一 渡部昇一は<保守>の大物?らしいのだが、①1951年講和条約中の一文言は「裁判」ではなく「(諸)判決」だということにかなり無意味に(=決定的意味を持たないのに)拘泥していること、②日本国憲法<無効論>に引きずられて自らもその旨を述べていることで、私自身はさほどに信頼してこなかった。産経新聞・ワック系の雑誌等に渡部昇一はなぜこんなに頻繁に登場するのだろうと不思議にも感じてきた。
 二 ジャパニズム02号(青林堂、2011.06)の座談会の中で、西尾幹二が渡部昇一の『昭和史』(ワック)を批判している。
 西尾は、戦前の日本についての「内向き」の、「失敗」・「愚か」話ばかりの歴史叙述を批判し、渡部昇一も「昭和史」と称して「統帥権の失敗と暴走」という「たった一本でずっと」(それを「中心のテーマ」として)書いている、とする。そして、渡部昇一は「日本はリーダーなき暴走をした」、「日本には主体性がなかった」と、丸山真男ばりのまとめ方をしている旨を指摘し、「渡部さんの方は最後には、日本の迷走を食いとめたのは、広島、長崎の原爆であったとかいてある」とも発言している(そのあとに「(笑)」とある)(p.105-6)。
 渡部昇一の『昭和史』を読む気になれず、かつ読んでいないので西尾幹二(ら)の批判の適切さを確認することはできないが、さもありなんという気はする。渡部昇一は、<保守>の大立者として信頼し尊敬するに値するような人物なのだろうか。
 なお、古田博司が、丸山真男や加藤周一らの「日本の文化ダメ、日本人バカ」論が続いてきたと述べたのち、その流れにある者として西尾幹二は、半藤一利、保阪正康、加藤陽子、秦郁彦、福田和也の名を挙げている。
 これまたこれら5人すべての著書類を読んでいないので適切な反応をしにくいが、渡部昇一の場合以上に、あたっているだろうと思われる(とくに、半藤と保阪については)。ついでながら、先日、NHKは加藤陽子を登場させて語らせて、<さかのぼる日本史>とかの一回分の番組ままるまるを作って放送していた。特定の日本史学者の考え方にそって日本の(昭和戦前の)歴史を語るということの(よく言えば?)大胆不敵さあるいは公平さ・客観性の欠如(偏向性)をほとんど意識していないようなのだから、怖ろしい放送局もあるものだ。今年もまた、8/15に向けて、戦争は悲惨だ、日本は悪い事をした、という「ドキュメンタリー」?類を垂れ流すのだろう。
 三 中川八洋・小林よしのり「新天皇論」の禍毒―悪魔の女系論はどうつくられたか―(オークラ出版、2011.07)はタイトルのとおり、小林よしのり(+高森明勅)と、他に「民族派・男系論者」を批判する本のようだ。
 中川は戦前の平泉澄・戦後の小堀桂一郎も罵倒しているが、ヘレン・ミヤーズとその著を『国民の歴史』の中で「礼賛」しているとして、ミヤーズの肯定的評価について、小堀ととともに西尾幹二をも批判している(p.287、p.310)。
 中川のこの本については別の機会に言及するし、ミヤーズについて適切に評価する資格はない。
 ただ第三者的に面白いと思うのは(失礼ながら)、これで渡部昇一が中川八洋を批判していれば、渡部昇一←西尾幹二←中川八洋←渡部昇一←……という循環的相互批判が成り立つなぁ、ということだ。やれやれ…、という気もするが。