〇読売新聞4/17朝刊の「憲法考1」はさすがに?適切に現憲法9条の解釈問題を説明している。
まず、9条1項でいう「国際紛争を解決する手段として」の戦争は「政府・学説(多数説)は侵略戦争と解釈する。自衛戦争は放棄していないことになる」、と的確に説明している。この点をかなり多くの国民は誤解している可能性があり、産経新聞の社説ですらこの点を知らないかのごとき文章を書いていた。
「自衛権の行使」ではなく「自衛戦争」も現憲法上許されないのは9条2項による。この点にも読売は触れている。自民党の改憲草案も9条1項は残し、同2項を削除し、「国防軍」の設置を明記するために9条の2を新設(挿入)することとしている。
改正されるべきなのは現9条全体なのではなく、9条2項であることを、あらためて記しておく。
つぎに、読売の上記記事は、現9条2項の冒頭の「前項の目的を達成するため」(いわゆる芦田修正)につき、これを「根拠に自衛のための戦力保持を認めれば簡単だったが、政府はそうしなかった」、と説明している。これも適切な説明であり、学説(多数説)もそうではないか、と思われる。
いわゆる芦田修正の文言を利用すれば、9条1項で禁止される侵略戦争のための「戦力」等のみの保持が禁止されることとなり、自衛戦争目的に限定された軍隊の保持は許容される(禁止されていない)こととなるのだが、そのようには芦田修正(追加)文言は利用されなかった。
芦田修正文言を知って、将来の軍備保持の日本側の意欲を感じたGHQは「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という現66条2項を挿入させたと言われているが、自衛目的ですら「軍」の保持が禁止されれば「軍人」・「武官」は存在しないはずなのであるから、「文民」を語るこの66条2項は奇妙な条文として残ったままになった(どの憲法教科書も奇妙な、または苦しい説明をしているはずだ。「文民統制」うんぬんは後付けの議論)。
結果として、芦田修正(追加)文言は、政府や多数学説において実際には意味がないものとして扱われることになった。常識的な日本語文の読み方としては、じつはこちらの方が奇妙なのだが。
ともあれ、上の二点くらいは広く国民の常識となったうえで現憲法9条の改正問題は議論される必要があるだろう。
〇宮崎哲弥が週刊文春4/25号(文藝春秋)の連載コラムで朝日新聞4/11天声人語を使って橋下徹の憲法観を紹介し、賛同するかたちで「憲法とは、国家が国民を縛るためのものではなく、国民の名において『国家権力を縛る』ためにあるのだ。私はこの一〇年、あらゆるメディアで、口が酸っぱくなるほど繰り返しこの原理を説いてきた」と書いている(p.123)。
宮崎が批判している例を読んでいて、かつて社共(といっても分からない者が増えているかもしれない。日本社会党と日本共産党)両党に支えられた京都府知事・蜷川虎三が唱えて府庁舎にも垂れ幕が懸かっていたらしい「憲法をくらしの中に生かそう」も、間違った憲法観にもとづくものだったような気がしてきた。
それはともかく、宮崎哲弥(や橋下徹)の理解に反対する気はとりあえずないが、「私はこの一〇年、あらゆるメディアで、口が酸っぱくなるほど繰り返しこの原理を説いてきた」とはご苦労なことで、またそれほどに自慢・強調するほどのことなのか、という気もする。
また、朝日新聞・天声人語の<法律は国家が国民を縛るもの>という理解は誤りであることを過日この欄で書いた、この点に宮崎は触れていない。
さて、親愛なる宮崎哲弥にあえてタテつくつもりはないが、<憲法は国民が国家を縛るもの>という理解の仕方も、何とかの一つ覚えのように朝日新聞の記者等がしばしば述べてはいるが、多少は吟味の必要がある。
第一に、あえて反対するつもりはとりあえずはないが、上のような理解は「近代憲法」観とでもいうべき、欧米産の憲法理解を継承しているのであり、日本には日本の独自の「憲法」理解があっても差し支えはない、と考えている。欧米の憲法観が国家や時代を超えて普遍的なものだとは私は思わない。
第二に、<憲法は国民が国家を縛るもの>というだけの-最近にテレビ朝日系報道ステ-ションに出ている朝日新聞の者が(何とかの一つ覚えのように?)述べて憲法現96条の改正に反対する根拠にしていたようでもあるが-単純な理解では済まないような気がする。
これだけの言辞からは、(上の朝日新聞の解説委員?のように?)それほど大切なものだから簡単に変えてはいけないとか、現憲法99条により公務員には(大臣・国会議員を含む)憲法尊重擁護義務があるから大臣等は憲法改正を語ってはいけないととかの、誤りであることが明白な言説が出てこないともかぎらない。
当然にもっと書く必要があるが、長くなったので、次の機会に回す。