一 あらためて現憲法九条の解釈問題に触れる。
というのは、産経新聞社の憲法九条関係の「専門」記者または論説委員の知識・勉強不足を、再び感じることがあったからだ。
先月の2/05と2/20の二回、<芦田修正>にかかる石破茂と田中某防衛大臣のやりとりに関連したコメントを記した。
そのときはあえて立ち入らなかったのだが、産経新聞の2/09社説「芦田修正/やはり9条改正が必要だ」には、九条1項と2項の関係についての、不思議な文章もあった。
すなわち、「歴代内閣は自衛隊は『戦力』ではなく必要最小限度の『実力』とみなしてきたが、極めて分かりにくい解釈である。/芦田解釈を認めないまでも、このような考え方を政府は一部受け入れており、安全保障の専門家ですら合憲の根拠が奈辺にあるかを把握するのは容易でない。/戦後日本はこうした解釈により、『武力による威嚇又は武力の行使』の放棄と『陸海空軍その他の戦力』の不保持を規定する9条の下で自衛隊の存在について無理やりつじつまを合わせてきた」。
「…政府は一部受け入れており」も、意味が不明だ。とくに奇妙なのは最後の一文で、自衛隊に関して、1項の「武力による威嚇又は武力の行使」の放棄と2項の「陸海空軍その他の戦力」の不保持を「無理やりつじつまを合わせてきた」という説明の仕方は、私には趣旨が理解できない。自衛隊の存在は、九条1項とは関係がない、あるいはそれと抵触しておらず、もっぱら九条2項の「軍その他戦力」概念との関係が問題になるにすぎないからだ。
1項は「戦争」放棄条項と称されることが多い。この社説の言うような、「武力による威嚇又は武力の行使」の放棄を少なくとも第一義的な目的としたものではない。そして、これと2項の矛盾?を「無理やりつじつまを合わせてきた」とはいったいいかなる意味なのだろうか、社説執筆者は憲法九条(1項と2項の関係も含む)の「政府解釈」をきちんと理解しているのだろうか、という疑問をもった。
この点では、翌日の読売新聞社説の方がはるかにマシで、簡潔ながら要点をおさえていた。すなわち、「原案は9条1項で侵略戦争を放棄し、2項で戦力不保持を明記していた。2項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入した。/これにより、自衛の目的であるならば、陸海空軍の戦力を持ち得るとする解釈論が後年、生まれることになる。/だが、政府解釈は、芦田修正を自衛隊合憲の根拠としてこなかった」。詳細にここで立ち入らないし、ある程度はのちに述べるが、この読売社説の文章は奇妙ではない。
問題はおそらく、端的に言って、現憲法九条1項の理解にある。読売社説はすでに原案で「侵略戦争を放棄し」と書いているが、産経新聞においては、この点自体があやしい。すなわち、九条1項は「すべての」戦争を放棄していると、とりあえずは読んで(解釈して)しまっているのではないか。あるいは、表面的な字面に惑わされて、九条1項にいう「武力」概念と自衛隊の存在との間に問題がある、とでも安直に読んで(解釈して)いるのではないか。
二 九条1項は自衛目的の戦争を含むいっさいの戦争(等)を放棄している、という理解(解釈)は憲法学者の中にもあるし、吉永小百合もまた、これを前提とする文章を、岩波書店刊行のブックレットに書いている。
月刊WiLL4月号(ワック)の雑談話中の久保紘之も、ある意味では通俗的解釈については正確に、「前項の『戦争放棄』を補強して、そのために『戦力放棄』をすると読まれた」、芦田修正の含意は一部の者の「密教」となり、「民衆レベルでは『戦争も戦力も放棄』が顕教となっ」た、と語っている(p.100)。九条1項の意味や政府解釈等をどの程度正確に理解しているかは疑わしいが。
また、産経新聞3/14付の投書欄には、「民衆」の一人の次のような主張が掲載された。じつは、この投書の内容を読んで、この文章を書きたくなった。
投書者は、次のように言う。―自民党の憲法改正原案が「『国権の発動としての戦争を放棄する』との現行憲法第9条を維持している」のは残念だ、これを残すと「自衛のための戦争さえも」否定する根拠になりはしないか。現9条の「戦争放棄条項」を破棄すべきだ。
こういう主張の投書を産経新聞が掲載したということはおそらく、投書欄担当者は<一理ある>と考えたからだろう。
この投書者も(産経新聞の担当者も?)、9条の「戦争放棄条項」によって「すべての」・「いっさいの」(自衛戦争を含む)戦争が放棄されている、またはそのように解釈される可能性がある、ということを前提にしている。
三 この欄にすでにいく度か書いてきたことなのだが、憲法学界の「通説」らしきもの、及び「政府解釈」をいちおうはきちんと知っておく必要があるだろう。
現在の東京大学の憲法学教授・長谷部恭男の教科書はつぎのように叙述している。-9条1項について「通説は主として国際法上の慣用に基づいて、『国際紛争を解決する手段として』の戦争、〔…武力威嚇・武力行使〕の放棄は、侵略目的による戦争〔等〕の放棄を意味するにとどまるとする」(第4版、p.61)。
ここにいう「国際法上の慣用」を含めて、現役教授4名による現憲法注釈書である別の本は次のように書いている。-「通説によれば、九条一項が『国際紛争を解決する手段としては』永久に放棄するとした戦争は、一九二八年の不戦条約が『国際紛争解決ノ為戦争に訴フルコトヲ非トシ』て放棄した『…戦争』を意味する」、従って「少なくとも」「自衛戦争・自衛行動や軍事的制裁措置までは放棄していないということになる」(高見勝利執筆、同ら・憲法Ⅰ第4版(有斐閣、2006)p.165)。
これらにいう「通説」と(憲法制定時は別としても)警察予備隊や自衛隊設置等のあった一九五〇年代以降の「政府解釈」とは同じだ、と理解して差し支えない。なお、かつての宮澤俊義や現在の樋口陽一は「すべての」戦争放棄と解釈した、または解釈したがっているので、「通説」と同じではない。
以上のように、九条1項におけるキーワードは「国権の発動としての戦争」ではなく(これは「戦争」と同義かほとんど等しい)、「国際紛争を解決する手段としては」にある。そして、この語句による<限定>があるがゆえに、自衛戦争(自衛のための戦争)を九条1項は放棄(否認)していない、とするのが学界の「通説」であり(といっても厳密には諸説があるのだが、上の二著はあえて「通説」と言い切っているので従っておく)、「政府解釈」でもある。
ではなぜ「自衛(目的の)戦争」も否定されるかというと、それは九条2項の存在による。すなわち、1項のみでは「自衛戦争」は否定されていないが、2項によって「…軍その他の戦力」の不保持が明記されているために、自衛目的であれ「戦争」を行うための「戦力」を保持できず、従って「自衛戦争」を行うことが実際には不可能だ(否定されている)、ということにになっているのだ。
<芦田修正>の語句は、結果としてはまたは実質的には無視されて解釈されている、と言ってよいと思われる(この点は詳論を要するが、省略する)。そして最近に書いたことを繰り返せば、「自衛」のための「戦力」も保持できないが、自衛権はあり、「自衛」のための最小限度の<実力行使>はできる、そのための組織が(「戦力」ではない)自衛隊だ、ということに、「政府解釈」によれば、なっている。
国民・「民衆」レベルで、「国際紛争を解決する手段としては」という語句に着目することを期待するのは無理かもしれない。しかし、天下の大新聞?・産経新聞の社説等の執筆者あたりだと、上の程度くらいの知識を持っておくべきだろう。アホ丸出しとまでは書かないが、産経新聞2/09社説は、上のような趣旨を理解して書かれたのだろうか。また、3/14の投書欄担当者は、上のようなことを理解したうえで、一読者の投書を掲載しているのだろうか。
四 数年前に桝添要一が責任者またはまとめ役となって作成された自由民主党の改憲案においても、現憲法九条1項はそのまま残されていた。現九条2項は削除され、現在の九条1項が「九条」全体に変わり、そのうえで、新たに「九条の二」が設けられて「自衛軍」の保持が明記されていた。今回の自民党の憲法改正原案もまた、これを継承していると考えられる。
すなわち、<侵略戦争>はしない(放棄する)、という意味で、(自民党においてすら?)現九条1項はそのまま残されるのだ。
この点を正確に理解したうえで、改憲案に関する報道もなされるべきだろう。
すでにこう書いたことがある―「九条を考える会」という呼称はゴマカシだ、正確に<九条2項を考える(護持する)会>と名乗るべきだ、と。岩波書店あたりを実質的に事務局としていると推察される「九条を考える会」は(むろん奥平康弘という憲法学者を含む呼びかけ人たちは)、上のような「通説」や「政府見解(解釈)」を知っているにもかかわらず、九条1項の意味をあえて曖昧にし、九条1項がすでに「すべての」戦争を放棄し、そのための具体的な手段として九条2項がある、という(九条1項だけですでに「戦争」一般が放棄されているという)通俗的な、「民衆」レベルでの<美しい?誤解>によりかかって、会の名称とし、運動をしているのだ。
改憲政党の自民党ですら、現九条全体の破棄・削除を主張しているのではない。改憲政党の自民党ですら?「侵略戦争」を是としているのではない。自民党が主張しているのは、現九条の全体ではなく、後半・2項の削除(と「自衛戦争」可能な自衛軍保持の明記)だ。少なくとも大手新聞社の憲法担当の関係者は、この程度のことは<常識として>知っておくべきだろう。
産経新聞には、古森義久、黒田勝弘、湯浅博等々の、「正論」欄メンバー以上に博学でかつ現実的な議論のできそうな人物が少なからずいることを知っている。それにしては、憲法あるいは憲法九条関係の記事は、どうもあやしく、お粗末であるような気がする。
投書者に責任はないだろう。だが、上のような投書を投書欄の最右翼に掲げる感覚は、必ずしも適切ではないように思われる。現憲法九条の解釈論議をまき起こしたいという趣旨ならば理解できなくはないが、自民党の改憲原案への疑問としては正鵠を射ていない。産経新聞社には、憲法九条を含む憲法諸条項の「政府解釈」(多くは内閣法制局見解)をまとめた本(刊行されている)や少しは分厚い憲法の注釈書・教科書のいく冊かも置かれていないのだろうか。そうであるとすれば、まことに空怖ろしい。
お分かりかな? 産経新聞社の関係者のみなさん。一ブロガーにこんな書き方をされるとは、少しは恥ずかしいのではないか?