一 小林よしのり責任編集わしズム(小学館)28号(2008秋号)に、八木秀次が連載風随筆欄で「作法も品格もない皇室報道が跋扈している」と題して書いている(p.178-)。
 八木によると、①「保守系論壇誌は、この10年間ほど」、「北朝鮮、中国、朝日新聞、NHK、左翼市民団体などを激烈な言葉で批判し、部数を伸ばしてきた」が、「読者もそろそろ飽き始め、部数が落ちてきた」。②「そこで新たな批判・攻撃の対象として登場してきたのが皇室である」。
 ①の「伸ばしてきた」・「落ちてきた」は実証的根拠がないので説得力が十分ではない。また、後半に「読者」が「飽き始め」た、とあるが、何を根拠にこう推測しているのか?
 より問題だと感じるのは、②。すなわち、「そこで」と簡単に繋げうるほどに、部数が「落ちてきた」ことと最近の皇室「報道」との間に関係があるのか?
 根拠のない推測にすぎないのではないか。

 二 八木秀次の上の文章全体の問題又は<異様さ>は、上に記した点よりもむしろ、その80%以上、全3頁弱、計ほぼ10段のうち8段が、西尾幹二の皇室関係評論への攻撃に向けられていることにある。
 この欄の9/21で八木の竹田恒泰との対談本に言及して、「八木秀次は西尾幹二の主張内容を、批判しやすいように歪めているところがある」と批判的にコメントしたこととは関係はないだろうが、上の今回の文章では西尾幹二の言い分をかなり詳細に紹介又は引用したうえで批判している。
 それはよいとしても、やはりこれだけ続けて西尾幹二批判を継続するのは、本来は<保守派>どうしの間柄なのだとすれば、異様に感じるし、みっともない(とこの欄で書いているのも以下も含めて執拗かもしれないが、影響力は活字になっている八木の文章とはまるで違うし、書いておきたいことなので書いておく)。「左翼」の中の多少とも<戦略>を意識している者たちは大喜びしているだろう。
 三 また、再言になるのだが、そもそも八木秀次に西尾幹二を批判する資格はあるのか? わしズムの上の文章は「最近の皇室報道や評論は慎みや作法・品格を失い、明らかに言論の矩を越えている。『傲慢の罪』を犯しているのはどちらの方なのか」で終わっている。これが、西尾幹二に対して、少なくとも西尾幹二を主たる対象にして述べられていることは明らかだ。
 だが、これまた再述になるが、執拗にも再確認しておく。月刊諸君!(文藝春秋)という「保守系論壇誌」の今年7月号が企画した<皇室>関係報道・評論に「参加」して、次のように明言したのはいったい誰なのか??
 「問題は深刻である。遠からぬ将来に祭祀をしない天皇、いや少なくとも祭祀に違和感をもつ皇后が誕生するという、皇室の本質に関わる問題が浮上しているのである。皇室典範には『皇嗣に、……又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、……皇位継承順序を変えることができる』(第三条)との規定がある。祭祀をしないというのは『重大な事故』に当たるだろう」。
 八木秀次自身ではないか。
 少しは新しいことを記しておけば、現皇太子が将来は(=天皇になれば)「祭祀をしない」と公言し明言されないかぎりは、皇太子殿下が皇位を継承したあとでなければ、将来の天皇(現皇太子)が「祭祀をしない」かどうかは分からない筈なのだ。にもかかわらず、八木は現時点において、皇室典範第三条を適用しての「皇位継承順序」の変更を主張している、少なくともその可能性に言及している。将来の天皇(現皇太子殿下)が「祭祀をしない」だろうということを、八木は現時点においてどうやって認定するつもりなのか? 八木の言っていることには、基本的な、論理的問題点もある。
 そしてまた、上のようなことを書くということは、「慎みや作法・品格を失った」皇室関係評論にあたらないのだろうか。
 月刊正論(産経新聞社)誌上に連載随筆欄を持ちながら、まるで自分が「保守系論壇誌」とは無関係の第三者であるかのごとき書き方であることも含めて、やはり八木秀次は信用できない。
 <保守の純度>が落ちていると西尾幹二によって論評されている産経新聞は相変わらず武田徹を本誌(新聞)上で起用し、相変わらず月刊正論では八木秀次を使うのだろうか。もともと全面的に100%支持できる論客も新聞もないと考えているので、八木のような存在にも産経新聞の現状にもとくに驚きはしないが。