隔週刊サピオ5/12号(小学館)が(読んだのに)見当たらず困っているのだが、別の機会に追記することとして、最近の小林よしのりは、月刊WiLL(ワック)にも連載を開始した頃から、どこか具合が悪いのではないだろうか。
 1.月刊WiLL5月号につづいて同6月号も、かなり感情的で、論理の飛躍(または論旨不明)の部分が目立つ。
 例えば、竹田恒泰が今上天皇のご真意は「外に漏れるはずがない」旨書いた(月刊正論5月号(産経)p.208-にたしかにその旨がある)ことについて、小林は「憲法を絶対視して、天皇の口封じをしている」(月刊WiLL6月号p.193)とするが、「外に漏れるはずがない」との見解表明→天皇陛下の「口封じ」、になるのだろうか?
 つづいて小林は、竹田は「皇室典範も国民のみで決めるべき」で「天皇は一切口出しまかりならぬ」と言っているも「同然!」とも書く(同上)。月刊正論5月号の竹田論考をそのように読むのは無理で、「同然!」などと断定はできないだろう。
 小林が竹田らは「『宮さま詐欺』に引っ掛かった阿呆と同じ」と罵倒するのも、上品かつ適切な叙述とは感じられない。
 2.そもそも論として内容にも立ち入れば、この号で小林は「承詔必謹」(「天皇の命令を承ったなら、必ず実行しなくてはいけないという意味」、同p.187)を絶対視し、例外を認める竹田ら(たしかに竹田恒泰はその旨を書いている)を批判している。
 皇位継承問題についての今上陛下のご真意が<女系容認>だと忖度した上で小林は上のような立場をとる。その「忖度」が的確か否かはさておき、一般論としていうと、「承詔必謹」の絶対視はやはり無理なのではなかろうか。
 小林よしのりの最近の議論の特徴は、昭和天皇または今上陛下に関する議論・叙述を「天皇」一般に関する議論・叙述として(も)使っている、ということにある、と感じている。
 一種の<スリカエ>あるいは過度の(誤った)一般化があるように思われる。
 歴史的にみて、「承詔必謹」の態度こそが正しかった、あるいは適切だった、ということにはならないだろう。
 論旨飛躍かもしれないが、先日のNHKの<伊藤博文と安重根>に関する番組(プロジェクトJAPAN)を見ていて、この番組は言及しなかったが、安重根は伊藤博文に対する告発状または斬奸状にあたる文書の第一に伊藤の<孝明天皇を殺害した罪>を挙げていたことを思い出した。
 むろんこのような実証的根拠はない。だが、安重根が知っている程度に<噂>として20世紀に入っても残っていたことは確かなようで、また、孝明天皇の死は長州藩側(当時の尊皇倒幕派)に有利に働いたのは事実だろう。また、司馬遼太郎の小説類の影響をかなり受けての叙述にはなるのかもしれないが、幕末の闘いは天皇=「玉(ぎょく)」をどちらの勢力が取り込むかのそれだった、と言っても大きな誤りではないと思われる。
 何が言いたいかというと、歴史的事実としては、「承詔必謹」どころか、天皇・皇室は世俗的な政治権力に、または世俗的政治闘争に利用され、翻弄されてきた、という面がある、ということを否定できない、ということだ。「承詔必謹」が絶対かそれとも例外があるかという問題設定自体が成立しない時期・時代もあった、と思われる。
 そのような時期・時代こそがおかしかった、天皇の意を奉じての「承詔必謹」体制でこそ日本は歩むべきだった、という議論は成立しうるだろう。

 だが、王政復古の大号令、五箇条のご誓文発布のとき、孝明天皇の子である明治天皇(1852-1912)は、まだ16歳だった。そもそも、「承詔必謹」に値する意志・判断の表明を、明治天皇お一人の力で行なうことができたのだろうか。三条実美・岩倉具視を含む当時の公家等の明治新政府勢力が、「天皇」の名義を<利用>した(これもまた日本の歴史の興味深いところでもある)という面を、少なくとも全く否定することはできないと考えられる。

 中西輝政・日本人として知っておきたい近代史・明治篇(PHP新書、2010.04)p.233によると、「明治天皇も〔日ロ戦争〕開戦に反対であったことは、諸々の史料からも推測でき」る、らしい。
 この点はすでに施行されていた大日本帝国憲法のもとでの天皇の地位・権力につき、法文そのままに「統治権の総覧者」としての絶対君主扱いをする戦後「左翼」に対する批判にもなるが、日ロ戦争開戦時は、天皇の真意を推測(忖度)すらしての「承詔必謹」体制ではなかった、ということの一証左にはなるだろう。
 むろん、明治天皇の意志に則って日ロ開戦はすべきではなかった、とも言える論理的可能性はあるのだが、小林よしのりは、(かりに中西輝政の上の叙述に問題がないとしてのことだが)そのようにも主張するのだろうか。
 元に戻るが、いつか書いたように、崇峻天皇、安徳天皇は<殺害>されている。12世紀の安徳天皇は満10歳にもならない年齢のときに亡くなった。源氏・平家の世俗的・現実政治的対立に巻き込まれた、と言ってもよい。どこに安徳天皇について「承詔必謹」を語る余地があったのか?
 思いつくままの特殊な例だと小林よしのりは反論するかもしれないが、他の多くの天皇についても、時代ごとの世俗的・政治的権力者の強い影響を受けつつ、皇位が長く継承されてきた、と言えると思われる(そのことが日本の不思議さでもある)。
 余計ながら、13世紀の「承久の変」後、北条執権体制側によって後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へ<島流し>されている。「承詔必謹」のもとで、こんなことが起きるはずはない。
 3.同じ月刊WiLL誌上で、水島総は、小林よしのりについてこう書く。
 「よしりん君、チャンネル桜をいくらでも批判、非難をしても良いが、NHKや中国共産党と同じ『捏造』だけはしていけない」(5月号p.137)。
 「本誌でチャンネル桜非難を続けている漫画家小林よしのりという存在も、『保守』の側の『田原総一朗』そのまま」だ(6月号p.137)。
 小林よしのりの欄のある同じ雑誌の中にこんな言葉もあるのだから、異様な雑誌(・編集方針)とも言えるが、いずれにせよ、まともな状態ではない。
 4.水島総とともに新田均の側につねに立つつもりもないのだが、月刊正論6月号は新田均「小林よしのり『天皇論』を再読する」を載せている(p.156-)。これは、小林よしのりの議論の論理矛盾・一貫性の欠如等々をかなり詳しく指摘している。
 新田均の指摘部分をいちいち確かめる意欲も時間もないが、新田の指摘はかなり当たっているのではないか(論理矛盾等は私も一カ月ほど前に指摘したことがある)。
 もう一度書いておく。小林よしのりは、月刊WiLL(ワック)にも連載を開始した頃から、どこか具合が悪いのではないだろうか。憂慮している。