低レベルの、質の悪い文章を読んでしまった。
産経新聞10/31夕刊に掲載された、武田徹(1958~)の、随筆もどきの、(小)論文とはとてもいえない、<複眼鏡>欄、「「市民」という言葉―安易な使用・自らの不遇招く」だ。
「「市民」という言葉」は彼の記した原題で、あとは編集部で加えたのだろうか。おかげで、表向きは<立派そうな>コラムらしく見えてはいるが…。
一 そもそも論旨・結論(主張したいこと)はいったい何か。自然人(市民)と国民、あるいは理想主義と現実主義の使い分けを日本国憲法草案はどう考え、戦後日本はどう受け入れたののかを「改めて検討してみる価値があるのではないか」、ということのようだ。
せっかくの狭くはない紙面を使って、…との問題を「改めて検討してみる価値があるのではないか」、で終わらせることで原稿料を貰える(稼げる)とは、ラクな商売だ(いくら稼いだのかは知らないが)。
そんな課題設定、問題提起をするヒマがあるくらいなら、自分の考えを正面から試論でもいいから述べ、主張したらどうか。こんな問題もあると思うよ、とだけ書いて「ジャーナリスト」と名乗れるのだろうか。
二 上記の問題設定(「改めて検討してみる価値があるのではないか」)に至る論述も論理関係が曖昧なところがあり、そもそもの事実認識または評価にも奇妙なところがある。アト・ランダムに書いておこう。
1 ベアーテ・シロタの講演への言及で始めて、再び言及して原稿を終えている。いちいち典拠を確認しないが、ベアーテ・シロタは法学部出身でもないタイピスト(?)だが日本語能力のおかげでGHQ草案作りに<愛用>された、かつ親コミュニズムでソ連憲法の条文の字面だけを見て、その「家族」または「男女対等」に関する条項に憧れ、日本国憲法草案(の原案)の一部を書いた人物だ(現二四条等につながった)。
武田はいう。彼女は「日本女性の地位確立の道を切り開いた」、と。どう評価しようと自由だが、日本国憲法の制定過程に詳しく、かつその内容に批判的な人々にとっては、ベアーテ・シロタとはマルクス主義的・「左翼的」人物で戦後日本に悪影響を与えたとの評価を受けている人物なのだ。
武田徹は、上のことを知っていて、敢えて書いているのだろうか。だとすれば、そのようなフェミニストと同様の評価を「産経」に書くとは勇気があるし、そのようなことを書かせる産経の編集部の無知加減か又は「勇気」に驚く。
武田が上のことを知らないとすれば、あまりに無知で、勉強不足だ。
2 日本国憲法に「国民」を権利享有主体とする条項と「何ぴと」にも権利(人権)を認める条項があるのは、ほとんど自明の、常識的なことだ。
だからどうだと武田はいいたいのだろうか。<使い分け>を問題にしつつ、具体的に自らの見解・主張を述べている論点はない。外国人の雇用問題について何やら述べているが、結局は、<ある程度の痛み分けをしつつ相互に納得できる解決策を…>と書くにとどまる。こんな程度なら誰でも(私でも)書ける。
そもそもが、外国人の問題を、憲法一四条・平等原則レベルの問題として論じようとする感覚自体がおかしいと言うべきだろう。
確認しないし、詳細な知識はないが、いったいどこの国の憲法が、自国民と自国籍を有しない者(外国人)をすべての点について<平等に>取扱うなどと宣言して(規定して)いるだろうか。そんな馬鹿な<国家>はないはずだ。
武田はいったんまるで平等保障の対象に外国人を含める方が<進歩的>であるかのごとき書き方をしているが、その「いったん」の出発点自体に奇妙さがある。この人は、朝日新聞的<地球市民>感覚に染まっているのだろうか。
かりに万が一上のような憲法条項があったとしても<合理的な区別>まで平等原則は禁止するものではないから、やはり外国人の権利の有無の問題は残り(選挙権問題も当然に含む)、よくても法律レベル、「立法政策」の問題になるのだ(「よくても」と書いたのは、外国人の選挙権付与は違憲で、法律レベルでも付与できない、との主張もありうるし、現にあるからだ)。
3 武田は「市民」という言葉の問題性に言及しているが、そんなことはあえて書くまでもない。読まされるまでもない。この人は、佐伯啓思・「市民」とは誰か-戦後民主主義を問いなおす(PHP新書、1997)という本を、-専門書ではなく容易に入手できるものだが-読んだことがあるのだろうか。
「「市民」という言葉」を問題にしようとして、上の佐伯著を知らない、読んでいないとすれば、あまりに無知で、勉強不足だろう。武田が書いていることくらいのことは、すでに多数の人が指摘している。また、武田は言及していないが、<左翼>団体(運動)が「市民」団体(運動)と朝日新聞等によって称されてきている、という奇妙さもすでに周知のことなのではないか。
4 それにしても、<市民・自然人-国民>の対置と<理想主義-現実主義>の対置をまるで対応しているかのごとく(つまり市民・自然人→理想主義、国民→現実主義)書いているのは、いつたいどういう感覚のゆえだろうか。こうした対応関係がなぜ成り立つのか。<思い込み>で物事を叙述してほしくないものだ。
5 武田はまた書く。「…抽象的なシンボルを多用した安倍政権」後の「福田政権は、今度こそ生活の実質に根を下ろした政策を打ち出して欲しいと願う」、とも。
こんな程度のことしか書けない人物が「ジャーナリスト」と名乗って、産経新聞に登場しているのだ。いよいよ世も末かと思いたくなる。
まさかと思うが、「毎月最終水曜日」掲載の「複眼鏡」の執筆者は当面、武田徹ってことはないだろうなぁ。読売と産経のどちらの定期購読を「切ろう」かと考えているところだが、10/31のような文章の武田の文を毎月見るのはご遠慮したいものだ。産経新聞編集局(文化部?)は武田徹のごときを使うべきではない。
三 石井政之編・文筆生活の現場(中公新書ラクレ、2004)に武田は登場しているが、武田は2003年に東京大学某センターの「特任教授」となり「ジャーナリスト養成講座」を担当しているらしい(p.46)。この程度の内容の文章しか書けない人物が「ジャーナリスト」を「養成」しているのだから、昨今の「ジャーナリスト」のレベルの高さ?が分かるような気がする。
ついでに。上の中公新書ラクレで編者の石井政之は、「武田さんは、哲学者ミシェル・フーコーの言説を引用しており、私は無学を恥じた」と書いている(p.45)。石井は相変わらずの舶来・洋物思想(というだけで「優れて」いると思う)崇拝者なのだろうか。
「ミシェル・フーコーの言説を引用」できなくて、何故、「無学を恥じ」る必要があるのか。同じことを、吉田松陰、福沢諭吉、徳富蘇峰等々の日本人についても、石井は語るのだろうか。
なお、中川八洋・保守主義の思想(PHP、2004)によると、フーコーはサルトルやマルクーゼ等とともに「日本を害する人間憎悪・伝統否定・自由破壊の思想家たち」の一人とされている(同書p.385)。
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