一 樋口陽一は、<ルソー=ジャコバン型個人主義>を<西欧近代に普遍的な>個人主義と同一視はしていない筈だ。樋口・自由と国家(岩波新書、1989)で、<ルソー=ジャコバン型個人主義>には「イギリスの思想」が先行していたとして、ホッブズやロック等に言及しているし(p.125)、別に「トクヴィル=アメリカ型国家像」に親和的な民主主義や個人主義観にも触れている(p.149~)。もっとも、「ホッブズ→ロック→議会主権」という系列のイギリス(思想)は「フランス」(「一般にヨーロッパ」)の方に含められて然るべきとして一括されており(p.153)、<ルソー=ジャコバン型>と<トクヴィル=アメリカ型>は「『個人主義』への態度決定」には違いはなく、「反・結社的個人主義」と「親・結社的個人主義」という(身分制アンシャン・レジームのあった旧大陸とそうではない新大陸の)「対比」なのだという(p.164)。
樋口は上に触れたよりも多数の<個人主義>に言及しつつ、大掴みには上のように総括している、と理解できる。だとすると、<ルソー=ジャコバン型>個人主義は、<西欧に>、又は基本的にはそれを継承した?アメリカを含む<欧米に普遍的な>個人主義だと理解することはできないはずだ。
だが、そういう観点からすると、樋口陽一は奇妙な叙述をしている。
①<ルソー=ジャコバン型>個人主義の諸問題への言及は重要だが、しかし、「身分制的社会編成の網の目をうちやぶって個人=人一般というものを見つけ出すためには、個人対国家という二極構造を徹底させることは、どうしてもいったん通りぬけなければならない歴史の経過点だったはず」だ(p.163)。
このあとで1789年フランス人権宣言には「結社の自由」がないことへの言及が再び(?)あるが、個人対国家という二極構造の「徹底」が普遍的な?「歴史の経過点」(<歴史の発展法則>?)というこのような指摘は、少なくとも潜在的には<ルソー=ジャコバン型>こそを(とりあえずアメリカを除いてよいが)<西欧近代の典型・かつ普遍的なもの>と見なしているのではないか。
次の②はすでに紹介したことがある。
②「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」を見事に否定する人々が日本にいるようなら、「一1989年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(p.170)。
ここでは、「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」の話が、いつのまにか?、「ルソー=ジャコバン型個人主義」に変わっている。「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと」=「ルソー=ジャコバン型個人主義」というふうに巧妙に?切り替えているのではないか?
以上は要するに、<西欧近代>あるいは「西洋近代立憲主義」等々と言いつつ、樋口はその典型・模範としてフランスのそれ、とくに「ルソー=ジャコバン型」を頭に置いているのではないか。そしてそれは論理的にも実際にも正しくはないのではないか、という疑問だ。
二 また、そもそも樋口陽一の<西欧近代>あるいは「西洋近代立憲主義」の理解は正しい又は適切なものなのだろうか。決してそうではなく、あくまで、<樋口陽一が理解した>それらにすぎないのではないか。
例えば、樋口はイギリス思想にも言及しているが、いわゆる<スコットランド啓蒙派>への言及はなく、せいぜいエドマンド・バークが3行ほど触れられているにすぎない(p.130)。樋口にとって、「イギリス」とは基本的に「ホッブズ→ロック」にとどまるのだ。
そのような理解は、典型的には、樋口が上の如く「西洋近代立憲主義の基本的な約束事」を「(ホッブズからロックを経てルソーまで)」と等置していることに示されている、と思われる。
樋口陽一のごとく<西欧近代>を単純化できないことを、たぶん主としては佐伯啓思のいくつかの本を参照して、じつはこれまでもこの欄で再三紹介してきたように思う。樋口が理解しているのは、端的に言ってマルクス主義の立場から観て優れた<西欧「近代」思想>と評価されたもの、そこまでは言わなくとも、せいぜいのところ雑多な<西欧近代>諸思想潮流の中で<主流的なもの>にすぎない、のではないか。
ここでは坂本多加雄・市場・道徳・秩序(ちくま学芸文庫、2007)の「序」に興味深い叙述があるので、紹介してみよう。なお、日本「近代」の四人の「思想」を扱ったこの本は1991年の創文社刊のものを文庫化したものだ(「序」も1991年執筆と思われる)。故坂本多加雄(1950~2002)は、次のようなことを書いていた。
①<従来は多くは何らかの完全な意味での「近代」性を措定して、思想(史)の整理・分析がなされてきた。「近代」性の限界を発見して完全な「近代」性探求が試みられたり、「マルクス主義的な段階論」に依って「ブルジョア民主主義思想から社会主義思想への発展過程」の検出がなされたりした。しかし必要なのは「あるひとつの基準」で「近代」性の程度・段階を検証することではない。「過去」を「現在」に至る「直線的な評価のスケール」の上に並べての研究は、「現在」のわれわれ自身の思想・言語状況に関する「真剣な反省の意識をかえって曇らせる」(p.13-14)。
②いくつかの留保が必要だし、再検討の余地もあるが、ハイエクは、「近代の社会思想」は、第一に、「モンテスキュー、ヒューム、〔アダム・〕スミス、そして一九世紀のイギリスの自由主義、トクヴィル、ギゾー等に受け継がれていく」「スコットランド啓蒙派」に代表される立場と、「ホッブズや、フランスの啓蒙主義、ルソー、またサン・シモン主義、そして、マルクスのなかにその担い手を見出していく」「デカルト的」な「構成的合理主義」、という「二つの系譜を異にするもの」が存在する、と述べた(p.18)。
上の二点について、とくにコメントを付さない。いずれも<西欧近代>・「西洋近代立憲主義」の理解の単純さについて、および普遍的「近代」を措定しようとすること自体について、樋口陽一に対する批判にもなっている文章だと感じながら、私は読んだ。
樋口は上に触れたよりも多数の<個人主義>に言及しつつ、大掴みには上のように総括している、と理解できる。だとすると、<ルソー=ジャコバン型>個人主義は、<西欧に>、又は基本的にはそれを継承した?アメリカを含む<欧米に普遍的な>個人主義だと理解することはできないはずだ。
だが、そういう観点からすると、樋口陽一は奇妙な叙述をしている。
①<ルソー=ジャコバン型>個人主義の諸問題への言及は重要だが、しかし、「身分制的社会編成の網の目をうちやぶって個人=人一般というものを見つけ出すためには、個人対国家という二極構造を徹底させることは、どうしてもいったん通りぬけなければならない歴史の経過点だったはず」だ(p.163)。
このあとで1789年フランス人権宣言には「結社の自由」がないことへの言及が再び(?)あるが、個人対国家という二極構造の「徹底」が普遍的な?「歴史の経過点」(<歴史の発展法則>?)というこのような指摘は、少なくとも潜在的には<ルソー=ジャコバン型>こそを(とりあえずアメリカを除いてよいが)<西欧近代の典型・かつ普遍的なもの>と見なしているのではないか。
次の②はすでに紹介したことがある。
②「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」を見事に否定する人々が日本にいるようなら、「一1989年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(p.170)。
ここでは、「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」の話が、いつのまにか?、「ルソー=ジャコバン型個人主義」に変わっている。「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと」=「ルソー=ジャコバン型個人主義」というふうに巧妙に?切り替えているのではないか?
以上は要するに、<西欧近代>あるいは「西洋近代立憲主義」等々と言いつつ、樋口はその典型・模範としてフランスのそれ、とくに「ルソー=ジャコバン型」を頭に置いているのではないか。そしてそれは論理的にも実際にも正しくはないのではないか、という疑問だ。
二 また、そもそも樋口陽一の<西欧近代>あるいは「西洋近代立憲主義」の理解は正しい又は適切なものなのだろうか。決してそうではなく、あくまで、<樋口陽一が理解した>それらにすぎないのではないか。
例えば、樋口はイギリス思想にも言及しているが、いわゆる<スコットランド啓蒙派>への言及はなく、せいぜいエドマンド・バークが3行ほど触れられているにすぎない(p.130)。樋口にとって、「イギリス」とは基本的に「ホッブズ→ロック」にとどまるのだ。
そのような理解は、典型的には、樋口が上の如く「西洋近代立憲主義の基本的な約束事」を「(ホッブズからロックを経てルソーまで)」と等置していることに示されている、と思われる。
樋口陽一のごとく<西欧近代>を単純化できないことを、たぶん主としては佐伯啓思のいくつかの本を参照して、じつはこれまでもこの欄で再三紹介してきたように思う。樋口が理解しているのは、端的に言ってマルクス主義の立場から観て優れた<西欧「近代」思想>と評価されたもの、そこまでは言わなくとも、せいぜいのところ雑多な<西欧近代>諸思想潮流の中で<主流的なもの>にすぎない、のではないか。
ここでは坂本多加雄・市場・道徳・秩序(ちくま学芸文庫、2007)の「序」に興味深い叙述があるので、紹介してみよう。なお、日本「近代」の四人の「思想」を扱ったこの本は1991年の創文社刊のものを文庫化したものだ(「序」も1991年執筆と思われる)。故坂本多加雄(1950~2002)は、次のようなことを書いていた。
①<従来は多くは何らかの完全な意味での「近代」性を措定して、思想(史)の整理・分析がなされてきた。「近代」性の限界を発見して完全な「近代」性探求が試みられたり、「マルクス主義的な段階論」に依って「ブルジョア民主主義思想から社会主義思想への発展過程」の検出がなされたりした。しかし必要なのは「あるひとつの基準」で「近代」性の程度・段階を検証することではない。「過去」を「現在」に至る「直線的な評価のスケール」の上に並べての研究は、「現在」のわれわれ自身の思想・言語状況に関する「真剣な反省の意識をかえって曇らせる」(p.13-14)。
②いくつかの留保が必要だし、再検討の余地もあるが、ハイエクは、「近代の社会思想」は、第一に、「モンテスキュー、ヒューム、〔アダム・〕スミス、そして一九世紀のイギリスの自由主義、トクヴィル、ギゾー等に受け継がれていく」「スコットランド啓蒙派」に代表される立場と、「ホッブズや、フランスの啓蒙主義、ルソー、またサン・シモン主義、そして、マルクスのなかにその担い手を見出していく」「デカルト的」な「構成的合理主義」、という「二つの系譜を異にするもの」が存在する、と述べた(p.18)。
上の二点について、とくにコメントを付さない。いずれも<西欧近代>・「西洋近代立憲主義」の理解の単純さについて、および普遍的「近代」を措定しようとすること自体について、樋口陽一に対する批判にもなっている文章だと感じながら、私は読んだ。