いつから読み始めたのかは記録していないが、一昨日に、水谷三公・丸山真男―ある時代の肖像(ちくま新書、2004.08)を面白く読了した。
丸山真男(1914~1996)については、竹内洋・丸山真男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム(中公新書、2005.11)もたぶん昨年中に読了していて、今はどの箇所だったか確認できないが(ひょっとして竹内洋の別の本だっただろうか?)、丸山真男の名はいずれ東京大学の当該分野(政治思想史)の専攻者あたりにのみ記憶されるようになるだろう(つまり世間一般・論壇一般には忘れ去られるだろう)という旨の叙述が、そのとおりだろうな、という感覚を伴って、印象に残った。
竹内の上掲書を再び手に持って中を見てみると、とりあえず、第一に、丸山真男逝去後の記事の数は、朝日8、毎日6、読売4、日経2、産経2だったというのはなかなか興味深いし(p.10-11)、第二に、丸山は大学教授というよりも東大教授という「特権」(または他の大学教授・一般大衆とは違うという)意識を持っていた、との指摘(p.297)も興味深い。
さて、水谷三公・丸山真男(ちくま新書)は、竹内著に比べれば、丸山真男「理論」又は「思索」を内在的に論じたものだ。これは竹内と違って水谷三公には丸山真男の「謦咳に接した」経験があり、「丸山先生」と書く箇所もあるように、丸山から指導をうける立場にあったことによるところが大きいだろう。
そして、水谷は「脱線と愚痴のごった煮」(p.61、p.309)と謙遜?し、たびたび「パリサイの徒」(と批判される)かも知れぬが、と挿入してもいる。
だが、表面的にはともかく、この水谷の本は「丸山も誤った」ことを前提にして、「何について誤ったのか、なぜそうなったのか、いつそれに気づき、どう考えたのか」(p.17)を内在的に丸山真男の著書・対談等を素材に考察したもので、私の見方によれば、丸山真男全面批判の書だ。そして、水谷は大仰には書いてはいないが、丸山真男に対する<勝利宣言>の書だ、凱歌を奏でる書だ、と私は感じた。
逐一の紹介、丁寧な引用はしないが、水谷には朝鮮戦争に関して北朝鮮に批判的発言をして「反動」扱いされた等の、丸山真男を取り巻く「進歩的」研究者から批判又は蔑視されたような体験があるらしい。
そのような<原体験>からすると、<正しかったのはどっちだったのだ!>と言いたくなる気分もよく分かる(このように露骨に書いているわけではない)。
ともあれ、丸山真男は簡単に言えば、戦後も生じるかもしれない日本「ファシズム」よりもコミュニズムを選択(選好)した大学人・知識人だった。<反・反共主義>だ。
彼は日本共産党からのちに批判されたように(党員グループによる批判書もある-土井洋彦・足立正恒らの共著(新日本出版社))、日本共産党員ではなくマルクス主義者とも言えなかったかもしれないが、しかし、戦後の自民党が代表するような(と彼には見えた)軍国主義・ファシズム的あるいは保守・反動的傾向よりは、まだ社会主義・共産主義の方がマシだ、と考えていた人物だ。
このコミュニズムに対する「甘さ」。丸山真男に限らないが、これこそ丸山真男の致命的欠点であり、有名ではあっても歴史的には「悪名」としてその名を残すことになるだろうと私は考える原因だ。
日本共産党員あるいは明瞭なマルクス主義者でなかったことは、却って一般国民あるいは論壇の読者を安心させ、彼が政治的には支持していた(に違いない)日本社会党(統一前は左派)等の「左翼」・「進歩」勢力の増大化のために貢献する、という役割を果たしたと思われる。
水谷によれば、丸山真男は晩年も「社会主義」選好を捨ててはおらず、ソ連崩壊とマルクス主義敗北を同一視するような日本の世論?に対して憤っていた、という。崩壊後になってソ連は「真の」社会主義国ではなかったとする日本共産党の考え方とまるで同じだ。
だが、丸山真男は本当に歴史が「社会主義」の方向に「発展」していくことを死ぬまで信じていた、あるいは期待していたのだろうか。
推測するに、いつかの時点で、あゝ自分が若いときに考えていたこと、「見通し」は誤っていた、と深刻に感じ入ったときがあったのではなかろうか。
理由らしきものをあえて挙げれば、1970年前後の丸山真男の発言の少なさだ。
この当時(私は大学生だったが)、丸山真男はもはや「過去の人」だった。社会党はどちらかというと全共闘系学生を支持していたように見えたが、丸山は全共闘系を支持する文章を書かなかったはずだし、当時の時代状況のもとでの政治的発言をほとんどしなかったのではないか。なぜだろう。
70年代には、丸山真男はかつての自分の認識・理解・予想・「見通し」が誤っていたことに気づいていたのではないか。
丸山真男の全集はかなり揃えたので、彼の時代ごとの政治的論稿を容易に読める。いずれ、この欄でも紹介して、この「戦後民主主義」者の幼稚さ、短絡さ、<思い込み>の例を指摘することにしよう。
水谷は丸山真男の全集・対談集・書簡集を素材にしているが、これらを出版しているのは岩波書店。さすが、と言うべきか、やはり、と言うべきか。
こんな人の全集等を出版しておく意味はない、と私には思える。だが、昭和戦後の一時期の<進歩的文化人・知識人>がどんな主張をしていたのかを容易に知る(そして嗤い飛ばせる)ことができる、という意味においては、出版物としてまとめておく歴史的意義があるだろう。
丸山真男(1914~1996)については、竹内洋・丸山真男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム(中公新書、2005.11)もたぶん昨年中に読了していて、今はどの箇所だったか確認できないが(ひょっとして竹内洋の別の本だっただろうか?)、丸山真男の名はいずれ東京大学の当該分野(政治思想史)の専攻者あたりにのみ記憶されるようになるだろう(つまり世間一般・論壇一般には忘れ去られるだろう)という旨の叙述が、そのとおりだろうな、という感覚を伴って、印象に残った。
竹内の上掲書を再び手に持って中を見てみると、とりあえず、第一に、丸山真男逝去後の記事の数は、朝日8、毎日6、読売4、日経2、産経2だったというのはなかなか興味深いし(p.10-11)、第二に、丸山は大学教授というよりも東大教授という「特権」(または他の大学教授・一般大衆とは違うという)意識を持っていた、との指摘(p.297)も興味深い。
さて、水谷三公・丸山真男(ちくま新書)は、竹内著に比べれば、丸山真男「理論」又は「思索」を内在的に論じたものだ。これは竹内と違って水谷三公には丸山真男の「謦咳に接した」経験があり、「丸山先生」と書く箇所もあるように、丸山から指導をうける立場にあったことによるところが大きいだろう。
そして、水谷は「脱線と愚痴のごった煮」(p.61、p.309)と謙遜?し、たびたび「パリサイの徒」(と批判される)かも知れぬが、と挿入してもいる。
だが、表面的にはともかく、この水谷の本は「丸山も誤った」ことを前提にして、「何について誤ったのか、なぜそうなったのか、いつそれに気づき、どう考えたのか」(p.17)を内在的に丸山真男の著書・対談等を素材に考察したもので、私の見方によれば、丸山真男全面批判の書だ。そして、水谷は大仰には書いてはいないが、丸山真男に対する<勝利宣言>の書だ、凱歌を奏でる書だ、と私は感じた。
逐一の紹介、丁寧な引用はしないが、水谷には朝鮮戦争に関して北朝鮮に批判的発言をして「反動」扱いされた等の、丸山真男を取り巻く「進歩的」研究者から批判又は蔑視されたような体験があるらしい。
そのような<原体験>からすると、<正しかったのはどっちだったのだ!>と言いたくなる気分もよく分かる(このように露骨に書いているわけではない)。
ともあれ、丸山真男は簡単に言えば、戦後も生じるかもしれない日本「ファシズム」よりもコミュニズムを選択(選好)した大学人・知識人だった。<反・反共主義>だ。
彼は日本共産党からのちに批判されたように(党員グループによる批判書もある-土井洋彦・足立正恒らの共著(新日本出版社))、日本共産党員ではなくマルクス主義者とも言えなかったかもしれないが、しかし、戦後の自民党が代表するような(と彼には見えた)軍国主義・ファシズム的あるいは保守・反動的傾向よりは、まだ社会主義・共産主義の方がマシだ、と考えていた人物だ。
このコミュニズムに対する「甘さ」。丸山真男に限らないが、これこそ丸山真男の致命的欠点であり、有名ではあっても歴史的には「悪名」としてその名を残すことになるだろうと私は考える原因だ。
日本共産党員あるいは明瞭なマルクス主義者でなかったことは、却って一般国民あるいは論壇の読者を安心させ、彼が政治的には支持していた(に違いない)日本社会党(統一前は左派)等の「左翼」・「進歩」勢力の増大化のために貢献する、という役割を果たしたと思われる。
水谷によれば、丸山真男は晩年も「社会主義」選好を捨ててはおらず、ソ連崩壊とマルクス主義敗北を同一視するような日本の世論?に対して憤っていた、という。崩壊後になってソ連は「真の」社会主義国ではなかったとする日本共産党の考え方とまるで同じだ。
だが、丸山真男は本当に歴史が「社会主義」の方向に「発展」していくことを死ぬまで信じていた、あるいは期待していたのだろうか。
推測するに、いつかの時点で、あゝ自分が若いときに考えていたこと、「見通し」は誤っていた、と深刻に感じ入ったときがあったのではなかろうか。
理由らしきものをあえて挙げれば、1970年前後の丸山真男の発言の少なさだ。
この当時(私は大学生だったが)、丸山真男はもはや「過去の人」だった。社会党はどちらかというと全共闘系学生を支持していたように見えたが、丸山は全共闘系を支持する文章を書かなかったはずだし、当時の時代状況のもとでの政治的発言をほとんどしなかったのではないか。なぜだろう。
70年代には、丸山真男はかつての自分の認識・理解・予想・「見通し」が誤っていたことに気づいていたのではないか。
丸山真男の全集はかなり揃えたので、彼の時代ごとの政治的論稿を容易に読める。いずれ、この欄でも紹介して、この「戦後民主主義」者の幼稚さ、短絡さ、<思い込み>の例を指摘することにしよう。
水谷は丸山真男の全集・対談集・書簡集を素材にしているが、これらを出版しているのは岩波書店。さすが、と言うべきか、やはり、と言うべきか。
こんな人の全集等を出版しておく意味はない、と私には思える。だが、昭和戦後の一時期の<進歩的文化人・知識人>がどんな主張をしていたのかを容易に知る(そして嗤い飛ばせる)ことができる、という意味においては、出版物としてまとめておく歴史的意義があるだろう。