隔月刊・表現者29号(ジョルダン、2010.03)の座談会「市場論/資本主義による国民精神の砂漠化」(p.183-226)は佐伯啓思のこれまで言及または紹介したような議論をも含み面白いのだが(但し、いつか書いたように、座談会記事は一人のまとまった論考よりも意味・趣旨が分かりにくい)、次の、西田昌司(自民党国会議員)による現状認識・将来予測には首を傾げるところがある。
 西田昌司は言う(p.220)。
 <「自民党を支えていた」のは、「戦後体制をとりあえず守っていけばよいという空気」だったのだろう。ところが、「いまや戦後の体制に対していき詰まり感があるから、そこをなんとかして欲しいというのが国民の声で、それが反自民になって出てきている」。しかし「民主の政策というのはまさに戦後の体制そのものであって、だから当然にこれはまた国民から総スカンをくらうことになるでしょう」。>
 「戦後体制」の理解も確認しておく必要はあるが、大まかには1947年日本国憲法と日米安保を基本とする体制という意味で、座談会発言者との間で大きな違いはなさそうだ。
 西田はその「戦後体制」を疑問視して<脱却>を意図又は主張したいのだろう。そのことはそれでよいとしても、だが、国民が「戦後(の)体制」に「いき詰まり感」を持って「なんとかして欲しい」(=<脱却>してほしい?)と願っているというのは、いささか国民に対する<買いかぶり>だろう。そのような意思・気分が横溢していたとするならば、国民は2009総選挙で民主党に300議席以上を与えなかった、と思われる。
 マスメディアの影響を強く受けている多数派の一般国民が、西田昌司と同様の「戦後体制」観をもっているとは、とても思えない。したがって、民主党が「国民から総スカン」を食らうことがかりにあったとしても、それは「民主の政策というのはまさに戦後の体制そのもの」だということを感じ取るためではないだろう、と思われる。
 また、同様に、国民のかつての(?、現在も?)「反自民」感情は、自民党の「戦後体制をとりあえず守っておけばよい」という姿勢のゆえである、というようにも思えない。そんな基本的な次元で投票する政党が選択されているとはとても思えない。
 それにしても、自民党の一国会議員がおっしゃるには、自民党は「戦後体制をとりあえず守っていけばよいという空気」に支えられていたらしい。かりにそのような憲法感覚(<リベラル>または<社会民主主義>的見解と称してよい)の議員等が多数派を占めているとすれば、自民党は民主党よりは<多少はマシ>だったとしても、将来を長期にわたって託すべき政党でもやはりなさそうだ。似たようなことの繰り返しになるが、日本の未来はますます惛い。