使ったことがなかった。一つの自己完結的な社会体制の存在を示唆するように見えるからだろう。
 フルシチョフ(Khrushchev)の時代以降、スターリン時代は何を目指していたかに関する受容された定式は、「人格(personality)のカルト」だった。そして、この常套句は、必ず二つの想定と関連づけられていた。
 第一は、ソヴィエト同盟が存在している間ずっと、党の政治は「原理的に」正しく(right)、健康的(salutary)だったが、ときたま過ち(errors)が冒され、その中で最も深刻だったのは「集団指導制」の無視だった、つまり、スターリンの手への無限の力の集中だつた、というものだ。
 第二の想定は、「過ちと歪曲」の主要な原因はスターリン自身の性格的な欠陥、すなわちスターリンの権力への渇望や専制的傾向等々にあった、というものだ。
 スターリンの死後、これら全ての逸脱はすみやかに治癒され、党はもう一度適切な民主主義的原理に適応した。そして、事態は過ぎ去った、ということになる。
 要するに、スターリンの支配は偶然の以外の奇怪な現象だった。そこには「スターリニズム」とか「スターリン主義体制」というものは全くなく、いずれにせよ、「人格のカルト」の「消極的な発現体」はソヴィエト体制の栄光ある成果とは関係なく消え去ったのだ。//
 こうした事態に関する見方は疑いなく執筆者やその他の誰かによって真面目には考察されなかったけれども、今日的用法上の「スターリニズム」という語の意味と射程に関しては、今なお論争が広く行われている。それは、ソヴィエト同盟の外に共産主義者の間にすらある。
 しかしながら、その考え方が批判的であれ正統派的であれ、上の後者〔外部の共産主義者〕は、スターリニズムの意味を、1930年代初期から1953年の死までのスターリンの個人的僭政の時期に限定する。
 そして、彼らがその時代の「過ち」の原因として非難するのはスターリン自身の悪辣さというよりも、遺憾だが変えることのできない歴史的環境だ。すなわち、1917年の前および後のロシアの産業や文化の後進性、ヨーロッパ革命を期待したという失敗、ソヴィエト国家に対する外部からの脅威、内戦後の政治的な消耗。
 (偶然だが、同じ理由づけは、ロシアの革命後の統治の堕落を説明するために、トロツキストたちによって決まって提出される。)//
 一方、ソヴィエト体制、レーニン主義あるいはマルクス主義的な歴史の図式を擁護するつもりのない者たちは、総じて、スターリニズムを多少とも統一した政治的、経済的およびイデオロギー的体制だと考える。それはそれ自体の目的を追求するために作動し、それ自体の見地からは「過ち」をほとんど犯さない体制だ。
 しかしながら、この見地に立ってすら、スターリニズムはいかなる範囲でかついかなる意味で「歴史的に不可避」だったのか、が議論されてよい。
 換言すると、ソヴィエト体制の政治的、経済的およびイデオロギー的様相は、スターリンが権力に到達する前にすでに決定されており、その結果としてスターリニズムだけがレーニン主義の完全な発展形だったのか?
 いかなる範囲でかついかなる意味で、ソヴィエト国家の全ての特質は今日に至るまで存続しているのか、という疑問もやはり、まだ残る。//
 用語法の観点からは、「スターリニズム」の意味を独裁者が生きた最後の25年間に限定するか、それとも現在でも支配する政治体制をも含むように広げるかは、特別の重要性はない。
 しかし、スターリンのもとで形成された体制の基本的な特質は最近の20年で変わったのかは、純粋に言葉の問題以上のものだ。そしてまた、その本質的な特徴は何だったのかに関する議論を行う余地も残っている。//
 この著者〔L・コワコフスキ〕も含めて、多くの観察者は、スターリンのもとで発展したソヴィエト体制はレーニン主義を継承したものだと、そしてレーニンの政治的およびイデオロギー上の原理にもとづいて創設された国家はスターリニズムの形態でのみ存続することができた、と考えた。
 さらに加えて、論評者は、狭い意味での「スターリニズム」、つまり1953年まで支配した体制は、スターリン後の時代の変化によっても本質的には決して影響をうけなかった、とする。
 これらの論点の第一は、これまでの各章で、ある程度は確証された。そこでは、レーニンは全体主義的教理および萌芽にある(in embryo)全体主義国家の創設者だ、と示された。
 もちろん、スターリン時代の多くの事件の原因は偶然だったり、スターリン自身の奇矯さだったりし得る。出世主義、権力欲求、執念、嫉妬、および被害妄想的猜疑心。
 1936~1939年の共産党員の大量殺戮を「歴史的必然」と呼ぶことはできない。
 そして我々は、スターリン自身以外の僭政者のもとではそれは生起しなかっただろうと想定してよい。
 しかし、典型的な共産主義者の見方にあるように、かりに大殺戮をスターリニズムの本当の「消極的」意味だと見なすとすれば、スターリニズムの全体が嘆かわしい偶発事だということに帰結する。-これが示唆するのは、傑出した共産党員たちが殺害され始めるまでは、共産主義者による支配のもとでは全てがつねに最善のためにある、ということだ。
 歴史家がこれを受容するのは困難だ。それは歴史家が党の指導者または党員ですらない数百万人の運命に関心があるということによるのみならず、特定の期間にソヴィエト同盟で発生した巨大な規模の血に染まるテロルは、全体主義的僭政体制の永遠の、または本質的な特質ではない、ということも理由としている。  
僭政体制は、個々の一年での公式の殺害者が数百万人と計算されるか、数万人とされるかに関係なく、また、拷問が日常の事として用いられていたのか、たんにときたまにだつたのかに関係なく、さらに、犠牲者は労働者、農民、知識人だけだったのか、あるいは党の官僚たちも同様だったのかに関係なく、力を持ったままで残っている。//
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 ②へとつづく。

1745/「日本会議」問題としての森友問題と「決裁」文書①。

 共産主義や「日本会議」にのみ秋月瑛二が関心をもっているわけではないことを、ときには知らせておこう。
 「日本会議」、月刊正論編集部および産経新聞社主流派について昨年からずっと感じてきたのは、つぎのことだった。
 安倍晋三がいつまでも首相であるわけではない。かりに2020年時点で首相・内閣総理大臣だったとしても、いつか辞める。そのとき、この人たちはいったいどの人物を、あるいは自民党でないとすればどの政党を支援するのだろう、と。
 そう感じさせるほどに、この人たちの安倍晋三・自民党びいきは目立った。
 「日本会議」、月刊正論編集部および産経新聞社主流派は昨年の総選挙でも、日本共産党や立憲民主党を叩き、批判することよりも、「希望の党」、正確には小池百合子を批判の主対象にしていたように感じる。
 2017総選挙については、当時の池田信夫のブログ・コメントに大いに共感するところがあったが、今回は立ち入らずに、別の機会に、余裕があれば触れる(秋月瑛二は前回の総選挙について、感じることは多々あったが、この欄に記していない)。
 「日本会議」は、<保守>運動の中心的位置という立場を守りたい、維持したいのだ、と思われる。
 以上については、もっと書かなければならない。
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 「決裁」文書と国・省の意思決定について。
 森友学園問題について詳細にフォローはしていないので、第二に言及したい「日本会議」問題とは別の、「決裁」文書なるものに関する一般論を記しておく。
 メディア関係者・テレビや新聞関係者(とくに記者)および多くのコメンテイターはきちんと知って、きちんとした情報を提供してほしい。以下は、行政の実務経験者であれば、あるいは企業等の組織管理経験者には、おそらく常識的だろう。しかし、メディア関係者にはー「左翼」意識は強くてもーしばしば一般的知識に欠ける人がいる。
 まず、国有地を含む国有財産の売買(売却をむろん含む)契約の当事者は、一方はふつうは私人で(法人の場合もむろんある)、他方の当事者は、「国」だ。この場合の「国」は正確には裁判所や国会を含みうるが、とりあえず<行政>担当法人のことを意味させる。
 しかして、個々の行政、あるいは個々の売買契約の法的な最高責任者は、一般論として語るが-現行法制上は-首相・内閣総理大臣ではなく、個別省庁の長、財務省関係だと財務大臣のはずだ。
 個別の法律による特殊な売買を除いて(強制買収に該当する場合はどうだったかな?)、今回の森友問題におけるような契約締結の法的な最高責任者は財務大臣だと解される。
 ではなぜ、「決裁」文書書き換えにかかる「責任」がとくに理財局長について問題になっているのか。
 それは、財務大臣の「決裁」権限の<内部委任>が行われているからだと思われる。
 つまり、「国」を当事者とする契約締結には本来はすべて省庁の長(とざっくり言う)の最終「決裁」が必要だが、大臣・長官が全てに関与して全てに押印または署名するわけにはいかない。
 そこで、いわば<便法>として、案件に応じて、<理財局長>あるいはその下の課長等に<決裁権限>を「内部的に」委譲しているのだ。よく知らないが、軽微なものだと近畿財務局長に「内部委任」されているものもあると考えられる(森友問題は文部科学省・内閣府も関係するので形式上・内部的にも最後は本省扱いになっているのだろう)。かつまた、この決裁権限の「内部委任」はおそらくは正規の「法令」によるものではない。省庁「内部」の(それこそ大臣等の名前で決定された)規程類にもとづくもののはずだ。
 したがって、政治的にはともかく、全ての案件について大臣には行政上の法的「責任」がある。大臣にそのような「責任」をとらせることになったのは誰か又はどの機関かは、あくまで「国」または省の「内部」問題にすぎない。
 この点をしっかりふまえて報道等をしてほしいものだ。
 むろん、財務省「内部」の問題を報道して悪いわけではない。すべきだろう。しかし、局長に<責任転嫁>してのトカゲの頭か尻尾かを切る、というのは、きわめて<政治的>または<政治家的>発想だ、ということは知っておく必要がある。官僚機構や組織の問題等を<大筋>の問題と混同させてはいけない。
 ついでに、安倍首相の問題。首相には内閣を構成する各大臣に対する指揮権・指導権は、憲法上重要な位置を占める「内閣」の一体性や国会に対する<政治的・行政的>責任の観点からもあると見られる。
 したがって、<政治的>観点以外でも、当然に首相の責任は問われうる。
 では、安倍首相夫人の明確な<関与>が証されたとすれば、いったいどうなるのか?
 おそらくもはや契約自体の有効性の問題にはならないのだろう。だが、これとは別に「違法性」は問われ得る。また、違法でなくとも、正当ではない、正義・適正さの観点から疑問だ、ということはあり得る。こうなると安倍晋三と椛島有三を事務総長とする「日本会議」の関係にかかわるので、回を改める。

1744/論駁者・レーニンの天才性②-L・コワコフスキ著第二巻の最終部分。

 以下の著の第二巻(部)および分冊版・第二巻の最終部分の試訳。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 三巻合冊版p.775-778、分冊版・第2巻p.524-527。
 第16章『レーニン主義の成立』(三巻合冊版p.661~、分冊版p.381~)から試訳を開始したので、三巻合冊版の総1283頁(参照文献等を含む)のうち118頁分、分冊版の総542頁(同上)のうち147頁分をいちおう訳出したことになる。
 しかし、重要な例外があって、「10月革命」以前の理論・哲学論争に関係する前者の約19頁分(ほぼ696~714頁)、後者の約24頁分(ほぼ424~447頁)は省略している。したがって、前者では99頁分/8%、後者では122頁分/23%だけしか、試訳ではあっても完了していない。
 L・コワコフスキはこの著をマルクス主義に関する「ハンドブック」つまり<手引き書>のごときものとして執筆したようで、詳細とはいえ、レーニンに関しても、メモ書き、要点列記という観の部分もある。
 それでもなお、全体(三巻合冊本)の1割も、試訳しながらの読書をしていないのだから、全三巻(全三部)にわたるマルクス主義の「主要潮流」に関するコワコフスキの叙述の幅広さ、論評・叙述の対象としている人物・「思想」群の多さ、そしていずれにせよ<凄まじさ>を感じざるを得ない。いずれかの機会に、対象としている人物数、読破しているとみられる全文献数を探ってみたいと感じている。とはいえ、各巻末尾の参照文献の列挙も<選択的(selective)…>と題されているので、上に関する正確な数はきっと誰にも、いつかにでも、判明しないのだろう。
 なお、この著は1970年代の後半に、つまりソ連解体の15年前には執筆・公刊され、英米語版も刊行されていたことを、あらためて追記しておく。
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 第18節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性②。
 (つづき)
 ストルーヴェは1913年に、<経済価格> と題する本を公刊した。その中で彼は、マルクスの意味での価値(value)は、価格(price)とは独立(independent)に、形而上の非経験的な範疇であって、不適切だ(superfluous)、と論じた。
 (これは新しい考えではなく、コンラッド・シュミット以降から多くの批判がなされていた。)
 レーニンは、つぎのような言葉で論評した。
 『どのようにすれば人は、この最も「過激な」方法をきわめて薄っぺらいと呼ばずにおれるだろうか?
 数千年もの間、人類は、交換の現象における客観的法則の働きに気づいてきた。それを理解して最大限度に精細に表現しようと試みてきた。経済生活についての数百万、数億の数の日々の観察による説明によって、それを吟味してきた。
 しかるに突然に、時流にのった職業-引用文を収集するそれ(私はほとんど郵便切手の収集と言ってしまった)-の時流にのった一人の代表者が出現して、「これら全てを捨て去る」。「価値は、幻影(phantom)だ」と言う。』
 (<再び粉砕される社会主義>、1914年3月。全集20巻200頁〔=日本語版全集20巻206頁〕。)
 レーニンは、説明をこうつづける。
 『価格は、価値の法則を宣言したものだ。
 価値は、価格の法則だ。換言すると、価格の現象の一般化された表現だ。
 ここで「独立性」を語るのは、科学を嘲弄するもの(mockery)だ。』
 (同上、201頁〔=日本語版全集同上207頁〕。)
 そして、こう締めくくる。『科学から法則を排除することは、実のところは、宗教の法則をこっそり持ち込むことだ。』
 結論はこうだ。『ストルーヴェ氏は、このような粗雑な方法によって、読者を欺き、自分の反啓蒙主義を隠蔽することができると、本当に考えているのか?』
 (同上、202頁・204頁〔=日本語版全集同上209頁・211頁〕。)
 これは、レーニンによる反対者の取り扱いの、典型的な例だ。
 ストルーヴェは、価値は価格とは独立には計算することができない、と言った。レーニンは、独立性を語るのは科学の嘲弄だと言う。
 本当の議論にするという試みはなく、冗漫な言葉と誤用の大波の中へと溺れている。//
 しかしながら、レーニンは人々や事件に対する純粋に技術的で道具的な姿勢から自分自身を除外しなかった、ということは繰り返しておくべきだ。
 彼は、個人的な利益のことを考えなかった。
 例えばトロツキーとは異なり、彼は決して<気取り屋(poseur)>ではなく、劇場的な振舞いに熱を上げることはなかった。
 レーニンは、革命の道具だと自分のことを見なし、自分は正しい(in the right)と揺るぎなく確信していた-そう確信していたので、政治上の対抗者たちに一人で又はほとんど一人で立ち向かうことを怖れなかった。
 彼は、神は、あるいはむしろ歴史は、自分の唇を通じて語ると固く信じていたことにおいて、ルター(Luther)に似ていた。
 彼は、例えばツィンマーヴァルト(Zimmerwald)でレデブール(Ledebour)がした、レーニンは自らを外国で安全にしたままでロシアの労働者に血を流すことを呼びかけている、という非難を、侮蔑心をもって却下した。
 レーニンの観点からは、このような批判は馬鹿げていた。彼が外国から指揮を執るのは、革命にとって利点だったのだから。
 ロシアの状勢のもとでは、国外逃亡者がいなければ、革命は起こり得なかっただろう。
 いかなる場合についても、誰も、レーニンの個人的な臆病さを責めることはできないだろう。
 彼は、最も重い責任を請け負うことができた。そしてつねに、どんな論争についても明確な態度を採った。
 レーニンは、たしかに正当(right)に、権力を奪取することを怖れていた他の全ての社会主義者集団の指導者たちを非難した。
 他の指導者たちは、歴史の法則を信頼することがより安全だと考えた。
 しかし、怖れなかったレーニンは、最大の賭けを行い、そして勝利した。//
 なぜ、レーニンは勝利したのか?
 確実なのは、彼が適正に(correctly)事態の推移を予見したのが理由ではない、ということだ。
 彼の予言や推測はしばしば間違っていて、ときどきはそれが明白だった。
 1905年の敗北の後、彼は長い間、もう一度の蜂起が切迫している、と信じた。
 しかしながら、革命の潮目が引き、反動的状勢下で長い年月にわたる活動をしなければならないことが分かったとき、彼は情勢からただちに、全ての推論を導いた。
 1912年にウィルソンが合衆国の大統領に選出されたとき、レーニンは、アメリカの二党制度は社会主義運動に<直面して(vis-a-vis)>破産している、と宣告した。
 1913年に彼は、アイルランド民族主義は労働者階級では死に絶えていると、断定的に述べた。
 1917年の後、彼はいつの日かのヨーロッパ革命を期待し、かつテロルを手段としてロシアの経済を作動させることができると考えた。
 しかし、彼の誤った判断の全ては、革命運動への期待を強くし、現実にそうだったよりも早く革命を宣言する方向へと導いた。
 レーニンの観点からは、それらは、好運な過ちだった。彼が1917年10月に武装蜂起を決意したのは、誤った評価のみにもとづいていたのだから。 
自分の過ち(mistakes)によって、彼は革命の可能性を完璧に利用することができた。そして、それが彼の勝利の原因だった。
 レーニンの天才性(genius)とは、予見の天才性ではなく、権力を奪取するために用いることのできる全ての社会的エネルギーを所与の瞬間に集中させる、そして彼と彼の党の力の全てをその一つの目的のために従属させる天才性だ。
 目的に関するレーニンの堅固さなくして、ボルシェヴィキが成功したとは考え難い。
 彼がいなければ、ボルシェヴィキは、ドゥーマをボイコットする政策を重大な時限以上に延長させていただろう。
 ボルシェヴィキだけで権力を確保する武装蜂起という冒険を、冒さなかっただろう。
 ブレスト=リトフスク条約に署名することはなかっただろう。
 そして、最後の時点では、新経済政策(the New Ecconomic Policy)を採択しなかったかもしれなかった。
 重大な諸状況では、レーニンは、党に対して暴力(violence)を用いた。そしてその結果として、彼の根本教条が党を覆い尽くした。
 我々が今日に知る世界の共産主義は、真に(truely)、彼の作品(work)だ。//
 レーニンもボルシェヴィキも、革命を「作った(made)」のではない。
 世紀が変わって以降、「歴史の法則」はその崩壊の態様を定めてはいなかったけれども、専制体制が不安定な状態にあったことは明らかになっていた。
 二月革命は、多数の要素が同時に発生したこと(coincidence)によるものだった。すなわち、戦争、農民の困窮、1905年の記憶、リベラルたちの策略、協商国からの支援、労働者階級の過激化。
 革命の過程が進展したとき、スローガンはソヴェト権力のそれで、十月革命を支持した者たちはボルシェヴィキ党のための権力ではなく、ソヴェトのための権力を要求した。
 しかし、「ソヴェトの権力」はアナキスト的夢想であり、大衆である民衆、無知で無学の人々のほとんどが永続する大量の隊列でもって全ての経済的、社会的、軍事的および行政的諸問題を決定するという社会を夢見たものだった。
 ソヴェト権力は打倒されていたとすら、ほとんど言うことができない。
 「共産主義者のいないソヴェト権力」というスローガンは、民衆の反ボルシェヴィキ一揆でしばしば用いられた。しかし、それは実際には、何ものをも意味せず、ボルシェヴィキはそのことを知っていた。
 ボルシェヴィキは、<ソヴェト政府>としての自分たちへの支持を取りつけることができ、単一の腕だけで統治する用意のある唯一の党だったときに革命のエネルギーを傾注することができた。//
 にもかかわらず、現実の革命の過程はソヴェトというよりはるかに、ボルシェヴィキ特有のものだった。そして、数年の間は、新しい社会の文化、雰囲気および習性は、ボルシェヴィキが最もよく組織された力(force)だが決して社会の多数派ではなかったことを反映した。
 革命は、ボルシェヴィキの<クー・デタ>ではなかった。そうではなく、労働者と農民のための本当(true)の革命だった。
 ボルシェヴィキだけが、彼ら自身の目的のために革命の手綱を握ることができた。
 彼らの栄光は、ただちに、革命にとっての敗北であり、ボルシェヴィキ的範型のですら、共産主義の理想にとっての敗北だった。
 レーニンは1922年3月の第11回(彼が最後に出席した)党大会で、尊敬すべき明瞭性をもって、前方にある危険を描写した。
 ツァーリ体制(帝制)時代から継承した文化に<直面する>共産主義者の弱さに関して、彼はこう語った。
 『かりに征服する民族が征服される民族よりも文化的であれば、前者は後者に対してその文化を押しつける。
 しかし、かりにその反対の場合には〔前者が後者よりも文化的でないならば〕、征服された民族が征服者に対してその文化を押しつける。
 ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国の首都で、これに似たことが発生しなかったか?
 4700人の共産主義者(ほとんど軍の一個師団全体で、彼らはみな最も優秀だ)が、外部者(alien)の文化の影響のもとに置かれなかったのか?
 なるほど、被征服者は高度の文化をもつ、という印象があるかもしれない。
 しかし、決してそうではない。
 彼らの文化はみすぼらしく(miserable)、とるに足らない。しかし、それでもまだ、我々の文化よりも高い次元のものだ。』(+)(*秋月注)
 (全集33巻288頁〔=日本語版全集33巻「ロシア共産党(ボ)第11回大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治報告/3月27日」294頁〕。)//
 これは、レーニンの、彼が生み出した国家に関する、最も透徹した観察の一つだ。
 「ブルジョアジーから学べ」というスローガンは、悲劇的でかつグロテスクな両方の方法で実践に移された。
 ボルシェヴィキは、多大な努力と部分的でしかない成功を伴いつつ、今でもまだしているように、資本主義世界の技術的な達成物を吸収することを始めた。
 苦労を少しも伴わないで、ボルシェヴィキは、急速にかつ完全に、ツァーリスト体制(帝制)の官僚制(chinovniks)の統治と行政の方法を採用した。
 革命の夢は、その体制の全体主義的帝国主義(totalitarian imperalism)を粉飾する、用語法上の残滓のかたちをとってのみ、生き延びた。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注) このL・コワコフスキが引用する1922年3月のこの文の直後につづく文章のいくつかを、日本語版全集33巻294頁から引用する。一部はひらがなを漢字に変えた。
 「それは、どんなに惨めで、みすぼらしかろうと、わが責任ある共産主義活動家の文化よりは、ましである。なぜなら、これらの活動家には、統治する能力が不足しているからである。機関の主長になっている共産主義者は、-<中略>-しばしばよい嬲り者にされている。こういうことを認めるのは、ひじょうに不愉快である。少なくともあまり愉快ではない。だが、いまはこれが問題の眼目であるから、このことを認めなければならない、と思う。」
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 以上で、第18章は終わり。第二巻(第二部)も終わり。  
 この本には、邦訳書がない。このことは、昨2017年の、私には最も衝撃的なことだった。
 なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。

1743/論駁者・レーニンの天才性①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 
第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.772-775、分冊版・第2巻p.520-524。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第10節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性①。
 
大量のレーニンの刊行著作は、攻撃と論争(論駁、polemics)で成り立っている。
 読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性(agrressiveness)に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない(unparalleled)。
 彼の論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている(実際、彼にはユーモアのセンスが少しもなかった)。
 レーニンが攻撃しているのが「経済主義者」、メンシェヴィキ、カデット(立憲民主党)、カウツキー、トロツキーあるいは「労働者」対立派のいずれであれ、違いはない。
 彼の対抗者がブルジョアジーや土地所有者の追従者でないとすれば、その人物は、娼婦、道化師、嘘つき、屁理屈を言う詐欺師、そうしたもの、だ。 
 こうした論争のスタイルは、その日の話題に関するソヴィエトの著作物での義務的なものになることになった。ステレオタイプ化し、個人的な情熱を欠く官僚的な形式だったが。
 かりにレーニンの対抗者がたまたまレーニンが同意する何かを言ったとすれば、その人物は、それが何であれ、「認めることを強いられた」。
 論争が敵の陣地内で勃発すれば、その構成員の一人は他者に関する真実を「うっかり口にした」。
 書物または論考の著者がかりに、レーニンは言及すべきだったと考える何かに言及しなかったとすれば、その人物は「もみ消し」をした。
 社会主義者のそのときどきのレーニン敵対者は、「マルクス主義のイロハを理解していない」。
 しかしかりにレーニンが係争の問題点に関する考えを変えれば、「マルクス主義のイロハを理解していない」その人物は、レーニンがその日以前に主張していたものを主張している。
 誰もがつねに、最悪の意図を持っているのではないかと疑われている。
 きわめて些末な問題についてレーニンとは異なる意見をもつ者は誰でも、欺瞞者であり、またはせいぜいのところ、馬鹿な子どもだ。//
 このような技巧の目的は個人的な嫌悪を満足させることではなく、ましてや真実に到達することではなく、実践的な目標を達成することだった。
 レーニン自身が、1907年にある場合にこのことを確認した(他の誰かに関して言うだろうように、「思わず口を滑らせた」)。
 メンシェヴィキとの再統合の直前に、メンシェヴィキに対して「許し難い」攻撃をしたとして、中央委員会は党の審問所にレーニンを送った。
 レーニンは中でもとくに、『ペトルブルクのメンシェヴィキは、労働者の票をカデットに売り渡す目的でカデットとの交渉に入った』、そして『カデットの助けで労働者たちの中の人物をドゥーマ〔帝制下院〕にこっそりと送り込む取引をした』と、彼の小冊子で書いた。
 レーニンは審問の場で、自分の行動をつぎにように説明した。
 『この言葉遣い(つまり上に引用したばかりのもの)は、このような行為をする者たちに対する読者の憎悪、反感や軽蔑を誘発するために計算したものだ。
 この言葉遣いは、説得するためにではなく、対抗者の隊列を破壊してしまうために計算したものだ。
 論敵の過ちを是正するためではなく、彼らを破壊し、その組織を地上から一掃するためのものだ。
 この言葉遣いは、じつに、論敵に関する最悪の考え、最悪の疑念を呼び起こすような性質のもので、またじつに、説得したり是正したりする言葉遣いとは対照的な性質のものだ。それは、プロレタリア-トの隊列に混乱を持ち込むのだ。』(+)
 (全集12巻424-5頁〔=日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第五回大会にたいする報告」のうち「党裁判におけるレーニンの弁論(または中央委員会のメンシェヴィキ部分にたいする告訴演説」)433頁〕。)
 しかしながらレーニンは、これについて悔い改める気持ちを表明していない。
 彼の見解によれば、論拠に訴えるのではなく憎悪を駆り立てることは、反対者が同じ党の構成員でなければ、正当なこと(right)だった。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、分裂のために二つの別々の政党だった。
 レーニンは、中央委員会をこう非難した。
 『冊子を書いた時点で、(形式的にではなく本質的に)その冊子が起点とし、その目的に奉仕する単一の党は存在していなかった、という事実に関して、沈黙したままでいる。<中略>
 労働大衆の間に、異なる意見を抱く者たちに対する憎悪、反感や軽蔑等を体系的に広げる言葉遣いで党員同志に関して書くのは、間違っている(wrong)。
 しかし、脱落した組織に関してはそのような調子で<書くことができるし、そう書かなければならない>。
 何故、そうしなければならないのか?
 分裂が生じたときには、脱落した分派から指導権を<奪い返す>こと(to wrest)が義務だからだ。』(+)
 (同上、425頁〔=日本語版全集同上434頁〕。)
 『分裂に由来する、許容される闘争に、何らかの限度があるのか?
 そのような闘争には、党のいかなる基準も設定されていないし、存在し得ない。なぜなら、分裂とは、党が存在しなくなることを意味するからだ。』(+)
 (428頁〔=日本語版全集同上437頁〕。)
 我々は、レーニンを刺激してこう白状させたことについて、メンシェヴィキに感謝してよい。レーニンの言明は、彼の全生涯の活動で確認される。
 いかなる制約によっても、遮られない。重要なのは、目的を達成することなのだ。//
 レーニンは、スターリンとは違って、個人的な復讐心を動機として行動することはなかった。
 レーニンは、人々を-強調されるべきだが、彼自身も含めて-もっぱら政治的な器具として、かつ歴史的過程の道具として、操作(treat)した。
 このことは、彼の最も顕著な特質の一つだ。
 かりに政治的な計算で必要ならば、彼はある日にある人物に泥を投げつけ、翌日にはその人物と握手することができた。
 レーニンは1905年の後で、プレハノフを誹謗中傷した。しかし、プレハノフが清算主義者および経験批判論者に反対していることを知って、そして彼の名前の威信によって貴重な盟友だと知ってただちに、そうすることをやめた。
 1917年になるまでは、レーニンはトロツキーに対して呪詛を投げつけた。しかし、トロツキーがボルシェヴィキ党員になり、きわめて才能のある指導者であり組織者であることが分かるや、その全てが忘れられた。
 レーニンは、10月の武装蜂起計画に公然と反対したことについて、ジノヴィエフとカーメネフの裏切りを非難した。しかしのちには、彼らが党やコミンテルンの要職に就くのを許した。
 誰かを攻撃しなければならなかったときには、個人的な考慮は無視された。
 レーニンは、基本的な問題について同意することができると考えれば、論争を棚上げすることのできる能力があった。-例えば、党が第三ドゥーマ〔帝制下院〕に議員を出すこに関してボグダノフがレーニンに反対するまでは、彼は、ボグダノフの哲学上の誤りを看過した。
 しかし、レーニンがある時点で重要だと考える何かに論争が関係していれば、容赦なく反対意見を提示した。
 彼は、政治的な抗論において、個人的な忠誠に関する疑問を嘲弄した。
 メンシェヴィキがボルシェヴィキ指導者の一人だったマリノフスキーをオフラーナ(Okhrana)の工作員だと責め立てたとき、レーニンはこの「根本的な誹謗」にきわめて激烈に反駁した。
 二月革命の後で、メンシェヴィキの言い分は本当(true)だったことが明らかになった。それに対してレーニンは、ドゥーマ議長のロジヤンコ(Rodzyanko)を攻撃した。
 ロジヤンコはマリノフスキーの任務を知っていたが、彼の議員辞職をもたらし、(この当時に悪意をもってロジヤンコの政党を報じていた)ボルシェヴィキに言わなかった。それは、彼が内務大臣から〔マリノフスキーに関する〕情報を受けとったときに決して口外しないと「名誉」に賭けた約束をした、という、いかにもありそうな理由にもとづいてだ、と。
 レーニンは、ボルシェヴィキの敵たちが「名誉」という口実でもってボルシェヴィキを助けなかったことに、きわめて強い、偽りの道徳的(pseudo-moral)憤慨を感じた。//
 もう一つのレーニンの特徴は、彼の論敵たちはつねに悪党で裏切り者だったと示すために、敵意をしばしば過去へと投影させる、ということだ。
 1906年にレーニンは、ストルーヴェ(Struve)はすでに1894年に反革命者だった、と書いた。
 (「カデットの勝利と労働者党の任務」、全集10巻265頁〔=日本語版全集10巻253-4頁〕。)(*秋月注1)
 しかし誰も、1895年のストルーヴェに関するレーニンの議論からこのことを想定することはできなかった、その当時、二人はまだ協力関係にあったのだから。
 レーニンは数年にわたって、カウツキーを最も高い権威のある理論家だと見なしていた。しかし、カウツキーが戦争の間に「中央主義」の立場を採った後では、1902年の冊子で彼を「日和見主義者」だと非難した。
 (<国家と革命>、全集25巻479頁〔=日本語版全集25巻「国家と革命」のうち「第6章・日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化」以降、516頁以降を参照〕。)
 また、カウツキーは1909年以降はマルクス主義者として執筆していなかった、と主張した。
 (1915年12月、ブハーリンによる冊子への序言。全集22巻106頁〔=日本語版全集22巻「エヌ・ブハーリンの小冊子『世界経済と帝国主義』の序文」115頁参照〕。)(*秋月注2)
 「社会排外主義者」に対する、1914年~1918年の攻撃の中でレーニンは、帝国主義戦争とは何の関係もない諸政党に呼びかけた第二インターナショナルのバーゼル宣言を援用した。
 しかし、第二インターナショナルと最終的に断絶した後では、その宣言は「変節者」による欺瞞文書だった。
 (1922年、「Publicist に関する覚え書」。全集33巻206頁〔=日本語版全集33巻「政論家の覚え書」203-4頁〕。)(*秋月注3)
 長年にわたってレーニンは、自分は社会主義運動内部のいかなる分離的傾向も支持せず、自分とボルシェヴィキはヨーロッパの社会民主主義者、とくにドイツ社会民主党と同じ原理を抱いてきた、と主張した。
 しかし、1920年に<左翼共産主義-小児病>で、政治思想の一種としてのボルシェヴィズムは、まさにその通りなのだが、1903年以来存在していたことが、明らかにされた。
 歴史に関するレーニンの遡及的な見方は、むろん、スターリン時代の体系的な捏造(falsification)とは比べものにならなかった。スターリン時代には、個々人と政治的諸運動に関するその当時の評価は全ての過去の年代について同じく有効だということが、何としてでも示されなければならなかったのだ。
 この点では、レーニンは、まだきわめて穏和な始まりを画したにすぎなかった。そして彼は、思想に関する合理的な流儀(mode)にしばしば執着した。例えば、プレハノフはマルクス主義の一般化に多大の貢献をした、プレハノフの理論上の著作は再版されるべきだと、プレハノフはそのときには完全に「社会排外主義者」の側に立っていたにもかかわらず、最後まで主張した。//
 レーニンは彼の著作の政治的な効果についてのみ関心があったがゆえに、彼の著作は反復で満ちている。
 彼は、同じ考えを何度も何度も(again and again)繰り返すことを怖れなかった。彼は、文体上の野心を持たず、党や労働者に対する影響にのみ関心があった。
 レーニンの文体はその党派的な論争の際や党の活動家に向かって表現しているときに最も粗暴だが、労働者に対してはかなり易しい言葉で語る、ということは記しておくに値する。
 労働者に対して向けられた彼の著作は、プロパガンダの傑作だ。ときどきの主要な諸問題に関する各政党の立場を簡潔かつ明快に説明している、<ロシアの諸政党とプロレタリア-トの任務>という小冊子(1917年5月)のように。//
 理論的な論争についても同様に、レーニンは論拠を詳細に分析することよりも、言葉と悪罵によって反対者を打ち負かすことに関心があった。
 <唯物論と経験批判論>はその際立った例だが、他にも多数の例がある。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注1) 日本語版全集10巻253-4頁から一部をつぎに引用する。「諸君の友人であるストルーヴェ氏を、反革命におしやったのはだれであったか、それはまたいつだったか?/ストルーヴェ氏は、彼の『〔ロシア革命の経済的発展の問題にたいする〕批判的覚え書』で、マルクス主義にブレンターノ主義的な但し書をつけた1894年には、反革命家であった」。
 (*秋月注2) 日本語版全集22巻115頁からつぎに引用する。「…。というのは、彼はこことを、すでに1909年に特別の著述-彼がマルクス主義者としてまとまりのある結論をもって執筆した最後のもの-のなかでみとめていたのである」。
 (*秋月注3) 日本語版全集33巻203-4頁からつぎに引用する。「20世紀の人々は、変節者、第二および第二半インターナショナルの英雄たちが1912年と1914~1918年に自分や労働者を愚弄するのにつかったあの『バーゼル宣言』の焼きなおしでは、そうやすやすと満足しはしないであろう」。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1742/マルトフとボルシェヴィキ②-L・コワコフスキ著18章9節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.770-、分冊版・第2巻p.519-520。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ②。
 レーニンとマルトフの間の論争は、このようにして、それが始まった1903年の時点で終わった。
 マルトフが労働者階級の支配について語ったとき、彼は言ったことそのままを意味させた。一方、レーニンの見解では、放置された労働者階級はブルジョアのイデオロギーを産出することができるだけで、労働者階級に現実の力を与えることは、資本主義の復古に結局はなるだろう。
 レーニンが全く正当に(rightly)、1921年8月にこう書いたごとくだ。
 『「労働者階級の力にもっと信頼を!」とのスローガンは、今や実際には、1921年春のクロンシュタッタトによってまざまざと証明され、実演されたように、メンシェヴィキやアナキストの影響力を増大させるために使われている。』(+)
 (「新時代と新しい装いの古い過ち」、全集33巻27頁〔=日本語版全集33巻「新しい時代、新しい形をとった古い誤り」9頁〕)。
 マルトフは、国家が過去の全ての民主主義的諸制度を奪い取り、その視野を拡張することを望んだ。 
 レーニンの国家は、共産主義者がその国家の権力を独占するかぎりでのみ、共産主義的だった。
 マルトフは、文化的継続性があることを信じた。
 レーニンにとっては、ブルジョアジーから奪い取るべき「文化」はただ、技術力と行政の技巧だけだった。
 しかしながら、ボルシェヴィキはその観念体系のうちに物質的利益を求める堕落した大衆の飢餓を表現していると責め立てたとき、マルトフは誤った。
 このような見方は、革命の第一の局面を画した、大衆の略奪を原因としていた。
 しかし、レーニンも他のどのボルシェヴィキ指導者も、略奪は共産主義の原理の表現だとは見なしていなかった。
 反対に、レーニンは、労働生産力の増大が社会主義の優越性の証明印だ、と主張した。そして、全体的にではなくても主としては、社会主義をもたらす技術の進歩を信頼した。
 例えば、レーニンは、数十の地域的電力基地が建設されれば-しかしこれには、少なくとも十年はかかる-、ロシアの最も後進的部分ですら、妨害の段階なくしてまっすぐに社会主義へと進むだろう、と書いた。
 (<現物税(食糧税)>、1921年5月。全集32巻350頁〔=日本語版全集32巻「食糧税について」378頁〕。)
 実際、世界的な生産指標は社会主義の成功を根本的に証明するものだ、という考えを確立していたのは、ボルシェヴィキだった。
 むろん多くの言葉を用いてではなかったけれども、ボルシェヴィキは、生産者すなわち労働者共同体全体のために生活をより良くするかどうかに関係なく、生産の原理をそれ自体のために神聖視した。
 このことは、唯一のものではないけれども、至高の価値をもつものとしての国家権力のカルト(cult、狂熱集団)の重要な側面だった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第9節は終わり。つづく第10節の表題は、「論駁家としてのレーニン。レーニンの天才性。」。

1741/江崎道朗と加藤哲郎・白井聡。

 L・コワコフスキはその大著の第二巻第10節の最初の第二文と第三文でこう書く。-そのうちに試訳全体はこの欄に掲載する予定だ。
 第二/レーニンの大量の著作の「読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない。」
 第三/「レーニンによる論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている。」
 コワコフスキの著に接しながら、またレーニン全集の文章の一部を読みながら、上とほとんど全く同じ感想をもつ。そして想う、こんな文章ばかりを何年も読んでいると、どういう人格・個性・心性の人間になってしまうのだろう、気の毒なことだ、と。
 そして同時に連想するのは、この欄で一度だけ取り上げた、そしてなおも掲載できる素材のある、白井聡という人物だ。つぎの本について、この欄ですでに触れた。
 白井聡・未完のレーニン(講談社選書メチエ、2007)。
 白井聡は、一橋大学の大学院の学生時代、ロシア原語で(極端にいうとだが)レーニンばかりを読んでいたように見える。その時代の論文が上の本の基礎だったはずだ。
 まだ若いはずだが、学界・アカデミズムの中ではともかく、「左翼」系の、又はある程度売れれば何でもよいと考える出版社・編集者の間ではある程度の「地歩」をすでに築いているように見える。
 将来に変わる見込みはなさそうでもあるので、この人にはいずれまた、論及したい。
 これも断定はし難いとは言え、おそらく間違いなく、一橋大学大学院での白井聡の指導教授だったのは、加藤哲郎だ。
 加藤哲郎は、この欄で本格的には言及した記憶はないが、1990年頃、つまり東欧・ソ連の「社会主義」激動期までずっと(いつからかは知らない)日本共産党員で、その頃に離脱したようだ(一昨年秋以降に収集した日本共産党関係の書物の年表がこの人物を含む数名を批判した旨のことを記載していた)。
 いうまでもなく、日本共産党員ではなくとも、あるいは「反」・「非」日本共産党であっても、共産主義者であることはあるし、「左翼」にとどまっていることもある(有田芳生はその好例だ)。そして、加藤哲郎は依然として、少なくとも「左翼」=容共ではあるだろう。
 加藤には、こんな本もある。
 加藤哲郎・ゾルゲ事件-隠された神話(平凡社新書、2014)。
 この加藤の本をつぎのように肯定的に評価し、二箇所の直接の引用で計13行を用い、二頁にわたる記述の基礎にしている書物がある。
 加藤の上の著は「ソ連崩壊後に公開された一次史料を使って、ゾルゲ事件についてこれまで知られていなかった新事実を紹介している」。
 そのとおりかもしれない。だが、加藤哲郎はいかなる関心からゾルゲ事件に関する探索をしたのだろうか。
 そのような検討や執筆者の政治的立場を全く考慮していないと見られる上の書物とはつぎで、該当頁もつぎのとおりだ。
 江崎道朗・コミンテルンの陰謀と日本の敗戦(2017.07)、p.387-9。 
 江崎道朗は自らを「保守」派だと、しかも「保守自由主義」者だと考えているようだ。但し、外国の「左翼」または共産主義者・当該国の共産党員による書物を一部でかつ何箇所も下敷きにして上の本を2017年夏に刊行していたとしても、驚く必要はない。

1740/マルトフとボルシェヴィキ①。

 前回のつづき。コワコフスキの大著・三巻合冊本、p.770-。
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 第9節・ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ①。
 カウツキーやローザ・ルクセンブルクとともにマルトフは、ボルシェヴィキの観念体系(ideology)と革命後すぐの数年間の戦術に対する第三の傑出した批判者だった。
 彼の<世界ボルシェヴィズム>(1923年、ロシア語)、1918-19年に彼が書いた論考の集成は、メンシェヴィキの立場から、つまりはカウツキーのそれと似て社会民主主義を代表して、レーニン主義を批判する、おそらくは最も重要な試みだ。
 マルトフは、ロシアでの権力の前提はマルクス主義者により伝統的に理解されるプロレタリア革命とはほとんど共通性がない、と主張した。
 ボルシェヴィズムの成功は労働者階級の成熟によるのではなく、その解体と戦争に対する厭気〔=厭戦気分〕による。
 諸党派によって何年も、何十年も社会主義で教育された戦前の労働者階級は、大量殺戮によって悪質になり、田園的要素の流入によって性質を変えた。それは、全ての交戦国家で発生した過程だった。
 諸観念についての従前の権威は消滅し、粗野で単純な公理が日常の秩序だった。
 行動は、直接の物質的必要と全ての社会問題は軍隊の実力(force)によって解決されるとの信念によって指示された。
 社会主義左派は、ツィンマーヴァルトでの、プロレタリア運動に残っているものを救済する試みに敗北していた。
 マルクス主義は戦争の間に一方で「社会的愛国主義」、他方でボルシェヴィキのアナクロ・ジャコバン主義へと分解した、ということは、意識は社会条件に依存するというマルクス主義の理論を裏付けるだけだった。
 支配諸階級は、彼らの軍隊という手段によって、大衆の破壊、略奪、強制労働等々を準備していた。
 ボルシェヴィズムは、この逆行の真っ最中に、社会主義運動の廃墟の上に起き上がった。
 レーニンの<国家と革命>による革命後の現実に関する約束とは対照的に、やはりマルトフは、ボルシェヴィズムの本当の意味は民主主義の制限にあるのではない、という見解だった。
 革命は一定期間はブルジョアジーから選挙権を剥奪すべきだとのプレハノフの古い考えは、制度上の民主主義の別の形態が存在していたとすれば、適用され得ただろう。
 ボルシェヴィズムの観念体系は、科学的社会主義は真実(true)であり、そのゆえにブルジョアジーによって瞞着されて自分たち自身の利益を理解することのできない大衆に押しつけられなければならない、という原理にもとづく。
 この目的のためには、議会、自由なプレス、および全ての代表制的な制度を破壊することが必要だ。
 マルトフは言う。この教理は、空想的(ユートピア的)社会主義の伝統にある一定の歪み(strain)、すなわち、バブーフ主義者、ヴァイトリンク(Weitling)、カベー(Cabet)、あるいはブランキ主義者の諸綱領に描かれた手段、と合致している。
 労働者階級はそれが生きる社会に精神的に依存しているという原理から、空想家(夢想家たち)は、社会は、労働者大衆は受動的な対象の役割を演じつつ、一握りの陰謀家または啓蒙されたエリートによって変形されなければならない、という推論を導いた。
 しかし、例えばマルクスの第三<フォイエルバッハに関するテーゼ>に明言されているように、弁証法の見方は、人間の意識と物質的条件の間には恒常的な相互作用があり、労働者階級がその条件を変えようと闘うにつれて、自らを変え、精神的な解放を達成する、というものだ。
 少数者による独裁は、社会と独裁者たち自身のいずれも教育することができない。
 プロレタリア-トは、一階級としての主導性をとることができるようになるときにのみ、ブルジョア社会の成果を奪い取ることができる。そして、僭政体制、官僚制およびテロルの条件のもとでは、そうすることができない。//
 マルトフは、つづける。ボルシェヴィキは、プロレタリア-ト独裁や従前の国家機構の破壊に関するマルクスの定式に訴える資格を持っていない。
 マルクスは、普通選挙権と人民主権の名のもとに選挙法制攻撃したのであり、単一の政党の僭政の名のもとにおいてではなかった。
 マルクスは、民主主義国家の反民主主義的制度-警察、常置軍、中央志向の官僚制-の廃棄を呼びかけたのであり、民主主義の廃棄それ自体をではなかった。すなわち、彼には、プロレタリア-ト独裁とは統治の形式ではなく、特定の性格の社会だった。
 他方で、レーニン主義は、国家機構を粉砕するというアナキスト(無政府主義者)のスローガンを称揚し、同時に、考えられる最も専制的な形態でそれを再建しようと追求している。//
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 ②へとつづく。

1739/全体主義者・レーニン③ーL・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.769-、分冊版・第2巻p.515-7。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン③。
 コムソモル(青年共産同盟)大会での、しばしば引用される1920年10月2日のレーニンの演説は、同様の考え方で倫理の問題を扱う。
 『我々は、道徳(morality)は全体としてプロレタリア-トの階級闘争の利益に従属する、と言う。<中略>
 道徳は、搾取する旧い社会を破壊し、新しい共産主義社会を樹立しているプロレタリア-トの周りの全ての労働大衆を統一することに、奉仕するものだ。<中略>
 共産主義者にとって、全ての道徳は、この団結した紀律と搾取者に対する意識的な大衆闘争のうちにある。
 我々は、永遠の道徳の存在を信じず、道徳に関する全ての寓話の過ちを暴露する。』
 (全集31巻291-4頁〔=日本語版全集31巻「青年同盟の任務(ロシア青年共産同盟第三回全ロシア大会での演説)」288-292頁〕。)
 党の意図に奉仕するかまたは邪魔となるかの全てのことは、それぞれに対応して道徳的に善であるか悪であるかだ、そして何も道徳的に善であったり悪であったりしない、という以外のいかなる意味にも、このような文章を解釈するのは困難だろう。
 権力掌握の後、ソヴェトによる支配の維持と強化は、全ての文化的価値のためと同じく道徳のための唯一の規準になる。
 いかなる規準も、権力の維持を導くようにみえる可能性のあるいかなる行為にも反対することはなく、そして他のいかなる根拠についても価値があることを承認することはできない。
 かくして、全ての文化問題は技術的問題になり、一つの不変の基準によって判断されなければならない。すなわち、『社会の善』は完全に個々の構成員の善から分け隔てられるようになる。
 例えば、ソヴェトの権力を維持するのに役立つことを示すことができても、先制攻撃(aggression)や併合を非難するのは、ブルジョア的な感傷(sentimentalism)だ。
 定義上は『労働大衆の解放』のために奉仕する権力の目標達成に役立つならば、拷問を非難することは、非論理的であり、偽善だ。
 功利主義的道徳や社会的文化的現象に関する功利主義的諸判断は、社会主義の本来の基盤をその反対物へと変形させる。
 ブルジョア社会で生じるならば道徳的な憤慨を呼び起こす全ての現象は、新しい権力の利益に奉仕するならば、マイダスの接触(the Midas touch)によるかのごとく、金へと変わる。
 外国への武力侵攻は解放であり、攻撃は防衛であり、拷問は人民の搾取者に対する高貴な憤激を表現する。
 レーニン主義の原理のもとでは、スターリン主義の最悪の年月の最悪の過剰で正当化され得ないものは、ソヴェトの権力がそれによって増大したということが示され得るとするだけでも、絶対に何一つない。
 『レーニン時代』と『スターリン時代』の間の本質的な相違は、レーニンのもとでは党と社会に自由があったがスターリンのもとではそれは粉砕された、ということではなく、ソヴィエト同盟の人民の全ての精神的な生活が普遍的な虚偽(mendacuity)の洪水によって覆い隠されたのはスターリンの日々においてだった、ということだ。
 しかしながら、これはスターリンの個性(personality)にのみよるのではなく、こう述べ得るとすれば、状況の『自然の』発展でもあった。   
レーニンがテロル、官僚制、あるいは農民による反ボルシェヴィキ蜂起について語ったとき、彼はこれらの事物をそれぞれの名前で呼んだ。
 スターリン主義独裁が開始されるや、党は(敵によって攻撃されていたが)その威信を汚すことになるような過ちを冒さなかった。ソヴィエト国家は無謬であり、政府に対する人民の敬愛は無限だ。
 政府に対する制度的統制のいかなる痕跡も消滅してしまった国家では、予め定められている原理の問題として、政府を唯一正当化するのはそれが労働人民の利益であり希望である、という意味において、この変化は、自然だった。
 このことは、世襲の君主制にあるカリスマ性や適正に選挙される体制とは異なる、正統性の一つのイデオロギー的形態と呼ばれてよいかもしれない。
 ウソ(the Lie)の全能性は、スターリンの邪悪さによるのではなく、レーニン主義の諸原理にもとづく体制を正当化する、唯一の方法だった。
 スターリンの独裁期につねに見られたスローガン、『スターリンは、我々の時代のレーニンだ』は、かくして、総体的に正確だった。// 
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 第8節は終わり。つづく第9節の表題は、「ボルシェヴィキのイデオロギーに関するマルトフ」。なお、スターリンに関する叙述が以上で終わっているのではなく、彼にかかわる叙述は本格的には第三巻(第三部)の最初から始まる。

1738/全体主義者・レーニン②-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史に全く関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.768、分冊版・第2巻p.514-5。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン②。
 レーニンは、哲学を含むあらゆる領域について、不偏または中立の可能性を決して信じなかった。
 党に加入しようと望まず、自分を中立的だと宣する者はみな、隠れた敵だった。
 革命のすぐ後の1917年12月1日に、レーニンはソヴェト農民代表者大会で、鉄道労働組合を攻撃して、こう語った。
 『毎分が時を刻み、異論や中立は敵に言葉を発することを許し、敵が確実に聴かれようと欲し、その聖なる権利のための闘争をする人民を急いで助けることがなされていない、そのような革命的闘争のときには、このような立場を中立と呼ぶことはできない。
 それは、中立ではない。
 革命的な者は、それを教唆(incitement)と呼ぶだろう。』(+)
 (全集26巻329-330頁〔=日本語版全集26巻「農民代表ソヴェト臨時全ロシア大会」のうち「ヴィクジュリ代表の声明についての演説/11月18日(12月1日)」333-4頁〕。)//
 政治、あるいは他のどこにでも、いかなる「中立者たち」も存在しない。
 レーニンが関係したいつのいかなる問題についても全て、彼に関心があるのは、それは革命のために、又はのちにはソヴェト政権のために、良いのか、悪いのか、のいずれなのか、だった。
 トルストイの死後の1910-1911年に書かれた、レーニンの四つの彼に関する小論は、その典型的な例だ。
 レーニンの中心的な主題は、トルストイ作品の「二つの側面」の存在だ。
 第一は、反動的で、夢想家(utopian)(道徳的完全さ、全ての者への慈悲、悪への無抵抗)。
 第二は、「進歩的」で、批判的(抑圧、農民への憐れみ、上層階級および教会の偽善等に関する描写)。
 トルストイの基本的考えの「反動的」側面は、反動者たちによって誇張されたが、「進歩的」側面は大衆を喚起させる目的のために「有用な素材」を提供するかもしれない。政治的闘争は、トルストイによる批判の視野よりもすでにかなり広くなっているけれども。
 レーニンの1905年の論考、『党組織と党出版物』は、ロシアでの書かれる言葉の奴隷化をイデオロギー的に正当化するために十年間使われたし、いまなおも使われている。
 政治文学についてだけそれは関係すると言われてきたが、しかし、そうではない。それは、全ての種類の著作に関係している。
 上の論考は、以下のような文章を含む。
 『非パルチザン〔無党派〕の作家は、くたばれ!
 文学上の超人は、くたばれ!
 文筆は、プロレタリア-トの共通の根本教条(cause)の一部にならなければならない。
 単一の偉大な社会民主党の機構の「歯車とネジ」は、労働者階級全体の全体として゜政治的意識をもつ前衛によって、作動し始める。』
 (全集10巻45頁〔=日本語版全集10巻「党組織と党出版物」31頁〕。) 
 このような官僚制的態度を嘆いているらしき「神経質な知識人」の利益のために、レーニンは、著述活動の分野では、機械的な同等化はありえない、と説明する。
 個人的な主導性、想像力等の余地は残されていなければならない。
 それでもやはり、文筆の仕事は党の仕事の一部でなければならず、党によって統制されなければならない。(*秋月注)
 もちろんこのことは、ロシアは当然の行程として言論の自由を享受する、しかし党の著述家の構成員はその著作で党の心性(mindedness)を示さなければならない、という前提のもとで、『ブルジョア民主主義』を目指す闘いの間に書かれた。
 他の場合と同様に、党が国家の強制装置を支配したときには、こうした義務は一般的になった。//
 --------
 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (秋月注)この部分の趣旨の原文は、日本語版全集10巻32頁を参照。「新聞は種々な党組織の機関とならなければならない。文筆家はかならず党組織に入らなければならない」、という文もある。
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 ③へとつづく。

1737/英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ①。

 2017年夏の江崎道朗著で「参考」にされている、又は「下敷き」にされている数少ない外国文献(の邦訳書)の執筆外国人についてネット上で少し調べていた。本来の目的とは別に、当たり前のことだったのだろうが、日本語版Wikipediaと英語版(おそらくアメリカ人が主対象だろうが、他国の者もこの私のようにある程度は読める)のそれとでは、記載項目や記述内容が同じではないことに気づいた。
 <レシェク・コワコフスキ>についての日本語版・ウィキの内容はひどいものだ。
 英語版Wikipediaの方が、はるかに詳しい。日本語版・ウィキの一部はこの英語版と共通しているので、日本語版の書き手は、あえて英語版の内容のかなり多くを削除していると見られる。あえてとは、意識的に、だ。
 なぜか。先に書いてしまうが、日本人から、レシェク・コワコフスキの存在や正確な人物・業績内容等に関する知識を遠ざけたかったのだと思われる。そういうことをする人物は、日本の「左翼」活動家や日本共産党員である可能性が高いと思われる。
 英語版Wikipedia によるL・コワコフスキ(1927.10.23~2009.07.17)を、以下に、冒頭を除き、日本語に試訳しておく。
 Wikipedia の記述が完全には信用できないものであることは、むろん承知している。また、今後に追記や修正もあるだろう。
 しかし、L・コワコフスキの名前自体がほとんど知られていない日本では、以下のような記述(しかも参照文献の注記つき)の紹介は無意味ではないと考える。
 なお、①ポーランドの1980年前後以降の「連帯」労働者運動(代表はワレサ/ヴァレンザ、のち大統領)に、L・コワコフスキが具体的な支援活動をしていたことを、初めて知った。
 ②末尾に、最近にこの欄で名前を出したRoger Scruton による追悼文(記事)のことがあり、興味深い。
 引用の趣旨の全体の「」は省略する。< >はイタリック体。ここでは、一文ごとに改行する。//は本来の改行箇所。注または参照文献はほとんど氏名・出所だけなので、挙げられる氏名のみを記す。
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 彼〔レシェク・コワコフスキ〕は、そのマルクス主義思想の批判的分析で、とくにその三巻本の歴史書、<マルクス主義の主要潮流>(1976)で最もよく知られている。
 その後の仕事では、コワコフスキは徐々に宗教問題に焦点を当てた。
 1986年のジェファーソン講演で、彼は『我々が歴史を学ぶのは、いかに行動しいかに成功するかを知るためではなく、我々は何ものであるかを知るためだ』と主張した。(3)//
 彼のマルクス主義および共産主義に対する批判を理由として、コワコフスキは1968年に事実上(effectively)ポーランドから追放された。
 彼はその経歴の残りのほとんどを、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで過ごした。
 この国外追放にもかかわらず、彼は、1980年代にポーランドで花咲いた連帯(solidarity)運動に対する、大きな激励者だった。そして、ソヴェト同盟〔連邦〕の崩壊をもたらすのを助けた。彼の存在は『人間の希望を呼び醒ます人物(awakener of human hope)』と表現されるにまで至る。(4)// 
 経歴(biography)。
 コワコフスキは、ポーランド、ラドムで生まれた。
 第二次大戦中のポーランドに対するドイツの占領(1939-1945)の間、彼は公式の学校教育を享受しなかった。しかし、書物を読み、ときどきの私的な教育を受け、地下にあった学校制度で、外部の学生の一人として、学校卒業諸試験に合格した。
 戦争の後、彼はロズ(Lodz)大学で哲学を研究した。
 1940年代の後半までに、彼がその世代の最も輝かしいポーランドの知性の一人であることが明確だった(5)。そして、1953年<26歳の年>には、バルシュ・スピノザに関する研究論文で、ワルシャワ大学から博士号を得た。その研究では、マルクス主義の観点からスピノザを分析していた。(6)
 彼は1959年から1968年まで〔32歳の年から41歳の年まで〕、ワルシャワ大学の哲学史部門の教授および講座職者として勤務した。//
 青年時代に、コワコフスキは共産主義者〔共産党員〕になった。
 1947年から1966年まで〔20歳の年から39歳の年まで〕、彼はポーランド統一労働者党の党員だった。
 彼の知性の有望さによって、1950年〔23歳の年〕にモスクワへの旅行を獲得した(7)。そこで彼は、実際の共産主義を見て、共産主義は気味が悪い(repulsive)ものだと知った。
 彼はスターリン主義(スターリニズム)と決別し、マルクスの人間主義(humanist)解釈を支持する『修正主義マルクス主義者』となった。
 ポーランドの10月である1956年の一年後〔30歳の年〕に、コワコフスキは、歴史的決定論を含むソヴィエト・マルクス主義に関する四部からなる批判を、ポーランドの定期刊行誌・<新文化(Nowa Kultura)>に発表した。(8) 
ポーランドの10月十周年記念のワルシャワ大学での公開講演によって、ポーランド統一労働者党から除名された。
 1968年〔41歳、「プラハの春」の年)のポーランドの政治的危機の経緯の中で、ワルシャワ大学での職を失い、別のいかなる学術関係ポストに就くことも妨げられた。(9)//
 彼は、スターリン主義の全体主義的残虐性はマルクス主義からの逸脱(aberration)ではなく、むしろマルクス主義の論理的な最終の所産だ、との結論に到達した。そのマルクス主義の系譜を、彼は、その記念碑的(monumental)な<マルクス主義の主要潮流>で検証した。この著は彼の主要著作で、1976-1978年に公刊された。(10)//
 コワコフスキは次第に、神学上の諸前提が西側の思想、とくに現代の思想に対して与えた貢献(contribution)に魅惑されるようになった。
 例えば、彼は<マルクス主義の主要潮流>を、中世の多様な形態のプラトン主義が一世紀後にヘーゲル主義者の歴史観に与えた貢献を分析することから始める。
 彼はこの著作で、弁証法的唯物論の法則は根本的に欠陥があるものだと批判した-そのいくつかは『マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truisms)』だ、別のものは『科学的方法では証明され得ない哲学上のドグマ』だ、そして残りは『無意味なもの(nonsense)』だ、と。(11)//
 コワコフスキは、超越的なものへの人間の探求において自由が果たす役割を擁護した。//
 彼の<無限豊穣(the Infinite Cornucopia)の法則>は究明の状態(status quaestions)の原理を主張するもので、その原理とは、人が信じたいと欲するいかなる所与の原理についても、人がそれを支持することのできる論拠に不足することは決してない、というものだ。(12)
 にもかかわらず、人間が誤りやすいことは我々は無謬性への要求を懐疑心をもってとり扱うべきだということを示唆するけれども、我々のより高きもの(例えば、真実や善)への追求心は気高いもの(ennobling)だ。//
 1968年〔41歳の年〕に彼は、モントリオールのマクギル(McGill)大学で哲学部門の客員教授になり、1969年にカリフォルニア大学バークリー校に移った。
 1970年〔43歳の年〕に彼は、オクスフォードのオール・ソウルズ・カレッジで上級研究員となった。
 1974年の一部をイェイル大学ですごし、1984年から1994年までシカゴ大学の社会思想委員会および哲学部門で非常勤の教授だったけれども、彼はほとんどをオクスフォードにとどまった。//
 ポーランドの共産主義当局はポーランドで彼の諸著作を発禁にしたが、それらの地下複写物はポーランド知識人の抵抗者の見解に影響を与えた。
 彼の1971年の小論<希望と絶望に関するテーゼ>(<中略>)は(13)(14)、自立して組織された社会諸集団は徐々に全体主義国家で市民社会の領域を拡張することができると示唆するもので、1970年代の反体制運動を喚起させるのに役立ち、それは連帯(Solidarity)へとつながった。そして、結局は、1989年〔62歳の年〕の欧州での共産主義の崩壊に至った。
 1980年代にコワコフスキは、インタビューに応じ、寄稿をし、かつ基金を募って、連帯(Solidarity)を支援した。(4)//
 ポーランドでは、コワコフスキは哲学者および思想に関する歴史学者として畏敬されているのみならず、共産主義(コミュニズム)の対抗者のための聖像(icon)としても崇敬されている。
 アダム・ミクニク(A. Michnik)は、コワコフスキを『今日のポーランド文化の最も傑出した創造者の一人』と呼んだ。(15)(16)//
 コワコフスキは、2009年7月17日に81歳で、オクスフォードで逝去した。(17)
 彼の追悼文(-記事)で、哲学者のロジャー・スクルートン(Roger Scruton)は、こう語った。
 コワコフスキは、『我々の時代のための思想家だった』。また、彼の知識人反対者との論議に関して、『かりに<中略>破壊的な正統派たちには何も残っていなかったとしてすら、誰も自分たちのエゴが傷つけられたとは感じなかったし、あるいは誰も彼らの人生計画に敗北があったとは感じなかった。他の別の根拠からであれば最大級の憤慨を呼び起こしただろう、そういう議論の仕方によって』、と。(18)//
 (3) Leszek Kolakowski. (4) Jason Steinhauer. (5) Alister McGrath. (6) Leszek Kolakowski.(7) Leszek Kolakowski.(8) -Forein News. (9) Clive James. (10) Gareth Jones. (11)Leszek Kolakowski. (12) Leszek Kolakowski. (13) Leszek Kolakowski. (14) Leszek Kolakowski. (15) Adam Michnik. (16) Norman Davis. (17) Leszek Kolakowski.(18) Roger Scruton.
 ----
 以上。

1736/全体主義者・レーニン①-L・コワコフスキ著18章8節。

 この本には、邦訳書がない。なぜか。日本の「左翼」と日本共産党にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。一方、日本の「保守」派の多くはマルクス主義の内実と歴史にほとんど関心がないからだ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.

 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.766-7、分冊版・第2巻p.513-4。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第8節・全体主義のイデオロギスト〔唱道者〕としてのレーニン①。
 レーニンは、重要な実践的問題についてトロツキーよりもはるかに教理主義的(doctrinaire)ではなかったが、少なくとも二つの点では、自分自身の原理から逸脱した。
 第一に、労働組合は計画経済の遂行のためのみならず国家に対して労働者を守るためにも役割を果たす-本当の(true)マルクス主義の論理では、彼はトロツキーのようにこれは労働者階級が自分自身に対して自分自身を守るのであって馬鹿げたことだと以前には主張していたのだが-、と彼は認識していた。      
 第二に、国家は『官僚制的歪曲』を被っている、と認めていた。このことが彼の心理上の図式の中にどの程度入り込んでいたのか、は明らかではなかったけれども。
 階級利益の観点からは、表向きには、資本主義の官僚制は抑圧の道具であり、社会主義のそれは解放の道具だった。
 これら二つの問題についてドグマ(教条)を現実のために犠牲にすることができる、というのは、レーニンの常識に含まれていた。しかし、不運にも、何かをするには道理を分別するのが遅すぎた。
 どの場合でも、彼は、労働組合の自立性を擁護する一つの言葉ごとに、サンディカリズムの危険について十の言葉を発した。そして、より強くする以外に官僚制を解決する方策を持たなかった。
 党自身は社会全体では抑圧されていた自由な言論と自由な批判をすることのできる飛び地(enclave)だといういかなる幻想も、早くに消失する運命にあった。
 述べてきたように、レーニン自身は、党内部での徒党(派閥、clique)や論争は健康な徴候だとは決して考えなかった。
 召喚主義者(otzovist)や「革命思想や哲学思想の完全な自由」とのスローガンと闘っていた1910年にすでに、レーニンはこう書いた。
 『このスローガンは、全く日和見主義だ。
 全ての国々で、日和見主義者によってこの種のスローガンが社会主義政党の前に押し出されたが、実際にはこれは、ブルジョアジーの観念体系(イデオロギー)によって労働者階級を腐敗させる『自由』以外の何ものでもなかった。
 「思想の自由」(プレス、言論および信教の自由と読むべし)を、我々は、団結の自由とともに(党にではなく)<国家>に要求する。』(+)
 (「Vperyod 派」、1910年9月、全集16巻270頁(=日本語版全集16巻「『フペリョード』の分派について」288頁〕。)
 もちろんこれは、ブルジョア国家に論及したものだ。
 いったん国家の権威が党のそれと同一視されると、批判する自由に適用する論理は、明らかに、両者について同じでなければならない。
 党の<画一化(Gleichschaltung)>にはより長く要したが、しかしともに不可避のことだった。
 問題は、1921年3月の第10回党大会で、原理的に解決された。レーニンの分派主義および「諸見解の色合いを研究するという贅沢」に対する攻撃、そして『我々は偏向(deviation)に関する討議をすることはできない、それを中止しなければならない』という彼の言明によって。(+)
 (全集32巻177-8頁〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第十回党大会」のうち「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治活動についての報告/3月8日」184頁・185頁〕。)
 レーニンの死後数年間は、党内部に、あるいはむしろ党の諸機関の内部に、グループや「プラットホーム」を公然と形成することを完全に阻止するのは、不可能だった。
 しかし、まもなく、純粋な又は想像上の「偏向」は、国家の制裁的な腕力によって処理された。そして、統一(単一性、unity)という理想は、警察の手段でもって達成された。//
 しかしながら、レーニンの教義とそれに伴う思考のスタイルが全体主義システムの基礎を築いた、と言い得るとすれば、それは、テロルの使用や公民的自由の弾圧を正当化するために引き合いに出された諸原理を理由とするものではない。
 ひとたび内戦が開始されるや、テロリズムという極端な手段が両方の側から期待されることとなる。
 体制を維持し、強化するための公民的自由の廃絶は、つぎのような原理によってでなくしては、達成することはできない。すなわち、全ての活動-経済的、文化的等-は完全に国家に従属しなければならない。体制への反逆行為は禁じられて仮借なく罰せられるのみならず、いかなる政治的行為も「中立的」ではなく、個々の市民は国家の目的の範囲に入らないいかなることもする権利を持たない。市民は国家の所有物であり、そのようなものとして取り扱われる。
 これら諸原理をツァーリ帝制ロシアから受け継ぎ、はるかに強い程度の完成物となったソヴィエト体制は、この点で、やはりレーニンの作品(work)でもあった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
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 ②へとつづく。
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