「個人の尊重」はけっこうなことで「個人主義」もそれ自体は問題はないかにも見える。自立した個人と自分自身を理解しているかもしれない憲法学者の中には、<欧米と比べてまだ劣る>、自立した個人たる意識・主体性のない日本国民を(高踏的に)叱咤激励したい気分の者もいるかもしれない。このことは、前回も書き、もっと前にも触れた。
またかかる<個人>の位置づけは、当然に<国家>という「共同体」と対峙する(場合によっては<対決する>)<国家から自由>な<個人>というものを想定し、前提にしているだろう。
かかる<個人>のイメージははたして適切なのだろうか。
佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)には引用・紹介したい部分が多すぎるのだが、ずばり「「個人」と「共同体」は対立しない」との見出しから始まる部分(p.95-)を以下に要約して、紹介してみる。
「個人」・「個的なもの」は農村、家族、国家といった「共同体」と対立するもので相容れない、という理解は近代諸科学から「社会主義運動までを貫くモチーフ」だった。その背景の一つにはマックス・ウェーバーの「薄められたマルクス主義」としての<近代化論>があった。「共同体からの個人の解放が自我の確立である、というような思考様式」が教条化し、「呪術的」な権威をもった(p.95-96)。
だが、かかる思考様式は「もはやほとんど有効性を失っている」。次の「二重の意味」においてだ。
第一に、家族・村落共同体からの「個人」の解放は進展しすぎているほどで、一方、「自我の確立した主体的個人」が出現してはおらず、「「近代的自我」なるものは衰弱している」。そもそも、一切の「共同体」から解放された「個」というのは「あまりに強引なフィクション」だ(p.96-97)。
「共同体」の解体によって「個」は「一切の価値体系や規範のルールから切り離される」。そのことに「近代」人は「自由の意味」を見い出し、「近代化」とは「個人の自由の拡大」だと考えた(p.97)。
しかし、「価値や規範・ルールから切り離された個人」なるものは「不便でかついびつなもの」に帰結する。大勢の「個人」の自由の衝突・確執を調整する、「共有されうる価値の再確認」が必要で、これは「共同体」の再確認を意味する。「個人の自由」とは「その自由の範囲や様式を定める共有された価値、規範」を前提とするのだ。この「価値、規範」を誰かが強引に決めないとすれば、それは「歴史的に生成する」ほかはなく、まさに「共同体」の形成だ(p.97)。
「家父長的、封建的社会」ならば個人と共同体は対立しうるが、現代日本では、「共同体」と「個人的自由」を対立させることは「さして意味をもたない」(p.97-98)。
現代日本での「個人の自立」という「不安定な持ち場」からの「共同体」批判は、「個人」自体をいっそう「不安定」にし、それを「空中分解」させるだろう。「個人性」は「共同性」を「離れてはありえない」のだ(p.98)。
第二に、現代社会では「共同性」は解体されておらず、逆に個人は無意識に「共同性の罠の中に捕らわれて」いきつつある。「個の確立」の主題化、意見・思想の方向性の形成自体が「ある種の共同性」を前提とし、それを作出している。「個の確立」という記号による主題化が「メディア的媒体を通す限り、ある種の共同体がいやおうなく、…作動する」(p.98)。
現代社会とは「メディアによる共同化作用が絶え間なく生じている社会」だ。共同体の解体・個人の主体化という議論自体が「メディアを媒介に主題化」されると、「この議論をめぐる共同化された言説空間」ができてしまう。
なぜなら、一つに、議論自体の成立が、日本語という表現手段による、「日本社会の歴史的、文化的文脈」の共有を必要とする。ここでは、議論できるグループ・階層という「共同体」が実際には想定されているのだ。
さらに、かかる主題化自体が「共同化」作用をもつ。「何の相互につながりもない人が共通の主題のもとで一定の思考の規範を共有する」に至るから。人々はかくして、「私」の、ではなく、「われわれ」の「共同体からの解放」を問題にしだすのだ(以上、p.99)。
メディアが議論をマーケットの極限まで拡散すれば、「われわれ」とは「国民」に他ならなくなる。ここで、「国民」という「共同体」の「不可避性」という新たな問題に到達する。
以上のように、「個人の確立」が「戦後日本社会の課題」だとの「表現そのもの」が、「日本という共同体の文脈を前提に提起されている」のだ(以上、p.100)。
このあと、佐伯の論述は「メディア的環境とそれが拡散する市場世界が生み出す新たな共同体」(p.101)から、さらに「国家」という「共同体」へと進み(p.111~)、「国家」と「個人」の単純な対立視を批判し(p.111の「国家とは…、『わたし』と『他者』がおりなす応答の慣習化された体系」だとの定義からすれば、「個人」は国家の一部または国家を前提にしてこそ存在しうるものだ)、「国家への深いシニシズムや「反国家主義」が横行」(p.122)していることの分析・批判等がなされているが、紹介はこの程度にとどめる。
樋口陽一や井上ひさしの「個人」観又はそれに関する議論と十分に噛み合ってはいないだろう。だが、佐伯啓思の議論を読んでいると、樋口陽一や井上ひさし、そして多くの憲法学者が想定しているようにも思われる、「個人」・「社会」・「国家」観が―専門分野の違いに帰することはできないと見られるほど―いかに単純・素朴(そして幼稚)であるかが分かるように感じる。
多くの憲法学者は文献を通じて<頭の中>でだけ、単純なイメージを<妄想>しているのではないか。自分自身を含む<現実>・<実態>をふまえて、かつより緻密な理論を展開してもらいものだ。
なお、立ち入らないが、佐伯啓思の議論の中に<マスメディア>が「共同体」にとっての重要な要素として登場してきているのは興味深い。<マスメディア>論にも関心を持ち続ける。
またかかる<個人>の位置づけは、当然に<国家>という「共同体」と対峙する(場合によっては<対決する>)<国家から自由>な<個人>というものを想定し、前提にしているだろう。
かかる<個人>のイメージははたして適切なのだろうか。
佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)には引用・紹介したい部分が多すぎるのだが、ずばり「「個人」と「共同体」は対立しない」との見出しから始まる部分(p.95-)を以下に要約して、紹介してみる。
「個人」・「個的なもの」は農村、家族、国家といった「共同体」と対立するもので相容れない、という理解は近代諸科学から「社会主義運動までを貫くモチーフ」だった。その背景の一つにはマックス・ウェーバーの「薄められたマルクス主義」としての<近代化論>があった。「共同体からの個人の解放が自我の確立である、というような思考様式」が教条化し、「呪術的」な権威をもった(p.95-96)。
だが、かかる思考様式は「もはやほとんど有効性を失っている」。次の「二重の意味」においてだ。
第一に、家族・村落共同体からの「個人」の解放は進展しすぎているほどで、一方、「自我の確立した主体的個人」が出現してはおらず、「「近代的自我」なるものは衰弱している」。そもそも、一切の「共同体」から解放された「個」というのは「あまりに強引なフィクション」だ(p.96-97)。
「共同体」の解体によって「個」は「一切の価値体系や規範のルールから切り離される」。そのことに「近代」人は「自由の意味」を見い出し、「近代化」とは「個人の自由の拡大」だと考えた(p.97)。
しかし、「価値や規範・ルールから切り離された個人」なるものは「不便でかついびつなもの」に帰結する。大勢の「個人」の自由の衝突・確執を調整する、「共有されうる価値の再確認」が必要で、これは「共同体」の再確認を意味する。「個人の自由」とは「その自由の範囲や様式を定める共有された価値、規範」を前提とするのだ。この「価値、規範」を誰かが強引に決めないとすれば、それは「歴史的に生成する」ほかはなく、まさに「共同体」の形成だ(p.97)。
「家父長的、封建的社会」ならば個人と共同体は対立しうるが、現代日本では、「共同体」と「個人的自由」を対立させることは「さして意味をもたない」(p.97-98)。
現代日本での「個人の自立」という「不安定な持ち場」からの「共同体」批判は、「個人」自体をいっそう「不安定」にし、それを「空中分解」させるだろう。「個人性」は「共同性」を「離れてはありえない」のだ(p.98)。
第二に、現代社会では「共同性」は解体されておらず、逆に個人は無意識に「共同性の罠の中に捕らわれて」いきつつある。「個の確立」の主題化、意見・思想の方向性の形成自体が「ある種の共同性」を前提とし、それを作出している。「個の確立」という記号による主題化が「メディア的媒体を通す限り、ある種の共同体がいやおうなく、…作動する」(p.98)。
現代社会とは「メディアによる共同化作用が絶え間なく生じている社会」だ。共同体の解体・個人の主体化という議論自体が「メディアを媒介に主題化」されると、「この議論をめぐる共同化された言説空間」ができてしまう。
なぜなら、一つに、議論自体の成立が、日本語という表現手段による、「日本社会の歴史的、文化的文脈」の共有を必要とする。ここでは、議論できるグループ・階層という「共同体」が実際には想定されているのだ。
さらに、かかる主題化自体が「共同化」作用をもつ。「何の相互につながりもない人が共通の主題のもとで一定の思考の規範を共有する」に至るから。人々はかくして、「私」の、ではなく、「われわれ」の「共同体からの解放」を問題にしだすのだ(以上、p.99)。
メディアが議論をマーケットの極限まで拡散すれば、「われわれ」とは「国民」に他ならなくなる。ここで、「国民」という「共同体」の「不可避性」という新たな問題に到達する。
以上のように、「個人の確立」が「戦後日本社会の課題」だとの「表現そのもの」が、「日本という共同体の文脈を前提に提起されている」のだ(以上、p.100)。
このあと、佐伯の論述は「メディア的環境とそれが拡散する市場世界が生み出す新たな共同体」(p.101)から、さらに「国家」という「共同体」へと進み(p.111~)、「国家」と「個人」の単純な対立視を批判し(p.111の「国家とは…、『わたし』と『他者』がおりなす応答の慣習化された体系」だとの定義からすれば、「個人」は国家の一部または国家を前提にしてこそ存在しうるものだ)、「国家への深いシニシズムや「反国家主義」が横行」(p.122)していることの分析・批判等がなされているが、紹介はこの程度にとどめる。
樋口陽一や井上ひさしの「個人」観又はそれに関する議論と十分に噛み合ってはいないだろう。だが、佐伯啓思の議論を読んでいると、樋口陽一や井上ひさし、そして多くの憲法学者が想定しているようにも思われる、「個人」・「社会」・「国家」観が―専門分野の違いに帰することはできないと見られるほど―いかに単純・素朴(そして幼稚)であるかが分かるように感じる。
多くの憲法学者は文献を通じて<頭の中>でだけ、単純なイメージを<妄想>しているのではないか。自分自身を含む<現実>・<実態>をふまえて、かつより緻密な理論を展開してもらいものだ。
なお、立ち入らないが、佐伯啓思の議論の中に<マスメディア>が「共同体」にとっての重要な要素として登場してきているのは興味深い。<マスメディア>論にも関心を持ち続ける。