○ 櫻井よしこは、日本の一般国民の日常的な神仏の感覚を侮蔑してはいけない。
神仏の区別の曖昧さ、または神仏混淆・習合、についてつづける。
一回だけ、本堂か本殿かの前に立って、手を合わせ始めて、一瞬か数秒か、ここは神社だったか寺院だったかが分からなくなっていたことがあった。両掌で叩いてしまっては、仏教寺院ではたぶんいけない。
それは奈良県桜井市の「談山神社」(中大兄皇子・中臣鎌足の「談」の地とされ、後者を神として祀る)で、こう書くと神道「神社」であることが明らかだが、山の斜面の広い境内や一三重の塔などには、仏教寺院であっても不思議ではない雰囲気がある。
この神社の建築物もきっと、仏教の影響を受けているか、かつては仏教寺院そのものだったのだろう。
神道神社の本殿・正殿であっても、千木や鰹木類は全くない、寺院の本堂だと言われても納得してしまうようなものは数多くあるのではないか。拝殿も同様だ。
神仏の分かち難さは、いわゆる<七福神>信仰でも分かる。
この七福神は、それぞれの一つずつについても、神と仏の区別が明確にはなされていないように見える。「えびす(恵比寿)」だけはどうやら神道上の神のような気がする。
しかし、江ノ島神社について、江島「弁財天」と言ったりするが、「弁財天」は神道の神なのか。
また、混淆しているわけではないが、新しく10年ほど前から関西には寺院90・神社60の計150寺社からなる<神仏霊場会>なるものがあり、専用の朱印帳も販売している。神道神社と仏教寺院が同じ一列に並んでいる。
<神道は日本の宗教です>と意を決したように( ?)語る櫻井よしこには、このような現実は見えているのだろうか。
○ ついでに言うと、仏教もさまざまだ。ほとんど表面的な外観のみでいうと、長崎市の崇福寺・興福寺は赤色が目立って異国の中国ふうに感じ、宇治市の万福寺(隠元・黄檗宗)もまた日本的でない厳しさと古さを感じる。
これらの<異国>を感じる仏教寺院に比べれば、他の日本の寺院はすっかり日本化しているようだ。例えば、東京・浅草寺、成田・新勝寺や京都・清水寺は、あるいは奈良・興福寺は、すっかり日本の景色になってしまっているだろう。
おそらく宗教・仏教の経典解釈も、昔のインドまたは中国のそれとは異なってきているに違いない。
もっとも、巨大な仏像(東大寺、鎌倉・高徳院等)や大きな石仏は、少なくともかつての日本人には異国を感じさせたものではなかったかと想像する。
また例えば、奈良県高取町・南法華寺(壺坂寺)の本尊仏の正面に向けた「眼」の大きさは、インドかまたはそれよりも西方の地域を想像させもする。日本の仏像のかなり多くは、正面向きであれ、斜め下向きであれ、眼は細長いように見えるからだ。
そしてまた、仏教建築・仏教美術も、とっくに日本のものに、日本の「伝統」になっているだろう。鎌倉時代以降だっただろうか、運慶・快慶ら制作の仏像・金剛力士像等々の存在、その他今に残る仏教「絵画」等々、さらには<禅庭>、を抜きにして、日本の「文化」を語ることはできないだろう。
神道・神社よりも仏教・寺院の方が大切だなどとは、一言も主張していない。
櫻井よしこは、国民・一般庶民でも感知できる日本の歴史や文化にとっての仏教や寺院の存在の大きさを、いかほど認識しているのか、きわめて疑わしい、と指摘している。
櫻井よしこは、国民一般の庶民感覚を侮蔑しているのではないか。
○ 天皇や皇族の<陵墓>のテーマに移る(戻る)。
櫻井よしこは、聖徳太子に論及する際に、神道によって「寛容に」導入された、という意味でしか「仏教」に触れなかった。
しかし、櫻井よしこは知っているだろうか。聖徳太子とその母親・(最後の)妻は、少なくとも明治期に入るまで、<仏教>式で祭事が行われ、その陵墓は仏教寺院によって管理されてきた。
根拠文献は手元に一つもないが、大阪府・叡福寺の現地を訪れてみれば、すぐに分かる。
石段を上がってこの寺の山門をくぐると、真正面の北方向に、聖徳太子らの陵墓はある。本堂や多宝塔はこの南北の中心線よりも西側にあり、寺務所は東側にある。陵墓へ直線で進めるように中心線部分は空いている。感覚としては、寺の境内の中、少なくとも中央の奥に、陵墓がある。
現在の管理の仕方はのちに言及するが、江戸時代末期まで、法形式にはともあれ、この寺が聖徳太子のいわば菩提寺であり、法要や墓の維持・管理がこの寺によって行われてきたことはほとんど間違いがないだろう。
それにまた、この寺のある町は、大阪府南河内郡「太子(たいし)町」という。
なお、同じ町内には敏達天皇(即位572-)、父親の用明天皇(同585-)、孝徳天皇(同645-)の陵墓(とされるもの)もある。
今回は以下を参照している。即位年は後者による(争いはあるのかもしれない)。
藤井利章・天皇の御陵を知る辞典(日本文芸社、1990)。
別冊歴史読本/図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
聖徳太子については非実在説もあるし、(歴史教科書中への)厩戸皇子への名称変更説もあるらしいが、伝統的な理解によると、日本の初の仏教寺院だとされる大阪市・四天王寺は聖徳太子ゆかりだった。また、世界遺産・法隆寺(奈良・斑鳩町)もまた聖徳太子に最も関係がある。その西方にあって法隆寺とも縁があるかに思える古墳は、暗殺された、母方の叔父にあたる崇峻天皇の(本当の)墓ではないかとの説もある。
梅原猛は以下の本で、法隆寺は聖徳太子の「怨霊」を封じ込めるための仏教施設ではないか、とした。たしかに、南大門の柱の本数は奇数で、真ん中は(中から外へも)出にくくなっている。
梅原猛・隠された十字架-法隆寺論(新潮社、1972/新潮文庫1981)。
ともあれ、聖徳太子といえば、すぐに<仏教>を連想させるほどの、仏教または寺院と関係の深い、日本最初の人物だ。
櫻井よしこは、この点を、完全に無視しようとしている。
「無知」であるか、何らかの<政治的動機>があるかのどちらかだろう。
○ R・パイプスと櫻井よしこを比べてしまって、恥ずかしいことをした。
L・コラコフスキーと関連づけてしまうのは、狂気の沙汰だ。
歴史と思想に関する豊かな知見、それらへの深い思索と洞察、かつ鋭く適確な政治的感覚をもった人物またはリーダーは、日本の<保守>界の中には、いないのだろうか。
日本会議会長・田久保忠衛、国家基本問題研究所理事長・櫻井よしこ。
こう書いて、ぞっと戦慄が走る。
神仏の区別の曖昧さ、または神仏混淆・習合、についてつづける。
一回だけ、本堂か本殿かの前に立って、手を合わせ始めて、一瞬か数秒か、ここは神社だったか寺院だったかが分からなくなっていたことがあった。両掌で叩いてしまっては、仏教寺院ではたぶんいけない。
それは奈良県桜井市の「談山神社」(中大兄皇子・中臣鎌足の「談」の地とされ、後者を神として祀る)で、こう書くと神道「神社」であることが明らかだが、山の斜面の広い境内や一三重の塔などには、仏教寺院であっても不思議ではない雰囲気がある。
この神社の建築物もきっと、仏教の影響を受けているか、かつては仏教寺院そのものだったのだろう。
神道神社の本殿・正殿であっても、千木や鰹木類は全くない、寺院の本堂だと言われても納得してしまうようなものは数多くあるのではないか。拝殿も同様だ。
神仏の分かち難さは、いわゆる<七福神>信仰でも分かる。
この七福神は、それぞれの一つずつについても、神と仏の区別が明確にはなされていないように見える。「えびす(恵比寿)」だけはどうやら神道上の神のような気がする。
しかし、江ノ島神社について、江島「弁財天」と言ったりするが、「弁財天」は神道の神なのか。
また、混淆しているわけではないが、新しく10年ほど前から関西には寺院90・神社60の計150寺社からなる<神仏霊場会>なるものがあり、専用の朱印帳も販売している。神道神社と仏教寺院が同じ一列に並んでいる。
<神道は日本の宗教です>と意を決したように( ?)語る櫻井よしこには、このような現実は見えているのだろうか。
○ ついでに言うと、仏教もさまざまだ。ほとんど表面的な外観のみでいうと、長崎市の崇福寺・興福寺は赤色が目立って異国の中国ふうに感じ、宇治市の万福寺(隠元・黄檗宗)もまた日本的でない厳しさと古さを感じる。
これらの<異国>を感じる仏教寺院に比べれば、他の日本の寺院はすっかり日本化しているようだ。例えば、東京・浅草寺、成田・新勝寺や京都・清水寺は、あるいは奈良・興福寺は、すっかり日本の景色になってしまっているだろう。
おそらく宗教・仏教の経典解釈も、昔のインドまたは中国のそれとは異なってきているに違いない。
もっとも、巨大な仏像(東大寺、鎌倉・高徳院等)や大きな石仏は、少なくともかつての日本人には異国を感じさせたものではなかったかと想像する。
また例えば、奈良県高取町・南法華寺(壺坂寺)の本尊仏の正面に向けた「眼」の大きさは、インドかまたはそれよりも西方の地域を想像させもする。日本の仏像のかなり多くは、正面向きであれ、斜め下向きであれ、眼は細長いように見えるからだ。
そしてまた、仏教建築・仏教美術も、とっくに日本のものに、日本の「伝統」になっているだろう。鎌倉時代以降だっただろうか、運慶・快慶ら制作の仏像・金剛力士像等々の存在、その他今に残る仏教「絵画」等々、さらには<禅庭>、を抜きにして、日本の「文化」を語ることはできないだろう。
神道・神社よりも仏教・寺院の方が大切だなどとは、一言も主張していない。
櫻井よしこは、国民・一般庶民でも感知できる日本の歴史や文化にとっての仏教や寺院の存在の大きさを、いかほど認識しているのか、きわめて疑わしい、と指摘している。
櫻井よしこは、国民一般の庶民感覚を侮蔑しているのではないか。
○ 天皇や皇族の<陵墓>のテーマに移る(戻る)。
櫻井よしこは、聖徳太子に論及する際に、神道によって「寛容に」導入された、という意味でしか「仏教」に触れなかった。
しかし、櫻井よしこは知っているだろうか。聖徳太子とその母親・(最後の)妻は、少なくとも明治期に入るまで、<仏教>式で祭事が行われ、その陵墓は仏教寺院によって管理されてきた。
根拠文献は手元に一つもないが、大阪府・叡福寺の現地を訪れてみれば、すぐに分かる。
石段を上がってこの寺の山門をくぐると、真正面の北方向に、聖徳太子らの陵墓はある。本堂や多宝塔はこの南北の中心線よりも西側にあり、寺務所は東側にある。陵墓へ直線で進めるように中心線部分は空いている。感覚としては、寺の境内の中、少なくとも中央の奥に、陵墓がある。
現在の管理の仕方はのちに言及するが、江戸時代末期まで、法形式にはともあれ、この寺が聖徳太子のいわば菩提寺であり、法要や墓の維持・管理がこの寺によって行われてきたことはほとんど間違いがないだろう。
それにまた、この寺のある町は、大阪府南河内郡「太子(たいし)町」という。
なお、同じ町内には敏達天皇(即位572-)、父親の用明天皇(同585-)、孝徳天皇(同645-)の陵墓(とされるもの)もある。
今回は以下を参照している。即位年は後者による(争いはあるのかもしれない)。
藤井利章・天皇の御陵を知る辞典(日本文芸社、1990)。
別冊歴史読本/図説天皇陵-天皇陵を空から訪ねる(新人物往来社、2003)。
聖徳太子については非実在説もあるし、(歴史教科書中への)厩戸皇子への名称変更説もあるらしいが、伝統的な理解によると、日本の初の仏教寺院だとされる大阪市・四天王寺は聖徳太子ゆかりだった。また、世界遺産・法隆寺(奈良・斑鳩町)もまた聖徳太子に最も関係がある。その西方にあって法隆寺とも縁があるかに思える古墳は、暗殺された、母方の叔父にあたる崇峻天皇の(本当の)墓ではないかとの説もある。
梅原猛は以下の本で、法隆寺は聖徳太子の「怨霊」を封じ込めるための仏教施設ではないか、とした。たしかに、南大門の柱の本数は奇数で、真ん中は(中から外へも)出にくくなっている。
梅原猛・隠された十字架-法隆寺論(新潮社、1972/新潮文庫1981)。
ともあれ、聖徳太子といえば、すぐに<仏教>を連想させるほどの、仏教または寺院と関係の深い、日本最初の人物だ。
櫻井よしこは、この点を、完全に無視しようとしている。
「無知」であるか、何らかの<政治的動機>があるかのどちらかだろう。
○ R・パイプスと櫻井よしこを比べてしまって、恥ずかしいことをした。
L・コラコフスキーと関連づけてしまうのは、狂気の沙汰だ。
歴史と思想に関する豊かな知見、それらへの深い思索と洞察、かつ鋭く適確な政治的感覚をもった人物またはリーダーは、日本の<保守>界の中には、いないのだろうか。
日本会議会長・田久保忠衛、国家基本問題研究所理事長・櫻井よしこ。
こう書いて、ぞっと戦慄が走る。