Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.849-p.850。
/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
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1906年
3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
4月27日 ドゥーマ、開会。
7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
1907年
2月20日 第二ドゥーマ、開会。
3月 ストルイピン、改革綱領を発表。
6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
1911年
1月-3月 西部のZemstvo の危機。
9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
1912年
11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
1914年
1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
7月17日/30日 ロシア総動員令。
7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
8月 ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
8月末 ロシア軍、東プロシャで敗退。
9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
1915年
4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
6月 さらに内閣人事の変更。
6月-7月 進歩的ブロックの形成。
7月 国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
8月 政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
9月 3日 ドゥーマ、閉会。
9月 戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
10月 中央労働者集団の設立。
11月 Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
1916年
1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
4月 戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。
5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
11月8-10日 ステュルマー、解任される。
11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
12月17日 ラスプーチンの殺害。
12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
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*1917年以降につづく。
/の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
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1906年
3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
4月27日 ドゥーマ、開会。
7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
1907年
2月20日 第二ドゥーマ、開会。
3月 ストルイピン、改革綱領を発表。
6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
1911年
1月-3月 西部のZemstvo の危機。
9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
1912年
11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
1914年
1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
7月17日/30日 ロシア総動員令。
7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
8月 ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
8月末 ロシア軍、東プロシャで敗退。
9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
1915年
4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
6月 さらに内閣人事の変更。
6月-7月 進歩的ブロックの形成。
7月 国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
8月 政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
9月 3日 ドゥーマ、閉会。
9月 戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
10月 中央労働者集団の設立。
11月 Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
1916年
1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
4月 戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。
5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
11月8-10日 ステュルマー、解任される。
11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
12月17日 ラスプーチンの殺害。
12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
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*1917年以降につづく。