阪本昌成・新・近代立憲主義を読み直す(成文堂、2008)において、フランス革命はどう語られるか。旧版に即してすでに言及した可能性があり、また多くの箇所でフランス革命には論及があるが、第Ⅱ部第6章「立憲主義のモデル」を抜粋的・要約的に紹介する。
 マルクス主義憲法学を明確に批判し、ハイエキアンであることを公然と語る、きわめて珍しい憲法学者だ。
 現役の憲法学者の中にこんな人物がいることは奇跡的にすら感じる(広島大学→九州大学→立教大学)。影響を受けた者もいるだろうから、憲法学者全体がマルクス主義者に、少なくとも「左翼」に支配されているわけではないことに、微小ながらも望みをつなぎたい。
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 第Ⅱ部第6章〔1〕「フランス革命の典型性?」(p.182~)
 A 近代憲法史にとっての「フランスの典型性」を樋口陽一らは語り、それを論証するように、<権利保障・権力分立がなければ憲法ではない>旨のフランス人権宣言16条が言及される。
 このフレーズは誤った思考に導きうる。16条の「権利」の中には「安全」への権利も含まれているが、これが立憲主義の要素として語られることは今日では稀。また、「自由と権利における平等」と「平等な生存」の並列はいかにも羅列的だし、「所有権」まで自然権と割り切っていることも奇妙だ。
 「自由、平等、財産権」の差異に無頓着ならば、フランス人権宣言はアメリカ独立宣言と同じく立憲主義の一要素に見事に言及している。しかし、アメリカとフランスでは「自由・平等」のニュアンスは異なる。「自由」の捉え方が決定的に異なる。
 B 革命期のフランスにおいて人民主権・国家権力の民主化を語れば「一般意思」の下に行政・司法を置くので、モンテスキューの権力分立論とは大いにずれる。<一般意思を表明する議会>とは権力分立の亜種ですらなく、「ルソー主義」。
 アメリカ建国期の権力分立論は「人間と『人民』に対する不信感、権力への懐疑心、民主政治への危険性等々、いわゆる『保守』と位置づけられる人びとの構想」だった〔青字部分は原文では太字強調〕。
 立憲主義に必要なのは、国家権力の分散・制限理論ではなく、国家にとっての憲法の不可欠性=「国家の内的構成要素」としての憲法、との考え方だろう。これが「法の支配」だ。立憲主義とは「法の支配」の別称だ。
 <立憲民主主義>樹立が近代国家の目標との言明は避けるべき。「民主的な権力」であれ「専制的なそれ」であれ、その発現形式に歯止めをかけるのが「立憲主義」なのだ。
 近代萌芽期では「立憲主義」と「民主主義」は矛盾しないように見えた。だが、今日では、「民主主義という統治の体制」を統制する「思想体系」が必要だ。(つづく)