先週のいつ頃からだったか、二夜ほどで、佐伯啓思・人間は進歩してきたのか-「西欧近代」再考<現代文明論・上>(PHP新書、2003)の最初からp.168までを一気に読んだ。
 広いスパンだけに、むつかしくはない。だが、これは大学の全学共通科目(私の時代では「教養」科目)の講義を元にしてできた本のようで、当該科目を受講できた学生たちが羨ましい。自分も20歳前後にこんな内容の講義を(まじめに)聴いていれば、人生が変わったかも、と思ったりする。
 とりあえず、二点が印象に残る。
 第一に、何をもって、またいつ頃からを「近代」というかは問題だが、佐伯によると、中世=封建時代からただちに近代=自由・民主主義の時代に<発展>したわけではなく(ルネッサンス・「絶対王政」の時期が挟まる)、些か安易に一文だけ抜き出せば、「宗教改革という名のキリスト教の原理主義的回帰から、宗教から自立した近代的国家が成立し、世俗の領域が確立した」(p.81)。あえてさらに短縮すれば、宗教(神)から自立した世俗的国家・社会の成立こそが「近代」なのだ。
 これはむろん<ヨーロッパ(西欧)近代>のことで、かつ西欧でもフランス、イギリス、ドイツで異なる歴史的展開があったのだとすれば、<(ヨーロッパ)近代>の萌芽・成立・その後の「変化」を日本に当てはめるのは、キリスト教という宗教と<世俗>世界の対立・抗争に類似のものを日本は持たないことだけでも、もともと(よほどひどく単純化・抽象化しないかぎりは)不可能なことだろう。<進んでいる・遅れている>を論じても、-欧州「進歩」思想に全面的に同調しないかぎりは-無意味なのではないか。
 第二は、前回書いたことにかかわり、前回にすでに意識はしていたことなのだが、ルソーについてだ。
 ルソーについては前回も触れたが、中川八洋や阪本昌成の著書を参照しつつ、何度かその思想の中身に言及してきた。
 かつて自分がこの欄に書き記したことをほぼ失念しているが、佐伯啓思もほぼ同旨のことを(も)述べているように思う。以下、適当に要約的に引用する。
 ①万人が争う「自然状態」をなくして「自己の保存」(個人の生命・財産の安全確保)のために<契約>して「国家」ができるとするホッブズの矛盾・弱点-個人・市民と主権者・国家が乖離し後者が前者を抑圧するという可能性-を「論理的に解決」する考え方を示したのがルソーだ(p.115-6、p.119)。
 ②「近代」社会の合理性・理性主義を肯定し、「自由や平等に向けた社会改革」を支持するのが「啓蒙思想」だとすると、ルソーは(啓蒙主義者・啓蒙思想家としばしば称されるが)「啓蒙主義に対する敵対者」だった(p.119)。
 ③ルソーを啓蒙主義者の代表者にしたのは彼の著書『社会契約論』だが、この本の理解は容易でない。
 1.ホッブズと同様、「生命・財産の安全を確保するための契約」を結ぶ。但し、ホッブズの「契約」だと市民は国家・主権者に「結局、…服従」してしまうので、人間が「本来自然状態でもっていた基本的な自由」を失わず、「自分が何者かに決して従属しない」契約にする必要がある(とルソーは説く)。
 2.どうすればよいのか。「唯一の答えは、すべての人が主権者になるような契約」を行うことだ。これは、換言すると、「すべての者が従属者」でもある、ということ。この部分のルソーの叙述はわかりにくい。
 3.このわかりにくさの解消のために持ち出した「非常に重要な概念」が「一般意思」(p.121-3)。
 ④1.「一般意思」とは「すべての人が共通にもっているような意思(あるいは利害・関心)」。かかる「意思」を軸にして全ての人が結合でき、一つの「共同社会」ができる。この共同体は「すべての人が共通にもっている利害や関心を実現し、またそれを焦点にすることで形成される」。
 2.とすると、「共同体の意思」と「一人ひとりの人間」の「意思」は「同じはず」。「一般意思」による「共同体」形成により「個人の意思、利益、関心と社会の意思、利益、関心とは完全に一致する」。
 3.人はたしかに「共同体にすべて委ねてしまう」が、共同体に「従属」しはせず、むしろ「委ねる」ことにより自分の意思・利益を「いっそう有効に実現」できる。
 くり返せば、人がその生命・身体・全ての力を「共同体に委ね」、身体・全ての力を「共同のものとして、一般意思の最高の指導のもとに置く」。「自分自身を共同体に委ねてしまうことによって、逆に共同体の全体の力を、自分自身のものとして受け取ることができる」(p.123-4)。
 以上が、人は「自らが主権者であり、また服従者だ」ということの意味。 
 ⑤1.「一般意思」とは、個人の個々の関心の調整で生じるのではない、「もっと崇高」で「もっと根源的なもの」。
 もっとも基本的なものは「共同防衛」、「共同で自分たちの生命・財産を防衛すること」。
 2.共同防衛が「一般意思」ならば、人は「一度、全面的に一般意思に服」する必要がある。ルソーいわく、「共同体の構成員は…自己を共同体に与える。…彼自身と…彼のすべての力を、現にあるがままの状態で与える」。
 3.(佐伯は言う)「これはたいへんな話です」。「一般意思の実現のためには共同体に命を預けなければならない」。
 ルソーいわく、<統治者が国家のために死ねと言えば、市民は死ななければならない>。
 4.(佐伯は言う)上の2.3.のような面は「従来の政治思想史のなかでは…故意に触れられずにき」た。だが、かかる重要な点を欠いては、ルソーの社会契約論、つまり、「人々が契約によって社会状態に入り、なおかつ主権を維持するという論理は生まれえない」(p.125-8)。
 (以下にこそ本当は引用したかった部分が続くのだが、長くなりそうなので(すでに長いので)、結論的な叙述のみ引用しておく。)
 ⑥1.「一般意思」は事実上「人民(又は国民)の意思」に置換される。「『人民の意思』を名乗った者はすべてが許されます。彼に反対する者は『人民の敵』となるわけで、『人民の敵』という名のもとに反対者はすべて抹殺されてしまう」。「代表者に敵対する者は一般意思に対する裏切り者」で「共同社会に対する裏切り者」となる。「これは、独裁政治であり全体主義です」。
 2.「つまり、ルソーの論理を具体的なかたちで突き詰め現実化すると、まず間違いなく独裁政治、全体主義へと行き着かざるをえない。根源的民主主義は、それを現実化しようとすると、全体主義へと帰着してしまう」。
 3.「現にそれをやったのがフランス革命でした。フランス革命は。…ルソーの考え方をモデルにして行われた…。ルソーの最大の賛美者であり、徹底したロベスピエールは、まさに、自らが『人民の意思』を代表すると考え、人民の敵…といわれる者をすべて抹殺していく。いわゆるジャコバン独裁、恐怖政治に陥る」(p.134-5)。
 とりあえず以上。ルソーはフランス革命そして「近代」や「民主主義」の父などというよりも、ファシズムや社会主義(・共産主義)を用意した理論・思想を自らのうちに胚胎させていたのではなかろうか。
 ルソーがいなければマルクスも(そしてマルクスがいなければレーニンも)いなかった。中川八洋も同旨のことを繰り返し述べていたように記憶する。
 このように見ると、フランス革命を「学んだ」ポル・ポトらが「社会主義」の名のもとで自国民の大量虐殺を行ったのも何ら不思議ではない。と述べて、前回からのつなぎの意味も込めておく。