一 6/08に<秋葉原・通り魔>事件が起きた。逮捕された犯人は、25歳だという。ということは、1982年か1983年の生まれ。
 1997年5月に、神戸で「酒鬼薔薇」と称した当時14歳の少年による「猟奇的」殺人事件が起きた。この少年は1982年7月生れで、今回の秋葉原の事件の犯人と同じ年か前年の生まれ。二人は少なくとも同一世代に属している
 法的な制裁はむろんこれら犯罪者に(責任能力があれば)課せられるべきだが、<戦後日本>の教育・社会に問題はなかったのか、という問題意識はもって然るべきだろう。
 ということから、別の所に1年以上前に自分が書いた文章を思い出した。  二 1 月刊・正論2007年3月号(産経新聞社)の中の稲垣武のマスコミ論評の中に一種の世代論がある。-「いじめやホームレス殺し、さらには親兄弟殺しなどが多発するいまの少年の親は、団塊ジュニアの世代に当たる」(p.174-5)。これは不正確だ。「団塊」を1947-49年でなく便宜的に1945-50年生れとし、かつ20-40歳で子供を持つとすると「団塊ジュニア」は1965-90年生れと拡散する。この世代がやはり20-40歳で子供を持つとすると、1985-2030年生れとさらに拡散する。一方、近年諸犯罪等を冒している青年たちを10-25歳とすると2005年を基準として1980-1995 年生れとなり、その親は20-40歳で彼らを生んだとすると、1940-75年生れとなる。上で記した「1965-90年生れ」とかなりズレているのでないか。
 ともあれ、「ジュニア」世代は年令幅が拡大するので注意が必要だ。稲垣はまた、「団塊」世代の親は「昭和一桁世代」と書くが、これは明確な間違いだ。 1945-50年生れの者を20-40歳で生んだ者は、1905-30年生れという計算になり、「団塊」世代の親は明治38年から大正を経て昭和5年までに生まれている。中心は大正時代生れと見るべきで、「昭和一桁世代」とするのは誤りだ。
 稲垣のあとの叙述を読むと、中西輝政・日本人としてこれだけは知っておきたいこと(PHP新書、2006)内の世代論と同旨のところがあり、後者の影響を受けていると見られる。だが、中西は1965年以降生れを(1935年以降生れを親とする、)「昭和二世」 と称しており、「団塊ジュニア」とは称していない。「昭和二世」と「団塊ジュニア」は必ずしも一致しないのだ。
 2 このような気になる所はあるが、稲垣武の指摘が基本的に誤っているわけではない。中西輝政の本を見ないまま稲垣の文を使っていえば、昭和の第一世代には「戦前からの倫理道徳が根強く残って」いて「子供のしつけ」にもそれは反映されていたが、第二世代はそういう親はいても「『戦後教育』にどっぷり漬かって育った世代」で「子供にそんな倫理道徳を教えることはなかった」。その子供たちの第三世代は「学校でも家庭でも倫理も道徳も教えられず、野放しの欲望だけを剥き出し」、「残虐ないじめ」等をする(中西氏は第二世代を1965年以降(か前後)生れの世代としていたかと思うが、稲垣氏はこの第二の世代を誤って「団塊」世代に読み替えている)。
 3 かかる基本的な理解はおそらく適切だ。戦前の教育が100%素晴らしかったとは毛頭思わないが、戦後と比べれば、国家・社会公共への奉仕精神、お互いにいたわり合う心、最近よくいう「規範意識」を培うような教育だったように思われる。
 上の第一世代にはこれが残り、第二世代にもある程度は伝えられたはずだが、第二世代は自分の子供たちにそのような「しつけ」はせず、公教育の場でも「個人の尊重」(現憲法、旧教育基本法)の方が優先された。第二世代にもある程度は伝えられた、と書いたが、第一世代の直接の言葉によることもあれば、無言の立ち居振る舞いによることもあっただろう。
 だが、思うに、敗戦と「価値観の転換」があって、第一世代は、また学校の教師も、国家・社会公共への奉仕精神等々を第二世代に「自信をもって」教えることはできなかったのでないか。そうして育った第二世代がその子供たち(第三世代)に社会公共への奉仕・いたわり合う心等々の「しつけ」をできるはずがない。「団塊」世代は第一世代と第二世代の中間だが、第二世代により近いことは確かで、稲垣の見当は全く外れてはいない。私や周囲の同世代の者を見てもそれは判る。
 4 本筋からやや離れれば、戦後の男女対等教育のもとで戦前よりは高学歴を身につけながらも職業人でなく多くは「専業主婦」となった「団塊」世代の女性たちは(上の第二世代の女性も同様だろうが)、いかなる「基本的価値」を自分たちの子供に伝えるかを迷ったか、又はそんなことを全く意識しなかったかのいずれかだろう
 そして、時間的にも余裕があった彼女たちが最も気にしたのは、自分の子供をどの高校・大学に進学させ、どの著名な企業に勤めさせるか又はどの立派な職業に就かせるかであり、そこには<国家・社会公共>との関連性などまるでなく、ただ同世代の他人の家庭との比較により関心があり、子供の「個人的」成果は同時に自分の「個人的」成果でもあったのだと思われる。
 そのような女性たちを、「働きバチ」又は「モーレツ」サラリーマン男性だったその夫たちは放任するか、消極的又は積極的に協力した。
 以上のような話はむろん相対的な「傾向」を述べており、実証的な根拠・資料があるわけでもない。だが、私も含む戦後教育のみを受けた者の多くが子供たちに望んだのはよい「成績」・よい「学校」・よい「就職先」であり、よい・立派な「人格」ではなかったこと、「社会公共への奉仕心」を持つことではなかったこと、だけはほぼ明らかではなかろうか。むろん、教育を受けた側にのみ責任があるわけではない。学校及び教師を含む「時代」の雰囲気がそうだったのだ。いや、現在でもそうかもしれない。
 5 神戸の「酒鬼薔薇」事件の14歳少年は1982年7月生れで、その両親はともに「団塊」の1950年生れだった。寺島実郎・われら戦後世代の「坂の上の雲」(PHP新書、2006)は、その両親の手記(私は未読だが、「少年A」・この子を生んで…(文春文庫、2001))を読み、「まったく書いていないこと」に「気づいて愕然とした」という。-「この本にはただの一度も『社会』とか『時代』という問題意識が出てこない。つまり、時代の課題に親として、大人として関与して苦闘しているという部分がまったく登場しない」(p.126-7)。寺島氏自身が1947年生れだから「愕然」としつつも納得できる所があった筈だ。
 寺島はこうも書く-「団塊世代」の環境には、「国家とか社会とかいった全体の価値を胡散臭いものとして否定し、拒否する」という「『戦後民主主義』がつくりだした独特の文化状況が存在した」。
 「団塊」世代が公教育を受けていた時代、おおよそ1955-65年にはまだ「いじめ」とか「学級崩壊」という言葉はなかった。地方や地域・学校により異なるだろうが、言葉のみならず実態も相当に少なかったのではなかろうか。上の言葉は1970年代の後半になって出てきた。中西輝政がいう「昭和二世」の先頭が小学生から中学生になった頃だ。
 6 まだ一部なのかもという期待はもはやできず、いずれかの時期から学校・教育・家庭環境は「おかしく」なったように思われる。そして、それが寺島のいう「戦後民主主義」という「独特の文化状況」によることは間違いないと思われる。別言すれば、「戦後」日本の「悪しき『個人』主義・『平等』主義」という精神・文化・社会状況だ。<悪しき「平等」主義>は、<(平均)人並み>に処遇されない者に、過大な対社会への不満感情と過大な自己卑下感情を形成させ得る。この<悪しき「平等」主義>は、<悪しき「個人主義」>を基礎にしている。
 「戦後体制からの脱却」とはかかる状況からの離脱をも意味していた筈なのだが。