月刊正論(産経新聞社)は編集長・編集部が変わってかなりマシになってきたようだ。
部員として安藤慶太・上島嘉郎という、信用の措けそうなベテランが入っていることも大きいのかもしれない。
そろそろ数ヶ月遅れて中古本を読むのはやめようか、という気にもなってきた。
月刊正論7月号で目に付くのは、元週刊朝日編集長・川村二郎の朝日への「決別」文だ。だが、読んで見るとほとんど朝日新聞社グループ内のもめ事の程度のようだ。すなわち、川村二郎は、朝日新聞社の「左翼」性あるいは「容共」性を日本国家・日本国民の立場から批判しているのでは全くない。せいぜいのところ、論説委員等の文章力への嘆きとか自分に対する処遇のうらみごと程度では、まったく迫力がない。
それよりも、朝日新聞を毎日読むという精神衛生に良くない習慣のないところ、朝日新聞の昨年10/13付けの曽我豪(当時、政治部長)のコラムが一部引用されていて。その内容に興味を持った。川村によると、2020年東京五輪について曽我はこう書いた、という。
「国民の和合の礎となる」よう「昇華していけるのか、国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生むのか」、これがこの7年の「日本の政治の課題なのだろう」。
川村の批判に含まれているかもしれないように、二つの選択肢を挙げて、どちらを主張することもなく、「日本の政治の課題」だと言うのは、日本語文としても厳密には奇妙だ。「無用な対立や混沌」なるものの意味もよく分からない。
そのことよりも、朝日新聞の政治部長がオリンピックについて「国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生む」可能性に言及していることが興味深い。明確に書くことなく(例のごとく?)曖昧にはしているが、オリンピックを「国威発揚の道具」に少なくともなりうるものとして批判的に捉える、という朝日新聞らしい感覚が見てとれる。
オリンピックは、あるいはサッカー・ワールドカップは、客観的には「国威発揚」の場となり、国民「統合」の方向に働くことは否定できないと思われる。いちいち述べないが、やはりかなりの程度は、オリンピックでの成績(メダル数等)は<国力>に比例していることを否定できないと思われる。スポーツをできる余裕のある国民の数やスポーツに財政的にも援助できる金額等々は、国(国家)によって異なり、<格差>のあることはほとんど歴然としていると思われる。
だが、そのことをもって「国威発揚の道具」視するのは、何についても平等でなければならず、<競争>の嫌いな、従ってまた<国家間の競争>についても批判的・諧謔的に捉えようとする「左翼」のイデオロギーに毒されている、と感じざるをえない。
国家間の武力衝突・戦争に比べれば、平和的でルールに則った、可愛い「競争」ではないか。
だが、「日本」代表とかいうように、個別「国家」を意識させざるをえないことが、朝日新聞的「左翼」には不快であるに違いない。
先日言及した、<共産主義への憧れをやはり持っている>と吐露した人物は、<国威発揚の場となるようなオリンピックはやらない方がよい>と言い切った。あとで、オリンピック一般ではなく「国威発揚のために使われる」それに反対だと言い直していたのだが、趣旨はほとんど変わらないだろう。上述のように、客観的に見て、オリンピック等の「国家」を背負ったスボーツ大会は「国威発揚の場」にもならざるをえないからだ。
何年かに一度、「日本」代表選手又は選手団の勝敗や成績に関心をもち、応援して一喜一憂する国民が多くいることは悪いことではないと思う。
「地球」や「世界」ではなく個別の「国家」を意識させざるをえないオリンピック等に朝日新聞的「左翼」はもともと警戒的なのだ。彼ら「左翼」は、むろん日本国民の中にもいる「左翼」は、サッカー・ワールドカップのパプリック・ビューイングとやらに何万人、何千人もの人々が集まることに批判的、警戒的であるかもしれず、あるいは<ナショナリズムを煽られた>現象だと理解するのかもしれない。
だが、そのように感じる意識こそが、どこか<倒錯>しているのだ。「国家」を意識したくなく、(本来のコミュニストはそうだが)「国家」を否定したい、というのは<異常な>感覚なのだ。「日本」代表を応援するのが<ナショナリズム>だとすれば、それは何ら批判されるものではないし、批判的に見る<反・ナショナリズム>の方がフツーではない。しかし、一部にはそういう者もいて、<大衆は…>などと批判していそうなのだから、異様で、怖ろしい。
部員として安藤慶太・上島嘉郎という、信用の措けそうなベテランが入っていることも大きいのかもしれない。
そろそろ数ヶ月遅れて中古本を読むのはやめようか、という気にもなってきた。
月刊正論7月号で目に付くのは、元週刊朝日編集長・川村二郎の朝日への「決別」文だ。だが、読んで見るとほとんど朝日新聞社グループ内のもめ事の程度のようだ。すなわち、川村二郎は、朝日新聞社の「左翼」性あるいは「容共」性を日本国家・日本国民の立場から批判しているのでは全くない。せいぜいのところ、論説委員等の文章力への嘆きとか自分に対する処遇のうらみごと程度では、まったく迫力がない。
それよりも、朝日新聞を毎日読むという精神衛生に良くない習慣のないところ、朝日新聞の昨年10/13付けの曽我豪(当時、政治部長)のコラムが一部引用されていて。その内容に興味を持った。川村によると、2020年東京五輪について曽我はこう書いた、という。
「国民の和合の礎となる」よう「昇華していけるのか、国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生むのか」、これがこの7年の「日本の政治の課題なのだろう」。
川村の批判に含まれているかもしれないように、二つの選択肢を挙げて、どちらを主張することもなく、「日本の政治の課題」だと言うのは、日本語文としても厳密には奇妙だ。「無用な対立や混沌」なるものの意味もよく分からない。
そのことよりも、朝日新聞の政治部長がオリンピックについて「国威発揚の道具に偏して無用な対立や混沌を生む」可能性に言及していることが興味深い。明確に書くことなく(例のごとく?)曖昧にはしているが、オリンピックを「国威発揚の道具」に少なくともなりうるものとして批判的に捉える、という朝日新聞らしい感覚が見てとれる。
オリンピックは、あるいはサッカー・ワールドカップは、客観的には「国威発揚」の場となり、国民「統合」の方向に働くことは否定できないと思われる。いちいち述べないが、やはりかなりの程度は、オリンピックでの成績(メダル数等)は<国力>に比例していることを否定できないと思われる。スポーツをできる余裕のある国民の数やスポーツに財政的にも援助できる金額等々は、国(国家)によって異なり、<格差>のあることはほとんど歴然としていると思われる。
だが、そのことをもって「国威発揚の道具」視するのは、何についても平等でなければならず、<競争>の嫌いな、従ってまた<国家間の競争>についても批判的・諧謔的に捉えようとする「左翼」のイデオロギーに毒されている、と感じざるをえない。
国家間の武力衝突・戦争に比べれば、平和的でルールに則った、可愛い「競争」ではないか。
だが、「日本」代表とかいうように、個別「国家」を意識させざるをえないことが、朝日新聞的「左翼」には不快であるに違いない。
先日言及した、<共産主義への憧れをやはり持っている>と吐露した人物は、<国威発揚の場となるようなオリンピックはやらない方がよい>と言い切った。あとで、オリンピック一般ではなく「国威発揚のために使われる」それに反対だと言い直していたのだが、趣旨はほとんど変わらないだろう。上述のように、客観的に見て、オリンピック等の「国家」を背負ったスボーツ大会は「国威発揚の場」にもならざるをえないからだ。
何年かに一度、「日本」代表選手又は選手団の勝敗や成績に関心をもち、応援して一喜一憂する国民が多くいることは悪いことではないと思う。
「地球」や「世界」ではなく個別の「国家」を意識させざるをえないオリンピック等に朝日新聞的「左翼」はもともと警戒的なのだ。彼ら「左翼」は、むろん日本国民の中にもいる「左翼」は、サッカー・ワールドカップのパプリック・ビューイングとやらに何万人、何千人もの人々が集まることに批判的、警戒的であるかもしれず、あるいは<ナショナリズムを煽られた>現象だと理解するのかもしれない。
だが、そのように感じる意識こそが、どこか<倒錯>しているのだ。「国家」を意識したくなく、(本来のコミュニストはそうだが)「国家」を否定したい、というのは<異常な>感覚なのだ。「日本」代表を応援するのが<ナショナリズム>だとすれば、それは何ら批判されるものではないし、批判的に見る<反・ナショナリズム>の方がフツーではない。しかし、一部にはそういう者もいて、<大衆は…>などと批判していそうなのだから、異様で、怖ろしい。