〇佐伯啓思・大転換-脱成長社会へ(NTT出版、2009.03)の第一章「出口のない危機」、第二章「ミクロとマクロの合理性」を読了したことは、その直近の日にこの欄で記した。
 その後、第三章「経済が『モデル』を失うとき」、第四章「グローバリズムとは何か」、第五章「ニヒリズムに陥るアメリカ」を読了し、ここまでが基礎的叙述かとも思った。さらに、第六章「構造改革とは何だったのか」という最も関心を惹くタイトルの章も読了し、現在は第七章「誤解されたケインズ主義」の途中(p.225あたり)。
 佐伯啓思の近年の本の中では経済学に最も傾斜しているかもしれないが、この程度なら私でも理解できるし、興味を持って読み進められる。
 佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)や同・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)もそうだったが、今日の日本を考える上で重要かつ刺激的な見方・主張が多分に含まれていると思われるのに、なぜか、佐伯啓思の本は新聞も含めた書評欄等で話題になることが少ない。佐伯啓思の著の内容をめぐって活発な議論がなされている様子でもない。論壇が崩壊しているのか、それとも、何らかの<言論統制>が敷かれているのか。
 朝日新聞にとって都合のよい、親朝日新聞的論調の本であれば、杜撰な内容・論の本でも朝日新聞は大きくとり上げるような気がする(そして、何かの「賞」すら与えるかもしれない)。だが、佐伯啓思の近年の上掲のものを含むいくつかの本を、朝日新聞は完全に無視しているのだろう。新聞や週刊誌の書評欄などいいかげんなものだ(基本的には産経新聞や同社発行雑誌も同様かもしれない)。
 〇名越健郎・クレムリン機密文書は語る-闇の日ソ関係史(中公新書、1994)の第二章「日本共産党のソ連資金疑惑」のみを今年に入ってから読了(いつ頃だったか失念)。
 同書によると、コミンテルン後継機関として1947年に設立されたコミンフォルム(1956解散)の方針により、「各国の共産主義運動支援の名目」で「ルーマニア労組評議会付属左翼労働組織支援国際労組基金」という「秘密基金」がルーマニア・ブカレストに創設された。
 この基金とは別枠でソ連から直接に日本共産党に対して1951年に10万ドルが供与された(p.83-84)。上の基金からは日本共産党に1955年に25万ドル、1958年に5万ドル、1959年に5万ドル、1961年に10万ドル、1962年に15万ドル、1963年に15万ドル、が「援助」された(p.84、p.91)。これら以外に、日本共産党を除名された志賀義雄グループに1963年に5000ドル(対神山茂夫を含む)、1973年に5万ドル、が「援助」された(p.84、p.92)
 内訳は明確ではないが、この基金からの各国共産党(共産主義者)への「援助」はなんとゴルバチョフ時代の1990年まで続いた、という(p.84)。
 日本共産党の<所感派>(徳田球一・野坂参三ら)と<国際派>(宮本顕治ら)への分裂自体がコミンフォルムの1950年の日本共産党の当時の方針批判を原因としていた。日本共産党が、コミンフォルム=ほとんどソ連共産党、その解散後も上記基金運営の主導権を握っていたソ連共産党に財政的にも相当程度に依存していたことは明らかだ。
 志賀グループに対する以外の1951~1963年の日本共産党に対する「援助額」は累計85万ドルになり、これは30年後(1990年代前半)の貨幣価値では「10億円以上」になる、という(p.91)。
 1962年の「援助」に関する「ソ連共産党中央委国際部議定書」(1961.12.11)なる文書の存在も明らかになったというから興味深い。
 その文書を面倒だがそのまま書き写すと、次のとおり。
 「一、一九六二年に日本共産党に対し、一五万米ドルの資金援助を提供することを適切な決定と認める。
 一、セミチャストヌイ同志(KGB議長)は日本共産党への上記援助資金の引き渡しに責任を持つものとする。引き渡しに際し、『左翼労働組織支援国際労組基金』からの援助であることを周知させるよう通達する。

 日本共産党は<武装闘争>路線を放棄する1955年の所謂「六全協」によって統一回復を始め、1958年の第七回党大会で統一・規約決定、1961年の第八回党大会で新綱領を採択して、所謂<宮本顕治体制>が確立される。
 興味深いのは1950年代は勿論、日ソ両共産党が対立し始めるまでは1960年代に入っても、実質的にはソ連共産党からの財政的援助が日本共産党に対してあった、ということだ。
 日本共産党は1958年には<自主独立路線>を打ち出した。もともとコミンテルン(国際共産党)日本支部と同義だった日本共産党(1922年設立)がようやくソ連共産党から自由になったとも思わせるが、上の資料は、<自主独立>性を疑わせる。
 名越の本によると、日本共産党は上の資料が告げる事実を否定し、「援助はあくまで一部の内通者が要請したもので、党中央は一切関与していない」との立場で一貫しているらしい(p.93にはその旨の日本共産党・志位和夫書記長談話も掲載されている)。
 上のような援助のあること(あったこと)は、一般国民はもちろん一般党員にも知らされず、少なくとも正式には中央委員会はもちろん少数の常任中央委や幹部会でも報告されなかったのだろう。そして、上にいう「内通者」が要請し受領していたことは、宮本顕治ら数名のみが知っていた可能性が高い。
 上の志位談話は「ひそかに特別の関係を持」っていた「内通者」は「野坂参三袴田里見ら」だと述べている。
 語るに落ちたとはこのことだろう。「野坂参三や袴田里見」はのちに除名されたが、1950年代の有力党員であり、1958年~1963年の期間の日本共産党の正式な幹部そのものではないか。のちに除名したからといって、その事実が消えることはない。
 かりに「野坂参三や袴田里見」が「内通者」だったとしても、宮本顕治は、その「内通者」による資金援助要請と受領の事実を知っており、かつ(おそらくは積極的に)容認していたと思われる。
 名越はいう。「分裂時代の五一、五五年はともかく、五八~六三年については、秘密基金が日本共産党本部に流れた疑いは払拭しきれない」(p.95-96)。
 「党中央」と個々の幹部党員(「内通者」)とを区別する日本共産党・志位和夫の論理は実質的には破綻している。
 かりに万が一本当に「内通者」と称することが適切な者が存在したとしても、それが「野坂参三や袴田里見」という当時の幹部党員だったということを、志位和夫は(そして現在の日本共産党幹部および党員全員は)<恥ずかしく>感じるべきだ。それがまともな感覚というべきだろう(<自主独立>を謳うかぎりは)。
 1960年代半ば以降は、ソ連共産党は日本共産党と縁を切って日本社会党との「関係」を深めたと見られる。また、アメリカのいずれかの機関から、初期の自由民主党又はその前身諸政党への「援助」があった可能性を、今回の叙述は否定するものではない。
 なお、法律条文を確認しないが、名越によると、日本の政治資金規正法は「外国からの政治資金導入を禁止」しており、外国からの「資金受け入れは違法行為」で、「禁固三年以下ないし罰金刑」が定められている(この刑罰の対象は政党・政治団体ではなく、その代表者又は個々の国会議員等なのだろう)。