新風舎破産→売れずゴミとして廃棄される在庫書籍500万冊→「よくもまあ、こんなに沢山の自費出版本」(「膨大な資源の浪費」)→「素人」が作文することを否定しないが「素人の作文を金を取って売ることを慨嘆」する(「素人の作文は、普通、金をつけて読んでいただくものだろう」)。
 以上のような論の運びを、産経新聞3/20のコラム「断」で呉智英がしている。
 振り返ってみると、昨年3/21に「呉智英には失望した。もうこの人の文章は読まないことにしたい」と書いていた。それ以後この人の本には見向きもしていないが、新聞紙上の文章にはつい目が行ってしまう。
 先週も呉智英の保守派への皮肉?を論理的でないと書いたばかりなので気が引けるが、上の文章の論理展開も少しおかしくはないか?
 呉智英は文末で「自己表現、自分史、文化センターの文章講座、自由で活発な出版制度…」の中に「愚かさと罪深さが潜んでいる」と書いている(そうとしか読めない)。
 この文章も含めていうと、このコラムが自費出版した(しようとした、しようとしている)「素人」を批判しているのは明らかだ。「素人」が作文するのはよいが「金を取って」売ろうなどと考えるな、と主張しているのだ(そのように読める)。
 かかる論旨は必ずしも適切とは思われない。上の根拠が新風舎破産→売れずゴミとして廃棄される在庫書籍500万冊・「膨大な資源の浪費」にあるのだとすれば、問題は新風舎倒産自体に原因があり、その経営・営業方針(勧誘の仕方・事後処理の仕方等々)に問題があったのだろうとまず批判すべきであって、その点には何も触れないで自費出版希望者に批判の矛先を向けるのは<お門違い>ではないか。
 むろん、簡単に有数書店の全てに自分の本が展示されるのを夢見るような、やや非常識と思われる「素人」もいる(いた)だろうが、「自費」を払って(自分史でも何でもよいが)自分を著者とする本を出版したいと思う(そして出版会社と契約した、又は契約しようとする)こと自体を非難するのは奇妙であり、むしろ誤っていると思われる。問題は、そのような需要を逆手に取って<商売>し、失敗する(した)又はもともと<悪徳な商売>をする(した)企業・業者側により多くあるのではないか。
 やはり呉智英はおかしい。自分は産経新聞社から原稿料を受けとる「玄人(くろうと)」であるつもりなのだろう。自らの「玄人」性を微塵も疑わずに「愚かさと罪深さ」をもつ(らしい)「素人」の自費出版希望者を揶揄するとは、相当に傲慢だ。
 産経新聞からの原稿料の一部は当然に産経新聞の読者が負担している。自費出版や「自己表現、自分史、文化センターの文章講座、自由で活発な出版制度」の現状を全面的に肯定しているわけでは全くない。だが、<玄人>然として、<素人>でも気づくような非論理的又は不適切な内容のコラムを書くのはやめていただきたい。