一 だいぶ前に、阿川弘之が国を思うて何が悪い(光文社)という本を出していた。西尾幹二・憂国のリアリズム(ビジネス社、2013.07、未読了)という本のタイトルを見ても、「憂国」の思いは募る。

 安倍晋三が自民党総裁になったときも総選挙を経て内閣総理大臣となって安倍第二次内閣が誕生しても、むろん1年前の民主党・野田内閣の頃の精神状態よりもよいに決まってはいるが、手放しで喜べなかったし、まだまだこれからだ、という想いは依然として続いている。

 朝日新聞ら「左翼」メディアの執拗な攻撃にうまく対処できるだろうか、自民党自体が安倍のもとでうまくまとまってけるだろうか、等々、心配し出すとキリがないし、安閑として過ごせる日々が早々にやってくるはずもない。

 二 さて、中西輝政は昨年末の総選挙後に執筆・刊行の同・賢国への道-もう愚かではいられない(致知出版社、2013)の中で、具体的なイメージは明確ではないように感じたが、「ほとんど中道リベラル政党」である自民党とは別の「日本の歴史と伝統文化に沿った国家軸を持つ本格保守政党」が「もう一つ、…必要」だと書いていた。

 この部分の具体的趣旨はなおも気になるが、同じ著書の中で中西輝政はともかくも自民党の参院選勝利までは「保守」の人々は我慢すべきで(安倍内閣の「安全運転」を諒とし?)、「本当の安倍政治が始まるのは参院選のあと」だと書いていた。中西は続けていた-「参院選に勝てば、…『戦後レジームからの脱却』を改めて掲げて、前政権でやり残したことを次々と実現していくはずです。歴史問題にも真正面から取り組んでいくでしょう。…靖国参拝もするでしょう。それから憲法改正にも手をつけ始めるはずです」(p.200)。

 安倍内閣はいま、「戦後レジームからの脱却」を改めて掲げているだろうか。「歴史問題にも真正面から取り組んで」いるだろうか。8月15日にはしなかったが秋の例大祭に靖国参拝をするのだろうか。「憲法改正にも手をつけ始める」のだろうか。

 上の最後の点についていえば、改憲派として自民・維新・みんなの三党を合わせても、参議院議員の2/3にはまだ足りない。そして例えばこの三党による改憲案を調整したうえでさらに、それを公明党にも「飲んで」もらわなければならないが、そのようなことは簡単にできるのだろうか。あれこれと改憲派または改憲希望者の意見は多く出ているが、参議院によって(も)「発議」できる状態にならないと、96条改正から始めるにせよ直接に九条二項改正から始めるにせよ、現実には「憲法改正」に「手をつけ始める」ことは不可能なのではないか。中西輝政は具体的にはいかなることを想定していたのだろう。

 次の総選挙で再び自民党単独でまたは明確な改憲派と合わせて2/3以上の議員を当選させ、かつ次の2016年の参議院選挙で非改選と合わせて同様に2/3以上の議員を当選させないと、憲法改正は残念ながら現実化しないのではなかろうか(いわゆるダブル選挙も想定されてはいる)。むろん、改正内容についての種々の議論をすることはもちろん可能だし、すべきかもしれないが。

 三 中西輝政は歴史通11月号(ワック)の中でも、興味深いまたは重要な指摘をしているように読める。中西輝政「情報戦/勝利の方程式」p.36-37は以下のように主張している。

 「外国で形成されてしまっている『南京』、『慰安婦』イメージの壁を壊す」には、「そんなことはなかった」・「日本は正しかった」という「竹槍一本主義だはダメ」だ。「実証的な研究にもとづいて明白な証拠を提示する研究書を大量に出していくしかない」、「翻訳や出版を息長く続けてゆき、英訳本をせっせと欧米の図書館などに送っていく。…」。「現状は、焦って性急になっているうらみがある」。

 この主張からすると、この欄の前回に紹介した「『慰安婦の真実』国民運動」の見解・運動などはどのように評価されるのだろうか。中西は、今年初めの上掲著では安倍内閣が「歴史問題に真正面から取り組」むことを是とすることを前提とする文章を書いていた。慰安婦にかかる「河野談話」を批判し、その見直し・撤回を安倍晋三内閣に求めていくことは「焦って性急になっているうらみがある」のかどうか。中西には尋ねてみたい。「河野談話」見直し要求ですら<性急>だとすると、「村山談話」の見直し・破棄・新談話の発表などを求めることができるわけがない。そして、どうやら、いま正確には確認できていないが、安倍首相はかつての談話類を内閣として(当面は?)<継承>する旨を明言しているようでもある。そうだとすると、中西輝政の助言?によるのだろうか?。

 中西輝政は歴史認識問題よりも先に憲法改正を(<歴史認識問題を断念する勇気>)、と優先順位について語ったこともある。歴史認識にかかる諸論点についていわゆる「保守」派と一致しない国民も賛成しないと憲法改正ができないのは確かだろうが、憲法改正すれば歴史認識問題が「保守」派の認識の方向で解消するわけでもあるまい。そもそもこの二つはいかほどの連動関係にあるのだろうか。

 隔月刊・歴史通11月号の上記紹介部分のあと、中西輝政は次のようにまとめている。

 「私の見るところ、これまでの日本の保守陣営が、原理主義ではなく、戦略的現実主義に基づいてもっと賢明に対処していれば、ここまで事態は悪くならなかった」。「原理主義」によって「妥協するならお前は異端だ」という「神学論争的な色彩を帯びてしまったのが、日本の保守の悲劇」だ。「一歩でも前進することの大切さ」を知ることが「いま日本の保守陣営に求められている」。「玉と砕け散ることが一番美しい」という「古い破滅主義的美学に酔いしれることから早く脱」するべきだ。

 現実を変化させることに役立たない、<正しいことを言った、しかし多数派は形成できなかった>という主張や議論では日本共産党のそれと同様で、<正しいことを言う>だけではダメだという旨はこの欄でも書いたことがあるので、中西の指摘は一般論としてはまたは抽象的には理解できる。

 問題は、何らかの主張や運動が「(保守)原理主義」と「戦略的現実主義」のいずれにあるのかをどのようにして判断するか、だ。
 私の見るところ、月刊正論(産経)は、奇妙な執筆者が存在する点を除いても、概して「(保守)原理主義」のような主張・論考が多い。

 月刊正論編集部の川瀬弘至はこの「イザ!」欄の月刊正論のページで「真正保守」を自称しており、おそらくは女性宮家問題に関してだと推測するが、ある見解が「日本と日本人を間違った方向に導くと判断したときには、我々は異見を潰しにかかります」と明記したことがある(月刊正論2012年9月号p.327「編集者から」)。このような言葉遣いによれば、広くは「保守」の中で対立している論点であっても特定の「真正保守」の主張以外は「潰しにかか」るのであり、編集部員・川瀬は、まるで「左翼」内部での内ゲバにも似た、「保守」の中での<セクト(党派)争い>をする(そして断固として勝つ)という宣言をしているようにも読める。そして、このような心情は、容易に中西輝政のいう「(保守)原理主義」になってしまうだろう

 やや余計な部分を挟んだが、「(保守)原理主義」なのか、適切な「戦略的現実主義」なのか。「保守」派論者、「保守」派雑誌編集者、「保守」系新聞社の記者・論説委員等が留意しておく価値はある視座ではあると考えられる。