遠藤浩一・消費される権力者-小沢一郎から小泉純一郞へ(中央公論新社、2001)は、「かくいう筆者自身も…『無党派』の一人である」(p.149、p.150)と述べつつ、刊行の2001年頃の時点での、菅直人(現首相)の発言・考え方を紹介している。
原則的に、紹介にとどめる。以下は原則として、菅直人の言葉。
①(当時の)野党により国会が空転すると金融システム自体の崩壊の危険があるがよいのか?→「それでもかまわない。日本は焼け野原になって、再び”八月十五日”からやり直せばいい」(p.155-6)。
②あなたは織田信長のような独裁者になるのでは?→「民主主義というのは、交代可能な独裁なんです。選挙で政治家や政党を選んだ以上、任期いっぱい、その政治家や政党の判断に任せるべきだ」(p.156)。
③「…官僚中心の政治、行政を変えたい。…自民党政治も含めて、官僚中心のシステムはもはや機能しなくなった。だからそれを憲法に書いてある国民主権国家の内閣に変えていこうということ」だ(p.170)。
④日米関係という「基軸は基本的に維持していく。と同時に、日本がアジアの一員であることを重視していかなければならない。五十年かかってもクリアしていない問題があるので、それをクリアして日中関係、日韓関係を構築していく」(p.171)。
⑤中国から「政治的にある種の圧迫感を受けるということはあるだろうけど、日米、日中、米中のトライアングル関係がきちんと構築されれば、軍事的脅威は心配ないと思う。確かに尖閣列島の問題もあるけれども、リアルに見れば純軍事的な脅威はそれほどでもない」(p.171)。
⑥戦後という時代を「丸呑み」は、「うーん、できない」。「どこまでの深い覚悟があって非武装中立なんて言ったのか、大いに疑問」。「戦後の日本人は覚悟を忘れてしまった」(p.172)。
⑦覚悟なき日本人を法的に支えたのは日本国憲法では?→「日本人は、この百三十年というもの、一度だって自分の力で憲法を変えていない。…きわめて政治的に未熟だよね。…日本人は、憲法を変えることについて自分を信用できないという思いがある。だから、多少解釈を変えてお茶を濁している」(p.173)。
⑧日本人を信じるか?→「基本的には信じる」が「リスクがあるだろうな。…日本というのは結局水戸黄門型の国ですよ。お上とか偉い人とか、何かに依存している。その裏返しとして反対のための反対をする。だから自立した市民が共生する社会を作りたいと私は考えている」(p.173)。
⑨なぜ「市民」なのか?→「市民」とは「職業的価値から独立した普遍的価値を重要視するタイプの人間」だ。医者・農民・労組といった「所属的価値を超えた人々」という意味。「国民というのは人間の思考タイプを示す言葉ではありませんね」。「市民」と「国民」は「全然、対立はナシ」(p.173-4)。
⑩「自立した市民」とは「公への責任感の回復」だとすると「国民」という語を使うべきでは?→「日本人ほど日本に対する所属意識が強い人間はいない…。日本人は日本人の中に閉じこもっています。だから愛国心がないというのも大嘘…。日本人は意識の深い部分で、しっかり国家に帰属している…。むしろ足らないのは市民意識」だ(p.174)。
⑪では日本人を信じている?→「逆だよ。そういう無意識的な所属意識しかないというのは問題だと思っている。国家というものがアプリオリにあって、そこに国民がいて、それで国家を大事にするという発想が、僕の中ではちょっと違和感があるんだ」(p.174)。
⑫「天皇制」は「歴史的なものとしてまさに尊重すべき」で、「僕のイメージの中の国家とはまったく別だ」。「国家というのはアプリオリにあるものではなく、自立した市民によって作られるべきものなんだ。そのとき国家に対する潜在的な帰属意識は、むしろそれを妨げる働きをする」(p.175)。
⑬「国家という形での価値」には「抵抗」がある。「必ずしも戦後革新的な抵抗感」ではなく「何か薄っぺらな感じ」。「もちろん国家という枠組みは厳然としてある」。それは非常に重要だが、「主体者」は「結局人間なんだ」。「主体である人間が当事者意識をもって存在していなければ、極端に言えば、何のために国を守るのかという話に」なる(p.175)。
とりあえず、以上。
菅直人自身による著書中での記述または発言ではないことに留意しておくべきだが、簡単には、菅直人の<反「国家(・国民)」心情>、戦後憲法教育の影響大と思われる<個人主義(「自立した市民」の強調)>という立脚点は明らかだ、と感じられる。また、<親中・親韓感情>も示されており、一種の<大衆=「日本人」蔑視(自分は「自立した個人」だとの距離感)>も感じられる。この程度にしておく。
すでに遠藤浩一もコメントしているのだが、とくに、<自立した市民が共生する社会>というキー概念については、十分に検討し議論する余地があるだろう。「国家」は「自立した市民によって作られるべき」とのテーゼについても同様で、すでに日本「国家」はある以上、これは<革命>が必要とする<思想(・イデオロギー)>だと思われる。