屋山太郎の文章について、好意的・肯定的に言及したこともあった。
 2007.06.26付「社保庁職員の自爆戦術-屋山太郎の二つの文」。
 だが、昨年の総選挙前あたりから、屋山の主張・見解を疑問視し、選挙後の論評を読んで、この人は決して<保守>派ではない、と感じている。以下の3つを書いた。
 ①2009.08.06「屋山太郎と勝谷誠彦は信用できるか。櫻井よしこも奇妙」。
 ②2009.09.21「屋山太郎が民主党を応援し『官僚内閣制』の『終焉』を歓迎する」。
 ③2009.10.31「屋山太郎は大局を観ていない。これが『保守』評論家か」。
 この③では屋山の1.産経新聞8/27付「正論」、2.月刊WiLL10月号(ワック)p.24-25、3. 産経新聞9/17付「正論」、4.月刊WiLL12月号(ワック)p.22-23の4つに言及し、「価値序列、重要性の度合いの判断に誤りがある」、「かりに<議会制民主主義>に論点を絞るとしてすら、屋山太郎は大局を観ていない」等々とコメント(批判)した。
 何と言っても、屋山太郎は昨年の総選挙の結果につき、「大衆は賢明だったというべきだ」(上記月刊WiLL12月号)と明記した人物だということを銘記しておく必要がある。自分自身は「大衆」に含まれているのか、それとも「大衆」とは次元の異なる世界に住む<エリート>だと自己意識しているのかは知らないが。
 その後、屋山太郎は民主党政権(鳩山由紀夫・小澤を含む)につき批判的なことも書いている。
 だが、そのような民主党(中心)政権の誕生を応援しかつ歓迎したことについての自己反省・自己批判の言葉は、その後いちども目にしたことがない(屋山太郎の文章のすべてを読んでいるわけではないので見落としのある可能性はある。だが、おそらくそのような言葉を公にはしていないのではないか)。
 屋山太郎が誠実でまともな感覚の持ち主だったら、<見通しが甘かった>、<こんな筈ではなかった(のに)>くらいのことは書いたらどうか。
 逆に、1月末発売だから昨年末か今年初めに執筆されたと思われる月刊WiLL3月号(ワック)p.22-23では、屋山はまだ性懲りもなく、こんなことを書いていた。
 ①昨夏の「総選挙」は「官僚内閣制」から「議会制民主主義」に「体制」を変えた選挙で、「今、議会制民主主義にふさわしい体制変革が進行」しており、「次の総選挙」こそが「政権交代」選挙になる。
 ②「日本の(議会制)民主主義」はおかしい、「実はニセモノ」だと感じてきた。「民主党政権四年の間には『議会制民主主義』が定着するだろう」。
 -そして、以下の諸点を肯定的に評価している。
 ③A「官僚の政治家への接触を禁止」、B「官僚の国会答弁を禁止」、C「省の方針」の「政務三役」による決定、D「事務次官会議を廃止」。E「陳情を幹事長室に一元化するのも、政治家と業界の癒着防止のためだろう」。
 最後に、こんな文章もある。
 ④「体制変革」の方向〔「官僚内閣制」から「議会制民主主義」へ〕は「間違えていない」。「この『変革』は、民主主義体制確立のためには不可欠」だ。
 唖然、呆然とせざるをえない。これが少なくともかつては<保守>評論家と位置づけられた者の書くことか?
 逐一詳細なコメントはしないが、上の③のAは一概には評価できないもの、Bはむしろ国会による行政(行政官僚)監視・統制のためには必要な場合もあるもの、Dも一概には評価できず、
「事務次官会議」による閣議案件の実質的決定はたしかに問題だが、それによる各省間の<調整>のために必要または有益な場合もありうるもの、と思われる。
 ③のEに至っては笑止千万。それほどまでに民主党(・小沢一郎)を応援したいのか。昨年末にはすでに、「社会主義」国における共産党第一書記(または書記長)による政治(・立法)・行政の一元的「支配」または「独裁」体制に似ている、という鳩山政権の実態に対する批判は出ていたはずなのだが。
 私も2009.11.29に、「そこまで大げさな話にしなくてもよいが」と遠慮がちに(?)付記しつつ、次のように書いた。
 「国会(議会)・行政権の一体化と、それらを背後で実質的に制御する政党(共産党)、というのが、今もかつても、<社会主義>国の実態だった」。
 (「『行政刷新会議』なるものによる『事業仕分け』なるものの不思議さと危うさ」) 
 すでに書いたことだが、「政治(家)主導=官僚排除」と<議会制民主主義>の確立・充実は同義ではない。また、屋山太郎があまりにも単純に「議会制民主主義」や「民主主義」を素晴らしい、美しいものとして想定しているようであることにも驚く。
 どうやらこの人も占領下の「民主主義」教育に洗脳された人々のうちの一人らしい。
 このように「(議会制)民主主義」の徹底・確立を説くのは、こちらは<とりあえず>だけにせよ、日本共産党の主張と全く同じではないか。屋山太郎は、重要な点でいつから日本共産党と同様の主張をするようになったのか。
 屋山太郎の近視眼さ、視野の狭さもすでに指摘したことがある(上記の書き込み参照)。
 佐伯啓思は隔月刊・表現者28号(2010年1月号、ジョルダン)で、端的にこう書いている(p.55)。
 <民主党のほか、自民党・マスコミを含む「今日の日本の政治的関心」にとっての「もっとも重要な課題」は「民主主義の実現」とされている。「政治主導」とは官僚から国民に政治を取り戻す「民主政治の実現」であり、「民主政治の進展こそが、民主党政権の存在意味」なのだった。
 「しかし、状況はもっと危機的であることを認識すべきである。この十数年の間に日本がおかれた状況は、脱官僚政治、というような議論で片付くようなものではない」。> 
 また、佐伯啓思は民主党について次のように書くが(p.56-57)、私は屋山太郎にも同じ言葉を向けたいと思う。
 <民主党の「あまりに浅薄で聞こえの良い政治理解・民主主義理解に虫酸が走る」。>
 それにしても、ウェブ情報によると、櫻井よしこを理事長とする国家基本問題研究所は理事長・副理事長に次ぐ(と思われる)「理事」13名の中の一人として、なおも「屋山太郎」を選任(?)し続けている。
 屋山太郎が「理事」をしているような団体は、少なくともまともな「保守」派の団体ではなさそうに見える。櫻井よしこ・田久保忠衛や評議員等を含めて、少なくとも大きな疑問を感じる人物はいないのに(各人の主張内容を詳しく知っているわけではない)、屋山太郎だけは今や別だ。
 何が「保守」かはここでは議論しない(上記の隔月刊・表現者28号(2010年1月号、ジョルダン)には、具体的論点については本当に「保守」派なのかと疑われる中島岳志が「私の保守思想1-人間の不完全性」というのを書いているが(p.132以下)、そこでの「保守」の意味内容はなおも基本的、常識的すぎる)。
 明らかなのは、屋山太郎は「保守」派あるいは「保守(主義)」思想に依拠している人物ではない、ということだ。他にもいそうだが、「保守」派(的)と一般的にはいわれている雑誌や新聞に文章を書くことを「生業(なりわい)」にして糊口を凌いできている「売文業者」にすぎないのではないか。