一 <戦後・進歩的知識人>の一人による宮沢俊義・憲法講話(岩波新書、1967)の憲法九条・自衛隊関係の叙述に以下のようなものがある。
 ・九条(2項)が禁止するのは「戦力」の保持であり、「戦力」とは「近代戦争を有効に遂行するに足りる武力」のことであるところ、「現在の自衛隊程度の武力」は「戦力」にあたらない。これが「現在政府のとっている解釈」だ。だが、かかる解釈、そして自衛隊を最高裁判所が「違憲」とすることは「まず予想できない」(p.205)。
 ・政府解釈によると、「戦力」に至らない程度の武装であれば、核兵器の保有が憲法九条によって禁止されてはいない。こうなると、「第九条は、実質上、完全に抹殺されてしまう」(p.209)。
 ・現在の政府の解釈を「国会が承認し、さらに、裁判所が支持する」となればその解釈は「公権的なものとして確定する」。そして、そうなれば、いかに学説が批判しても、そのような「公権解釈」で示された内容こそが、「生きている憲法、すなわち、現実に行なわれている実定憲法」であると言わざるを得ない(p.209)。
 以上を読んでの感想は、①宮沢がこれを書いた時期よりも自衛隊の武力の程度が縮小・弱体化しているとは思えず、かつ②政府は叙上のような憲法解釈をずっと維持してきているはずだ、そして、③法制度等から見て「国会」や「裁判所」が政府解釈を<追認>することはないのではないか、だとすれば事実上は政府解釈が「公権解釈」になっている、④国会による憲法解釈にしても、叙上の政府解釈を支持する(少なくとも否定しない)党派が一貫して多数派を占めてきていることは、国会は自衛隊を(そしてその基礎にある憲法解釈を)「違憲」と判断しているとは言えないことが明らかだ。
 以上の最終的な結論的感想は、憲法九条2項についていうと、自衛隊は憲法違反ではなないとする憲法解釈こそが、宮沢の表現を借りると、「生きている憲法、すなわち、現実に行なわれている実定憲法」であると言わざるを得ないのではないか、ということだ。
 こう書けば自衛隊を違憲とする憲法学者は、最高裁による判断はまだ示されていない、違憲なものは違憲だと反論するかもしれない。
 だが、かりに多くの憲法学者が考えるように自衛隊は客観的には違憲(憲法九条2項違反)だとすれば-そう解するのに十分な根拠はあると思うが-、そのような憲法学者たちは、実質的には憲法九条2項は空文化し、「生きている」又は「現実に行なわれている」憲法条項ではなくなっていることを率直に認めるべきなのではないか。
 その点で、上の宮沢俊義の言明は率直かつ正直な感覚を示していると感じられる。
 二 だが、現今の憲法学者の考えていることは、なかなか複雑で、上のことを素直に承認することもなく、かと言って自衛隊違憲論を大々的に主張してその縮小・解体を強く説いているわけでもない。
 どこかおかしい。素直でないし、ある意味では<卑劣>ではないか。
 既に触れたが、樋口陽一は、憲法再生フォーラム編・改憲は必要か(岩波新書、2004)の中で、次のように主張する。
 「正しい戦争」をするための九条改憲論と「正しい戦争」自体を否認する護憲論の対立と論争が整理され、そのような選択肢がきちんと用意される「それまでは、九条のもとで現にある『現実』を維持してゆくのが、それこそ『現実的』な知慧というべきです」、改憲反対論は「そうした『現実的』な責任意識からくるメッセージとして受けとめるべき」だ(p.23-24)。
 この<護憲論者>の主張はいったい何なのか。見方によれば、「現実」がどうなっても、どう変わっても、それはそれとして、憲法九条(2項)の条文だけが不変であればそれでよい、と考えているように見える。
 自衛隊(・防衛省)の存在を前提としてもなお憲法九条(2項)がその活動に制約を課す法的根拠として働いていることを否定はしないが(だからこそ九条2項廃止論も正当な根拠をもって出てくる。なお、集団的自衛権行使否定がなぜ九条2項等から解釈上生じるか等自体にもよく分からないところがある)、上のような<わかりにくい>主張は、「現実」を認めたくないためにすぐにその心理の裏側から出てきている「開き直り」とでも言うべきものではないか。
 1960年代後半の宮沢俊義の見解の方がはるかに率直で素直で、また憲法学者として誠実だと考えられる。