歴史は「私たちの社会や国家についての物語的な問題解決や課題達成の願望を引きうけ、それを一つの『筋』のなかに表現する物語となって示される」と書き、歴史の「物語」性を書物の冒頭で宣明したのは、坂本多加雄だった。
 そして坂本は、「マルクス主義の歴史観」を批判し、マルクス主義、とりわけ日本の講座派のそれは世界最初に「社会主義革命」を実現したソ連の「世界革命本部であるコミンテルン」の見解に依っていたのでかつては「知的権威」を持ったが、「資本主義社会から社会主義社会へという歴史発展の展望は……もはや現実性を持たないものとなった」と述べつつ、「過去についてのある特定の物語を絶対化して、それをもとに、特定の未来像に拘束されるといった隘路に陥る」べきではない、等とする。

 以上、坂本多加雄・日本の近代2-明治国家の建設(1999、中央公論社)の「プロローグ」p.9-15。

 同旨のことは西尾幹二・国民の歴史(1999、産経新聞社)でも語られていたと思うが、再確認はしない。

 このような主張にもかかわらず、日本の歴史学界(=アカデミズムの世界)、とりわけ近現代史のそれは、なお圧倒的にマルクス主義、親講座派(日本共産党系)の学者たちに支配されているように見える。なおもマルクス主義史観を<「社会科学」としての歴史(学)>と妄信している気の毒な人たちが多そうだ。

 その点はともかく、「憲法の<物語>性」を語る憲法学者もいるようで、興味深い。

 佐藤幸治(1937~、前京都大学教授)は上に挙げた二著よりも早い1990年(初出)に、次のように書く。

 われわれが要求されているのは、「憲法と日常の具体的生活との深いかかわり合いを自覚せしめる”物語”(Narrative)を構築し、”善き社会”の形成に向けて努力するための筋道を提供する基盤とすることではないか」、「と痛切に思う」。「戦後改革」としての新憲法は「ある種の役割を果たし終えた」かもしれない、「しかし、日本国憲法は、新たな”物語”性の上に再生しなければならない」(下記p.63)。

 以上は、佐藤幸治・憲法とその”物語”性(2003、有斐閣)による。
 「新たな”物語”性」の具体的意味・内容は明瞭ではない。だが、教条的な<左翼>憲法学者の議論とは異なるようなので、機会を見つけて、再び上の佐藤著に言及しよう。