この本には、邦訳書がない。何故か。
日本共産党と日本の「左翼」にとって、きわめて危険だからだ。
<保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
=レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
試訳の前回のつづき。
---
第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁③。
プロレタリア-ト独裁は-一時的にではなく永続的に-、議会制度および立法権と執行権の分離を廃棄するだろう。
これこそが、ソヴェト共和国と議会主義体制の間の主要な違いだとされるものだ。<以上二文、前回と重複>
1918年3月のロシア共産党(ボルシェヴィキ)第七回大会で、レーニンはこの原理を具体化する綱領案を提示した。
『議会制度(立法権の執行権からの分離としての)の廃棄、立法的国家活動と執行的国家活動との統合。行政と立法の融合。』
(全集27巻p.154〔=日本語版全集27巻「…第七回大会/ソヴェト権力についての一〇のテーゼ」154頁〕。)
別の言葉で云えば、支配者は法を決定し、その法によって支配し、誰からも統制されない。
しかし、誰が支配者なのか?
レーニンはその草案で、自由と民主主義は全ての者のためにではなく、労働被搾取大衆のために、彼らの解放のために目指されるべきだ、と強調した。
革命の最初から、レーニンは、プロレタリア-トからの支持のみならずクラク(kulag, 富農)に反対する労働農民からの支持を期待した。
しかし、すぐに明確になったのは、農民全体が大地主に対する革命を支持し、次の段階へ進むことについては熱狂的でない、ということだった。
党は、農村地帯での階級闘争を煽ることを最初から望み、貧農や労働農民が豊かな農民に対して抵抗するように掻き立てた。とりわけ、いわゆる『貧農委員会(Committees of the Poor)』によって。
しかし、成果は乏しかった。そして、階級としての農民の共通の利益が貧農と富農との間の対立よりも総じて強いことが明確だった。
レーニンはすみやかに、全体としての農民を『中立化』すること支持して語ることを始めた。
1921年5月、ネップ前夜の党第一〇回全国協議会で、レーニンはこう明言した。
『我々は、欺すことをしないで、農民たちに、率直かつ正直に告げる。
社会主義への途を維持し続けるために、我々は、諸君、同志農民たちに、多大の譲歩をする。
しかし、この譲歩は一定の制限の範囲内のみでであり、一定の程度までだ。
もちろん、その制限と程度とを、我々自身が判断することになる。』
(全集32巻p.419〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第十回全国協議会/食糧税についての報告の結語」449頁。)//
最初の『過渡的な』スローガンは、つまりプロレタリア-ト独裁と貧窮農民のスローガンは、もはや妄想であるかプロパガンダの道具だった。
党は、やがて公然と、プロレタリア-ト独裁は全農民層に対して行使されることを肯定した。かくして、農民に最も関係する問題の決定について、農民は何も言わなかった。彼らはなおも、考慮されるべき障害物であり続けたけれども。
事態は、実際、最初から明白だった。〔1917年の憲法制定会議のための〕十一月の選挙が示したとおりに、かりに農民が権力を分かち持っていたならば、国家は、ボルシェヴィキを少数野党とするエスエルによって統治されていただろう。//
プロレタリア-トはかくして、独裁支配権を誰とも共有しなかった。
『多数派』の問題について言うと、このことはレーニンを大して当惑させなかった。
『立憲主義の幻想』という論文(1917年8月)で、彼はこう書いていた。
『革命のときには、「多数派の意思」を確認することでは十分でない。
-諸君は、決定的な瞬間に、決定的な場所で、「より強い者であることを証明」しなければならない。諸君は「勝利」しなければならない。<中略>
我々は、よりよく組織され、より高い政治意識をもった、より十分に武装した少数派の勢力が、自分たちの意思を多数派に押しつけて多数派を打ち破った、無数の実例を見てきた。』
(全集25巻p.201〔=日本語版全集25巻218頁〕。)//
しかしながら、<国家と革命>で叙述されたようにではなく、プロレタリア-トは党によって『代表される』との原理に合致してプロレタリア少数派が権力を行使すべきものであることは、最初から明白だった。
レーニンは、『党の独裁』という語句を使うのを躊躇しなかった。-これは、党がまだその危機に対応しなければならないときのことで、ときどきは正直すぎた。
1919年7月31日の演説で、レーニンはつぎのように宣告した。
『一党独裁制を樹立したと批難されるとき、そして諸君が耳にするだろうように、社会主義者の統一指導部が提案されるとき、我々はこう言おう。
「そのとおり。一つの党の独裁だ! 我々は一党独裁の上に立っており、その地位から決して離れはしない。なぜなら、数十年をかけて、全ての工場と産業プロレタリア-トの前衛たる地位を獲得した党だからだ」。』
(全集29巻p.535〔=日本語版全集29巻「教育活動家および社会主義文化活動家第一回全ロシア大会での演説」549頁〕。)
レーニンは、1922年1月の労働組合に関する文書で、大衆の遅れた層から生じる『矛盾』に言及したあと、こう明言した。
『いま述べた矛盾は、間違いなく、紛議、不和、摩擦等々を生じさせるだろう。
これらの矛盾をただちに解決するに十分な権威をもつ、より高次の機構が必要だ。
その高次の機構こそが党であり、全ての国家の共産党の国際的連合体-共産主義者インターナショナル〔コミンテルン〕だ。』
(全集33巻p.193〔=日本語版全集33巻「新経済政策の諸条件のもとでの労働組合の役割と任務について」191頁〕。)//
------
(+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
---
④へとつづく。
日本共産党と日本の「左翼」にとって、きわめて危険だからだ。
<保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
=レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
試訳の前回のつづき。
---
第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁③。
プロレタリア-ト独裁は-一時的にではなく永続的に-、議会制度および立法権と執行権の分離を廃棄するだろう。
これこそが、ソヴェト共和国と議会主義体制の間の主要な違いだとされるものだ。<以上二文、前回と重複>
1918年3月のロシア共産党(ボルシェヴィキ)第七回大会で、レーニンはこの原理を具体化する綱領案を提示した。
『議会制度(立法権の執行権からの分離としての)の廃棄、立法的国家活動と執行的国家活動との統合。行政と立法の融合。』
(全集27巻p.154〔=日本語版全集27巻「…第七回大会/ソヴェト権力についての一〇のテーゼ」154頁〕。)
別の言葉で云えば、支配者は法を決定し、その法によって支配し、誰からも統制されない。
しかし、誰が支配者なのか?
レーニンはその草案で、自由と民主主義は全ての者のためにではなく、労働被搾取大衆のために、彼らの解放のために目指されるべきだ、と強調した。
革命の最初から、レーニンは、プロレタリア-トからの支持のみならずクラク(kulag, 富農)に反対する労働農民からの支持を期待した。
しかし、すぐに明確になったのは、農民全体が大地主に対する革命を支持し、次の段階へ進むことについては熱狂的でない、ということだった。
党は、農村地帯での階級闘争を煽ることを最初から望み、貧農や労働農民が豊かな農民に対して抵抗するように掻き立てた。とりわけ、いわゆる『貧農委員会(Committees of the Poor)』によって。
しかし、成果は乏しかった。そして、階級としての農民の共通の利益が貧農と富農との間の対立よりも総じて強いことが明確だった。
レーニンはすみやかに、全体としての農民を『中立化』すること支持して語ることを始めた。
1921年5月、ネップ前夜の党第一〇回全国協議会で、レーニンはこう明言した。
『我々は、欺すことをしないで、農民たちに、率直かつ正直に告げる。
社会主義への途を維持し続けるために、我々は、諸君、同志農民たちに、多大の譲歩をする。
しかし、この譲歩は一定の制限の範囲内のみでであり、一定の程度までだ。
もちろん、その制限と程度とを、我々自身が判断することになる。』
(全集32巻p.419〔=日本語版全集32巻「ロシア共産党(ボ)第十回全国協議会/食糧税についての報告の結語」449頁。)//
最初の『過渡的な』スローガンは、つまりプロレタリア-ト独裁と貧窮農民のスローガンは、もはや妄想であるかプロパガンダの道具だった。
党は、やがて公然と、プロレタリア-ト独裁は全農民層に対して行使されることを肯定した。かくして、農民に最も関係する問題の決定について、農民は何も言わなかった。彼らはなおも、考慮されるべき障害物であり続けたけれども。
事態は、実際、最初から明白だった。〔1917年の憲法制定会議のための〕十一月の選挙が示したとおりに、かりに農民が権力を分かち持っていたならば、国家は、ボルシェヴィキを少数野党とするエスエルによって統治されていただろう。//
プロレタリア-トはかくして、独裁支配権を誰とも共有しなかった。
『多数派』の問題について言うと、このことはレーニンを大して当惑させなかった。
『立憲主義の幻想』という論文(1917年8月)で、彼はこう書いていた。
『革命のときには、「多数派の意思」を確認することでは十分でない。
-諸君は、決定的な瞬間に、決定的な場所で、「より強い者であることを証明」しなければならない。諸君は「勝利」しなければならない。<中略>
我々は、よりよく組織され、より高い政治意識をもった、より十分に武装した少数派の勢力が、自分たちの意思を多数派に押しつけて多数派を打ち破った、無数の実例を見てきた。』
(全集25巻p.201〔=日本語版全集25巻218頁〕。)//
しかしながら、<国家と革命>で叙述されたようにではなく、プロレタリア-トは党によって『代表される』との原理に合致してプロレタリア少数派が権力を行使すべきものであることは、最初から明白だった。
レーニンは、『党の独裁』という語句を使うのを躊躇しなかった。-これは、党がまだその危機に対応しなければならないときのことで、ときどきは正直すぎた。
1919年7月31日の演説で、レーニンはつぎのように宣告した。
『一党独裁制を樹立したと批難されるとき、そして諸君が耳にするだろうように、社会主義者の統一指導部が提案されるとき、我々はこう言おう。
「そのとおり。一つの党の独裁だ! 我々は一党独裁の上に立っており、その地位から決して離れはしない。なぜなら、数十年をかけて、全ての工場と産業プロレタリア-トの前衛たる地位を獲得した党だからだ」。』
(全集29巻p.535〔=日本語版全集29巻「教育活動家および社会主義文化活動家第一回全ロシア大会での演説」549頁〕。)
レーニンは、1922年1月の労働組合に関する文書で、大衆の遅れた層から生じる『矛盾』に言及したあと、こう明言した。
『いま述べた矛盾は、間違いなく、紛議、不和、摩擦等々を生じさせるだろう。
これらの矛盾をただちに解決するに十分な権威をもつ、より高次の機構が必要だ。
その高次の機構こそが党であり、全ての国家の共産党の国際的連合体-共産主義者インターナショナル〔コミンテルン〕だ。』
(全集33巻p.193〔=日本語版全集33巻「新経済政策の諸条件のもとでの労働組合の役割と任務について」191頁〕。)//
------
(+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
---
④へとつづく。