毎日新聞の2012年12月09日社説は、集団自衛権行使を可能とする自民党や日本維新の会の主張に反対している。
 だが、以下に橋下徹の反論ツイッターのやや長い全文を紹介するように、その趣旨・論理は不明瞭だ。
 憲法解釈として集団自衛権の行使不可能や行使の際の限界が疑いもなく出てくるのであれば、すでに、同社説のタイトルのいう「社説:集団的自衛権/憲法の歯止めが必要だ」は、満たされている。憲法上の限界がすでにあるのだ。
 だが、憲法の意味内容の解釈が一義的に明確ではないからこそ、複数の解釈が生じうるのであり、従来の政府解釈の変更に対して「憲法の歯止め」とか「憲法上の制約」とかを語っても、まったく無意味だ。その「憲法」の歯止め・制約の内容自体が明らかではないのだから。
 さらに突っ込んだ、適確とみられる鋭い指摘を、橋下徹はしている。
 憲法と法律の関係、憲法「解釈」というものの性格・位置づけについての基礎的な素養が必要なので、橋下徹の文章の意味は、 毎日新聞社の社説氏とともに、一般の読者には分かりづらいかもしれない(それでも全国紙の社説の書き手がこの程度のことは理解しておけよ、くらいのことはいえる)。
 以下、毎日新聞社説と橋下徹の反論ツイッターのそれぞれ全文のそのままの引用。なお、橋下徹の文章は10回余りに分けて書かれたものを連続化したものだ(10分以内で一気に書かれていることも、ある種、驚くべきところがある)。
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社説/集団的自衛権 憲法の歯止めが必要だ
毎日新聞 2012年12月09日
 「自民党が衆院選の政権公約で、集団的自衛権の行使を可能とし、これを盛り込んだ「国家安全保障基本法」を制定すると主張している。日本維新の会も同様の公約を掲げた。
 これに対し、共産、社民両党は反対を明確にし、公明党も慎重姿勢である。民主党公約には言及がない。
 政府は従来、憲法9条が許容する自衛権行使は日本を防衛する必要最小限度にとどめるべきもので、集団的自衛権行使はその範囲を超え、憲法上許されないとしてきた。自民党の主張は、改憲しなくても集団的自衛権を行使できるよう、憲法解釈を変更しようというものだ。
 日米同盟は日本の安全保障政策の基盤であり、東アジアの安保環境は厳しさを増している。今後、日米の共同対処が求められる場面も想定されよう。日米同盟の効果的な運営に集団的自衛権行使が必要だとする政治的要請が強くなっている。具体的には、共同行動している米艦防護、米国に向かうミサイルの迎撃が議論となることが多い。これらは集団的自衛権行使の限定されたケースにとどまっているとも言える。
 しかし、自民党の憲法解釈によると、集団的自衛権の行使について憲法上の制約はない。歯止めを設けるとすれば、法律(国家安全保障基本法)によるとの考えのようだ。
 これでは、憲法が他国の領土における武力行使も容認していることになってしまうのではないか。北大西洋条約機構(NATO)加盟の英国は集団的自衛権の行使としてアフガニスタン戦争に参加したが、憲法上は日本も参戦が可能となる。
 現憲法が他国の領土、領海での戦争参加を認めているとは到底考えられない。集団的自衛権行使を容認するよう憲法解釈を変更するとしても憲法による歯止めは必須である。
 集団的自衛権をめぐる議論の中には、現憲法の下でも、「日本の実体的権利が侵害されている」と認定される場合には、その行使が容認される余地が生まれるとの解釈もある。その場合は「日本の防衛との緊密性、一体性」が要件となる。たとえば、いわゆる「周辺事態」において共同行動している米艦防護はこれにあたろう。この議論では、「緊密性、一体性」なしには集団的自衛権は行使できない。これは憲法上の制約である。
 現在の政府の憲法解釈は長年の論議の積み重ねの結果であり、法体系の根幹である憲法の解釈変更には慎重な検討が必要だ。日米同盟の重要性や安保環境の変化といった「政治論」だけ で「憲法論」を乗り越えるという手法には違和感が残る。」
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 橋下徹 2012年12月10日 ツイッター
 「12月9日毎日新聞社説。集団的自衛権。憲法の歯止めが必要だ。この社説は酷過ぎる。もう少し法の専門家の話を聞いた方が良い。もうロジックがぐちゃぐちゃ。結局、集団的自衛権が嫌な
もんだから、結論先にありきなので、ロジックがぐちゃぐちゃ。何を言っているか分からない。
 集団的自衛権の権利は認めるが、行使を認めないと言うのは政府の憲法解釈。毎日の社説は、憲法解釈を変更するとしても憲法の歯止めが必須である。えーーーっ?それをやるなら憲法改正しかないですよ。憲法が一義的でないから、解釈の余地が生まれる。ゆえに解釈に憲法自体は歯止めにはならない。
 だから憲法解釈に歯止めをかけるのは、憲法改正か立法しかない。そもそもこのような重大な憲法解釈を行政・内閣法制局に許していることの方が問題。憲法を改正するか、法律で明確化するか。この解釈を今の憲法で歯止めをかけろって・・・・歯止めにならないあいまいなものだから解釈が生まれるのに。
 毎日のこの社説は、大手新聞社の社説では見られないほどのロジック破綻。憲法解釈に歯止めがかからなくなるのは危険だ。そこは毎日に賛同。そこでその実践論。まさに毎日も政策の実現プロセスの認識が全くない。今の憲法は歯止めにならない。ゆえに方法は2つ。憲法改正か法律の制定か。
 毎日は、憲法改正は嫌だし、国家安全保障基本法も嫌。それが絶対条件だから、ロジックがむちゃくちゃになった。憲法解釈に歯止めをかけるのは憲法改正か法律の制定しかない。毎日は憲法改正反対だから、そうなると法律の制定しかない。法律で解釈に制限をかければ良いだけだ。
 僕はもっと自衛権の範囲を広げるべきという立場。毎日はそれを危険視しているのであろう。だからこそ、法律で明確化すれば良い。内閣法制局が憲法の最終解釈者ではない。毎日はそこも分かっていない。立法府も憲法解釈はでき、少なくても内閣よりも建前上は上だ。憲法の最終解釈者は司法だ。
 毎日は中学の公民の教科書をもう一度勉強すべき。なぜ政府の内閣法制局の憲法解釈を絶対視するのか。毎日の社説の最後の文章は致命的。「政治論」だけで「憲法論」を乗り越えるという手法には違和感がある。もう世も末だ。まさに政策の実現プロセスを全く認識していない。
 この毎日の社説は、内閣法制局の「憲法論」を、国会の「憲法論」が超えてはならないというロジック。日本の憲法上は逆だ。国会の憲法論を、内閣の憲法論が超えてはならない。だから法律

制定こそが健常なのだ。毎日は何故内閣法制局の憲法解釈を絶対視する?国会が超えてはならないのは、司法の憲法論だ。
 憲法論と言っても、誰が解釈するかでその意義は全く異なる。日本において憲法の最終解釈者は裁判所。だから憲法解釈においては国会=政治は裁判所に従わなければならない。しかし、国会は内閣法制局の憲法解釈に従わなくても良い。内閣法制局と国会の見解が異なるなら、国会は法律を作れば良いだけだ。
 12月9日の毎日新聞の社説は、毎日の哲学が端的に表れている。政府・内閣至上主義。国会はぼんくら集団。まあそう思われるような国会にも責任があるが。しかし日本の統治機構上は、毎日の考えは絶対に間違いだ。政治論が憲法論を超えてはならない・・・・すごいフレーズ。
 毎日新聞は、国会議員の憲法論は、内閣法制局の憲法論を超えてはならないということ。政治論とは国会議員の議論との意味だろう。しかしそこでの議論の対象は、まさに憲法論。だから国会議員と内閣法制局の憲法論同士のぶつかり合いに過ぎない。そして毎日は内閣法制局至上主義。今の憲法に反しますよ!」
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 毎日新聞の社説執筆者は「中学の公民の教科書をもう一度勉強すべき」とまで、書かれているのだが、はたして上の橋下の文意をきちんと理解できるのかどうか。
 こうしたレベルの憲法(とくに9条)にかかわる論述が大手マスメディアによって堂々と平気で書かれているのだから、憲法にかかわる議論が一般有権者にわかりにくいものになっているのも当然だ。
 いつかすでに書いたように、現9条一項で禁止されているのは戦争一般ではなく「侵略戦争」のみである、ということすらわきまえていないような(産経新聞の)論述もあった。
 現9条の問題には、今後も何度か言及しておく必要がありそうだ。