一 樋口陽一の著書には再三言及してきた。振り返ってみると、以下のものに、この欄で触れている(自分のことながら見落としがあるかもしれない)。
憲法再生フォーラム編・改憲は必要か(岩波新書、2004)の中の樋口論稿
伊藤正己=尾吹善人=樋口陽一=戸松秀典・注釈憲法〔新版〕(有斐閣新書、1983)の樋口執筆部分
樋口陽一・憲法/第三版(創文社、2007)
樋口陽一・「日本国憲法」-まっとうに議論するために(みすず書房、2006)
樋口陽一・比較の中の日本国憲法(岩波新書、1979)
樋口陽一「フランス革命と法/第一節・フランス革命と近代憲法」長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法/第一巻
樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)
これらはいずれも、体系的・総合的な分析を意図したわけではなく、基本的に<気儘な>読書の覚え書であり、かつそれでこの欄・ブログの趣旨に合致している。
二 上の一文の趣旨を前提に、もう一度、樋口・自由と国家(上記)に立ち入ってみよう。この本は、ソ連・東欧「社会主義」の崩壊以前に書かれていることを留意しておくべきだ。以下、(これまでに書いていないことで)いくつか気についた点のみ。
①フランスの1789年と1793年の関係につき三説がある(p.110)、という部分はすでに紹介したが、同じ問題に触れている箇所がある。そこ(p.12)では、1.「八九年=理性=光」に対する「九三年=恐怖政治=闇」という「通俗的」歴史観と、憲法学界でも「常識的」だった、「八九年〔人権〕宣言・九一年憲法」=「正統」、「九三年憲法」=「逸脱」(但し、この中にもそれの「忌避」と逆の「賞賛」とがある)、との捉え方、に対して、2.「マルクス主義社会経済史学が、封建制諸特権の無償廃棄=『九三年』こそを『ブルジョア革命の深化』としてとらえる批判的見地」を提出していた、と記して、この2.に樋口は同調的・親近的であり、かつ3.「近年の『修正派』の優位」はかつての通俗的歴史観等(1.)への「一種の先祖帰り」だ、と皮肉って(?)いる。
②上にも「封建制諸特権」との言葉があるが、樋口は自らの言葉として、「封建制生産様式」・「資本制的生産様式」、「寄生的な性格をもたざるをえない前期資本」・「自生的性格の産業資本」、「自由な独立自営農民層」等の<社会経済史学>上のかつ<マルクス主義>的な用語を用いている(p.110、p.112)。むろん、(高橋幸八郎らの?)「マルクス主義社会経済史学」を参照しているのだろうが、引用ではなく、自らの用語・概念として使っていることに注目しておきたい。
③フランス社会党員らしいマックス・ガローの、「個人・自由・人権。これこそヨーロッパ文明の貴重な特徴であり」「社会主義は何より個人主義だ」との言葉を肯定的に引用している(p.160)。フランス社会党における「社会主義」とはマルクス主義(共産主義)とは異なる<社会民主主義>である可能性もあるが、樋口がここでの「社会主義」という言葉にいかなる限定も注記も施していないことが注意されてよいと思われる。
④1791年のル・シャプリエ法は「結社の自由」の保障を欠く憲法のもとで使用者・労働者の「結社」=「団結」を禁止するもので、のちにマルクスは『資本論』の中で労働者弾圧法として批判したらしいが、樋口は「結社から自由な」「個人」を「力ずくでつくり出す歴史過程」をえがき出したものとして「再読されるべき」だ、とマルクス(・資本論)の叙述を擁護(又はマルクスのために釈明?)している(p.185、同旨-樋口陽一・一語の辞典/人権(三省堂、1996)p.43)。
⑤樋口は1989年9月のシンポ報告の最後にこう述べたらしい。まず、そのまま引用する。
「憲法研究者=立憲主義者は、おそるべき、しかし高貴な任務を課されている。その名に値しようとする憲法研究者=立憲主義者は、立憲主義―その起源は西欧にあるが、しかし、くり返すが、その価値は普遍的である―を擁護するためには、彼の、あるいは彼女のナショナル・アイデンティティから自分自身を切りはなすだけの、勇気とヴィジョンを持たなければならない」。
「立憲主義」なるものの「普遍」性も重大な問題だが、それよりも、「普遍的」な「立憲主義」を擁護するために、憲法学者は、自らの「ナショナル・アイデンティティ」を捨てる(「自分自身から切りはなす」)「勇気とヴィジョン」をもつ必要がある、と樋口は主張している。
これは、最近に触れた「ルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験」せよとの主張とともに、「おそるべき」主張だ。
日本人研究者の場合、日本国籍を捨ててフランスにでも帰化せよということでは勿論なく、形式上は日本国民であっても<日本人>たる「アイデンティティ」を捨てよ、と樋口は主張しているのだ。「立憲主義」をまだ実現できない日本と日本人を徹底的に批判し続けるためには、「日本」国民意識又は「日本人」意識は邪魔になる、ということだろうか。
なるほどこのようにして、朝日新聞のような<無国籍>新聞が生まれてくるのか、と思う。また、先の大戦下において心の祖国・ソヴィエトのために日本の敗戦を祈った形式上の「日本」人(当時の日本共産党員や尾崎秀実ら)がいたことも思い出すし、また、かかる思考経路は、西欧近代から継承した普遍的な?「戦後民主主義」を理由に日本の天皇からの(又は通じての)文化勲章受章を拒みつつ、他国の国王からはノーベル賞を受け取り、日本を批判する受賞講演をした大江健三郎のそれときわめて類似しているとも思う。
この発言も、樋口陽一の<歴史的>発言として、永く記憶されるべきだろう。
さて、樋口陽一はソ連・東欧諸国の解体後は微妙にかつ巧妙に叙述を変えたり(1991年以降の彼の本の中に「ルソー=ジャコバン型」という語は出てくるのだろうか?)、本質を衝けない論述をしているようだ。さらに回をあらためる。
憲法再生フォーラム編・改憲は必要か(岩波新書、2004)の中の樋口論稿
伊藤正己=尾吹善人=樋口陽一=戸松秀典・注釈憲法〔新版〕(有斐閣新書、1983)の樋口執筆部分
樋口陽一・憲法/第三版(創文社、2007)
樋口陽一・「日本国憲法」-まっとうに議論するために(みすず書房、2006)
樋口陽一・比較の中の日本国憲法(岩波新書、1979)
樋口陽一「フランス革命と法/第一節・フランス革命と近代憲法」長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法/第一巻
樋口陽一・自由と国家(岩波新書、1989)
これらはいずれも、体系的・総合的な分析を意図したわけではなく、基本的に<気儘な>読書の覚え書であり、かつそれでこの欄・ブログの趣旨に合致している。
二 上の一文の趣旨を前提に、もう一度、樋口・自由と国家(上記)に立ち入ってみよう。この本は、ソ連・東欧「社会主義」の崩壊以前に書かれていることを留意しておくべきだ。以下、(これまでに書いていないことで)いくつか気についた点のみ。
①フランスの1789年と1793年の関係につき三説がある(p.110)、という部分はすでに紹介したが、同じ問題に触れている箇所がある。そこ(p.12)では、1.「八九年=理性=光」に対する「九三年=恐怖政治=闇」という「通俗的」歴史観と、憲法学界でも「常識的」だった、「八九年〔人権〕宣言・九一年憲法」=「正統」、「九三年憲法」=「逸脱」(但し、この中にもそれの「忌避」と逆の「賞賛」とがある)、との捉え方、に対して、2.「マルクス主義社会経済史学が、封建制諸特権の無償廃棄=『九三年』こそを『ブルジョア革命の深化』としてとらえる批判的見地」を提出していた、と記して、この2.に樋口は同調的・親近的であり、かつ3.「近年の『修正派』の優位」はかつての通俗的歴史観等(1.)への「一種の先祖帰り」だ、と皮肉って(?)いる。
②上にも「封建制諸特権」との言葉があるが、樋口は自らの言葉として、「封建制生産様式」・「資本制的生産様式」、「寄生的な性格をもたざるをえない前期資本」・「自生的性格の産業資本」、「自由な独立自営農民層」等の<社会経済史学>上のかつ<マルクス主義>的な用語を用いている(p.110、p.112)。むろん、(高橋幸八郎らの?)「マルクス主義社会経済史学」を参照しているのだろうが、引用ではなく、自らの用語・概念として使っていることに注目しておきたい。
③フランス社会党員らしいマックス・ガローの、「個人・自由・人権。これこそヨーロッパ文明の貴重な特徴であり」「社会主義は何より個人主義だ」との言葉を肯定的に引用している(p.160)。フランス社会党における「社会主義」とはマルクス主義(共産主義)とは異なる<社会民主主義>である可能性もあるが、樋口がここでの「社会主義」という言葉にいかなる限定も注記も施していないことが注意されてよいと思われる。
④1791年のル・シャプリエ法は「結社の自由」の保障を欠く憲法のもとで使用者・労働者の「結社」=「団結」を禁止するもので、のちにマルクスは『資本論』の中で労働者弾圧法として批判したらしいが、樋口は「結社から自由な」「個人」を「力ずくでつくり出す歴史過程」をえがき出したものとして「再読されるべき」だ、とマルクス(・資本論)の叙述を擁護(又はマルクスのために釈明?)している(p.185、同旨-樋口陽一・一語の辞典/人権(三省堂、1996)p.43)。
⑤樋口は1989年9月のシンポ報告の最後にこう述べたらしい。まず、そのまま引用する。
「憲法研究者=立憲主義者は、おそるべき、しかし高貴な任務を課されている。その名に値しようとする憲法研究者=立憲主義者は、立憲主義―その起源は西欧にあるが、しかし、くり返すが、その価値は普遍的である―を擁護するためには、彼の、あるいは彼女のナショナル・アイデンティティから自分自身を切りはなすだけの、勇気とヴィジョンを持たなければならない」。
「立憲主義」なるものの「普遍」性も重大な問題だが、それよりも、「普遍的」な「立憲主義」を擁護するために、憲法学者は、自らの「ナショナル・アイデンティティ」を捨てる(「自分自身から切りはなす」)「勇気とヴィジョン」をもつ必要がある、と樋口は主張している。
これは、最近に触れた「ルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験」せよとの主張とともに、「おそるべき」主張だ。
日本人研究者の場合、日本国籍を捨ててフランスにでも帰化せよということでは勿論なく、形式上は日本国民であっても<日本人>たる「アイデンティティ」を捨てよ、と樋口は主張しているのだ。「立憲主義」をまだ実現できない日本と日本人を徹底的に批判し続けるためには、「日本」国民意識又は「日本人」意識は邪魔になる、ということだろうか。
なるほどこのようにして、朝日新聞のような<無国籍>新聞が生まれてくるのか、と思う。また、先の大戦下において心の祖国・ソヴィエトのために日本の敗戦を祈った形式上の「日本」人(当時の日本共産党員や尾崎秀実ら)がいたことも思い出すし、また、かかる思考経路は、西欧近代から継承した普遍的な?「戦後民主主義」を理由に日本の天皇からの(又は通じての)文化勲章受章を拒みつつ、他国の国王からはノーベル賞を受け取り、日本を批判する受賞講演をした大江健三郎のそれときわめて類似しているとも思う。
この発言も、樋口陽一の<歴史的>発言として、永く記憶されるべきだろう。
さて、樋口陽一はソ連・東欧諸国の解体後は微妙にかつ巧妙に叙述を変えたり(1991年以降の彼の本の中に「ルソー=ジャコバン型」という語は出てくるのだろうか?)、本質を衝けない論述をしているようだ。さらに回をあらためる。