〇いよいよ「御大」の西部邁も橋下徹批判の立場を明確にするようで、隔月刊・表現者(ジョルダン)の41号(2012.03)は、ほぼ橋下徹批判一色のようだ(未入手、未読。産経2/20の広告による)。これで<西部邁・佐伯啓思グループ>は一体として橋下徹批判陣営に与することを明らかにしたことになる。
 それにしても不思議で、奇妙なものだ。相も変わらずの言い方になるが、他の「保守」論者を「自称保守」とか呼び、産経新聞も批判したりしている少なくとも<自称>保守主義者たちがそろって、その勝利を深刻な打撃と受けとめている上野千鶴子とともに、民主党のブレインと目されかつ厳しく批判していた山口二郎とともに、そして日本共産党、民主党や両党系公務員労働組合とともに、橋下徹たち(大阪維新の会)を攻撃しているのだ。
 明瞭な「左翼」による橋下徹警戒論・橋下徹批判といったいどこが違うのだろう。違いがあるとすれば、分かりやすく説明してほしいものだ。やや戯れ言を言えば、「左・右両翼」から批判される橋下徹らは大したもので、<中道>のまっとうな路線を歩もうとしているのではないか??
 〇ふと思い出したのだが、竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社、2011)は、戦後の「進歩的知識人」について「知識人の支配欲望」という言葉を使っている(p.104)。
 竹内洋の叙述から離れて言うと、毎日新聞に連載コラム欄をもち、(あの!)佐高信と対談本を出しもしている西部邁は、言論によって現実(世俗)を変えることをほとんど意図しておらず、それよりも関心をもっているのは、あれこれの機会や媒体を使って発言し続けることで、自分の存在が少しでも認められ、自分が少しでも「有名」になることではなかろうか。
 失礼な言い方かもしれないし、誰でも「名誉」願望はあるだろう。だが、知識人あるいは言論人なるものは、現実(世俗)との緊張関係のもとで、現実(世俗)をいささかなりとも「よりよく」したいという意識に支えられつつ発言しつつけなければならないのではなかろうか。
 現時点における橋下徹批判はいったいいかなる機能を現実的には持つのだろうか。
 自称「保守」ならば常識的には、<西部邁・佐伯啓思グループ>は反日本共産党・反民主党だろう。だが、このグループの人たちは自民党支持を明確にしているわけではなく、佐伯啓思がつい最近も産経新聞に書いているように「小泉改革」・「構造改革」等には批判的だ。それでは「立ちあがれ日本」あたりに軸足があるかというとそうでもなさそうで、「立ち日」立党を応援していた石原慎太郎が支援している橋下徹を攻撃している。まさか「反小泉」で国民新党を支持しているわけでもあるまい。
 <西部邁・佐伯啓思グループ>の知識人??たちも、書斎や研究会を離れれば一国民であり、一有権者であるはずなのだが、彼らはいったいどの政党を支持しているのだろうか。支持政党はなく、「政治(政党)ニヒリズム」に陥って参政権は行使していないのだろうか。それはそれでスジが通っているかもしれないが、そのようなグループに一般国民に対して「政治」を論じる資格はないだろう。
 好きなおしゃべりをし、活字に残し、「思想家」らしく振る舞っていたければそれでよいとも言えるのだが、佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書、2011)の最後の章は、民主党政権樹立を煽った「知識人」たちの責任をかなり厳しく批判している。
 佐伯啓思ら自身にも「知識人」としての対社会的<責任>があるはずだ。橋下徹という40歳すぎの、まだ未完成の、発展途上の政治家をせめて<暖かく見守る>くらいの度量を示せないのだろうか。
 将来のいずれかの時点で、2012年初頭に橋下徹を攻撃していたことの「自称保守」
知識人・評論家としての<責任>が問題にされるにちがいない。
 〇佐伯啓思の最近の二つの文章については、さらに回を改める。