〇吉川元忠=関岡英之・国富消尽-対米隷従の果てに(PHP、2006)はp.174まで進んでいる。
佐伯啓思・大転換(NTT出版、2009)もまた、日本の(小泉・竹中)「構造改革の失敗」について語る。その事例として、「所得格差」・「労働の不安定さ」・「金融市場の不安定化」・「食料・資源価格の不安定化」・「IT革命という虚妄」といった「今日の事態」を挙げている(p.195)。
たが、その「失敗」又は「誤り」の原因を基本的に<対米隷従>に求めることは適切か、という問題がある。吉川元忠=関岡英之の上掲書よりも、佐伯啓思の上掲書の方が、より複合的・総合的に考察しているように見える。
上掲書の中で、関岡英之は次のように言う(p.123)。
<民にできることは民で・官から民へ>は「歴史的必然」でも「唯一絶対の真理」でもない、むしろ「極めて偏向した、ひとつのイデオロギー」にすぎない。「それはアダム・スミスを源流とし、ハイエクやフリードマンが復活させ、レーガンやサッチャーが国是としたアンクグロ・サクソン流のいわゆる市場原理主義」だ。
「いわゆる市場原理主義」と称するのは仮によいとしても、「極めて偏向した、ひとつのイデオロギー」の先頭にアダム・スミスを持ってくるのはいかがなものか。また、アダム・スミスからレーガン・サッチャーまでを一括りにして「極めて偏向した、ひとつのイデオロギー」と見るのは適切なのか。
小泉・竹中(近年の自民党)「構造改革」路線を批判する「左翼」ならばともかく、あるいは「市場原理主義」に「社会主義」を対置させる社会主義者(・共産主義者)ならばともかく、上のように簡単には言うべきではないのではないか。
関岡はまた、「いわゆる市場原理主義」をこう説明する。
「『小さな政府』とマーケット・メカニズムの絶対視、政府の役割を否定して、民間企業の経済活動を自由放任し、市場の見えざる手に委ねるべきだというドグマ」。これは「米国の民間企業の利益、ひいては米国の国益を極大化する戦略にも直結している」。
「米国の国益を極大化する戦略」に賛成するつもりはない。だが、「いわゆる市場原理主義」なるものに関する上の説明が正しいとすると「市場原理主義」自体をやはり問題視しなければならないことになるだろう。
またそもそも日本政府(小泉・竹中「構造改革」路線)はかかる「主義」を採用して「政策」化・現実化してきたかというと、きわめて疑問だ。
<規制緩和>の方向にあったことは間違いないように思われる。だが、日本政府はかつて、「政府の役割を否定」したことがあっただろうか。「小さな政府」とマーケット・メカニズムを「絶対視」しただろうか。「民間企業の経済活動を自由放任」しただろうか。
例えば、現実には諸銀行に対して税金が投入された。合併への<誘導>もなされた。郵政「民営化」と言ってもまだ政府が全資本をもち社長の人事権(認可権)を総務大臣がもっていることは周知のとおり。「民間企業の経済活動」の規制にかかわる金融庁・証券取引委員会等の新しい行政機関もでき、かつ「経済活動」を「自由放任」にはしていない関係法律はいくらでもある。
一種のレトリックだと釈明・反論されるかもしれないが、物事は単純にではなく、もう少し厳密に語るべきだと思われる。現象あるいは問題は、つまるところは、<公・私>・<官・民>・<国家と市場>の役割分担の<程度>・<あり方>であり、かつそれらは、<部門・分野ごとに>別々に論じられなければならないと思われる。
関岡は「アダム・スミスを源流とし、ハイエクやフリードマンが復活させ…」というが、上記のとおり、アダム・スミスまで批判すると、「国家(計画)経済主義」(=社会主義)に対する市場経済主義(=資本主義)自体を批判することになりかねない。
また、佐伯啓思によると、「構造改革」論者はミルトン・フリードマンとともにその師・フリートリッヒ・ハイエクの名を挙げることが多いが、たしかにハイエクの「思想」は「新自由主義」(注・佐伯が使っている語。「市場原理主義」でも「市場万能主義」でもない)の「教義」の「もと」になり、そしてアメリカ経済学の中心・シカゴ学派もハイエクの大きな影響を受けてはいる。しかし、「ハイエクの基本的考え方と、シカゴ学派のアメリカ経済学の間には、実は大きな開きがある」。ともに「市場競争を擁護」したが、「基本的な論理は、ある意味では、まったく違っている」。
(このあとのより詳しい説明は省略。p.185-188とけっこう長い。)
長い研究歴のある経済(・社会)思想の<専門家>と法学部出身の関岡とでは、前者の佐伯啓思を信頼しておいた方が無難だろう。<ハイエク→(アメリカ)→日本政府の政策>という二つの右矢印が適切かどうかも-少なくとも100%の影響力を示すとすれば-きわめて疑問なのだが、左端に「ハイエク」がくるかどうか自体も疑問なのだ。
〇ルソー(・フランス革命)・辻村みよ子について中途休憩?している間に、阪本昌成・新・近代立憲主義を読み直す(成文堂、2008)の中に、ルソーについてかなりの(批判的な)叙述があるのに気づいた。最初と最後(「はしがき」と「あとがき」)はいずれもルソー・人間不平等起源論の引用から始まっている。
いずれこの本にも言及したいが、この本は「新」版で(かなり書き直したようだが)、旧版はすでに読了しており、2年前にこの欄で少なくとも5回は言及していた(以下を参照)。あらためて似たようなことをルソーについて指摘するかもしれない。