一 月刊正論2月号(産経新聞社)の八木秀次コラム(p.42-43)は、かなりの問題性を含む。
 
田母神俊雄論文の発表につき、八木秀次は、①「内容とは次元の異なるところで大いに問題があった」、②「村山談話」が「日本国政府の手足を縛る有効な道具であることを左翼勢力に再認識させた」と批判し、「その意味で、…田母神氏の一連の発言を褒める気にはなれない」と述べる。
 桜田淳森本敏に近い見解だろうか。
 <保守>派の一つのありうる反応なのだろうが、かかる見解はやはりおかしい。批判されるべきだ。
 せっかく温和しくして(刺激的な言動をしないで)国民の信頼も徐々に獲得してきたのに田母神俊雄論文で台無しになった、というかのごとき論調は間違っている、と考える。それに、八木秀次は別の間違いも犯し、無知蒙昧さを明らかにしている。
 二 第一に、八木は、田母神論文の影響で、統合幕僚学校等の「外部講師」の現状が調査され再検討され始めた、という。日本共産党も「外部講師」の人選を調査していた、という。
 だが、「再検討」の是非はともかくとして、統合幕僚学校等の「外部講師」の人選の現状は、日本国民一般に対して明らかにされても原則的には何ら不思議ではないのではないか。
 国公立大学(法人)はもちろん私立大学でも、専任教員の他、どのような非常勤教員が来て教育を担当しているかは、積極的にあるいは問い合わせ・調査があれば受動的にでも、明らかにされているだろうし、明らかに(公開・開示)されるべきだ。
 統合幕僚学校や防衛大学校についても、これらは上記の学校教育法上の学校でないことは承知の上だが、どのような人たちが教師・講師になっているかは、防衛に対する国民の信頼を得るためにも、国民の関心に応えるためにも、国民に公にされてよいものだ(原則的には公開されるべきだ)という見解が十分に成り立つ。
 これが消極的に解されるためには、正規教員や「外部講師」の氏名を明らかにすることが、(間接的にせよとくに中国・北朝鮮という近隣諸国に知られることによって)わが国の防衛(行政)上著しい支障が生じると認められる場合に限られるのではないか。
 自衛隊は国の一組織であり、その内部に置かれる学校についても、(行政機関)情報公開法の精神は及ぶはずだ(行政機関情報公開法=法律は防衛省も適用対象とする。そして「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ……があると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」は開示しないことができる(同法5条3号))。
 説明責任といってもよいし、あるいは透明性の問題であるかもしれない。軍事・防衛関係に<秘密>にしておくべき事項があることは当然のことだが、しかし、その対外的<秘密>事項の中に、統合幕僚学校等の「外部講師」の氏名は含まれるのかどうか。いかに「個人情報」だとしても、公金によって講師料を支弁されている者の<プライバシー>の保護は<秘密>性確保の理由にはならないだろう。
 八木秀次は憲法学者の筈だ。だとすれば、以上のような思考をしなければならないのではないか。
 しかるに八木は、共産党・赤旗の記者に自分の「外部講師」歴を問われて(国会に提出された資料中の)特定大学助教授だけでは「わからない」と答えたとし、自分以外のすべての「外部講師」本人が氏名公表に同意したのは「賢明な判断だとは思わない」、と批判している。
 その理由は、八木によると、①「統幕学校での講師の人選に一定の傾向があることが露見してしまった」こと、②防衛大臣が「見直しを明言した」こと(「村山談話」の線に沿った講師が選ばれそうなこと)、にあるようだ。
 八木秀次という人は、小粒の、<いじましい>人のように見える。上の①中の「講師の人選に一定の傾向があることが露見してしまった」とは、何と情けない文章だろう。<一定の傾向の講師たちで何故いけないのか>と堂々と開き直る(?)べきではないのか? あるいはそもそも「一定の傾向」とは何なのか?(「一定の傾向」について八木は自信・確信を持っているのか。自信・確信があって「一定の傾向」なる語をあえて使うだろうか?)
 また、悪いことをしていたわけでもないのに、日本共産党記者に対して、何故堂々と、自分も「外部講師」だった、とどうして言えないのか?
 そしてそもそも、前述のような、防衛行政を含む国政(・行政)についての説明責任・「情報公開」の要請といった論点は、この人の頭の中には全く存在しないようだ。
 実際の説明責任のとり方・「情報公開」制度の運用について問題が全くないとは思わない。<左翼>がこれらを利用している面は否定できない。しかし、憲法学者ならば、こうした論点があること自体は留意しておくべきではないか。こうした意味で、私は、八木秀次には憲法学者として<無知蒙昧>なところがある、と感じる。
 「外部講師」の人選の見直しの是非はまた別の次元の問題だ。さらに、こうした現状調査や見直しのきっかけを作ったのが田母神俊雄論文の発表だとして八木秀次は批判の根拠としているようだが、これまた別次元の問題だ。「見直し」に問題があるならば、それはそれとして堂々と批判すればよいのではないのか。
 三 第二に、上記とも重複するところがあるが、八木秀次は原因・結果の関係についての理解が<倒錯>しているように見える。
 すなわち八木は、田母神論文は、「村山談話」の有用性を左翼に「再認識」させた、という咎がある、と主張している。しかし、そもそもが左翼勢力が「村山談話」を生み出したのだったし、八木自ら「再認識」と書いているように、その有用性くらい、<左翼勢力>はとっくにご存知なのだ。内閣総理大臣が交代するたびに「村山談話」の継承の有無を問う朝日新聞をはじめとするマスメディアがいる。
 どの程度<左翼的>かは不明だが、1998年の日中共同声明に「村山談話」の「遵守」を盛り込んだ外務官僚もいたのだ(積極的に賛成したのだとすると、首相や外務大臣も「左翼」と称しうる)。
 本当の<保守>派は田母神俊雄の揚げ足取りをするのではなく、第一には「村山談話」をこそ問題にして、それを批判すべきではないのか。より正確には、「かつての一時期」の日本=<侵略国家>という一面的で単純な歴史認識自体を払拭するように各方面で尽力すべきではないのか。
 なお、八木は田母神論文のおかげで「自衛隊を含む政府関係機関の歴史観・国家観は二十年前に逆戻り」だという(コラムのタイトルも「逆戻りする歴史観」になっている)。
 こういう認識を私は持たない。政府関係機関(担当者)の歴史観・国家観をこのように単純に述べることはできないと思うし、かりにこれが正しい指摘だとしても、それは田母神論文が原因なのではなく、「二十年」の間に徐々に進行していた事態なのだと考える。
 四 タイトルに最初に付した「日本共産党・若宮啓文との類似性(?)」について書くのを忘れていた。
 簡単には次のようなことだ。
 1 日本共産党はかつて(1960年代後半~1970年代)、「全共闘」派あるいは<新左翼>の<暴力>を批判する際に、敵(権力)を過激な暴力行為で挑発して治安機構を拡大強化させている、自衛隊の治安出動すら生じさせようとしている、彼らは敵(権力)の「手先」・「別働隊」だ、というようなことを主張していた。
 八木の田母神俊雄批判はこれに少しは似ていないか? 「闘う」者に対して、そんな闘い方をしたら却って「敵」を有利にするだけだ、と八木は田母神俊雄を批判している、と言ってよい。
 2 若宮啓文は、朝日新聞昨年7/21のコラム(風考計)で次のように書いていた。
 日本の学習指導要領「解説書」に教育事項として<竹島は日本の領土>の旨が盛り込まれた。「それにしても、『独島』に寄せる韓国の情念を知りつつ、なぜまた刺激するのか」、「このセンスはどんなものだろう」。
 朝日新聞・若宮啓文お得意の<中国・北朝鮮・韓国を刺激するな>(なぜならかつて侵略又は植民地化した国だから)という見解・方針が露骨に示されている。
 八木秀次の田母神批判は、これに似てはいないか?
 かつての「歴史認識」に関する<左翼>の「情念」を知りつつ、「なぜ…刺激するのか」、刺激しないで(言いたいこと・書きたいことも言わず・書かずにして)おけば、従前どおりの状態でおれたのに、と八木は主張しているようなものではないか? 
 五 八木秀次に大した期待はしていないが、身辺回りのみならず、<大局>を観てもらいたい。