長部日出雄という作家が、邦画の昭和史(新潮新書、2007.07)p.33-34でいう。
60年安保闘争については「否定論」が「圧倒的に多いだろう」が、自分は、<あの…未曾有の大衆行動の広がりと高まりが、…憲法改正と本格的な再軍備を…無理だ、という判断を日米双方の政府に固めさせ、…ベトナム戦争にわが国が直接的に介入するのを防ぎ止めた>と考える、と。
歴史学者・政治学者ではないその意味で非専門的な「文化人」らしき者が簡単にこう書いてしまっているところにも、<戦後(民主主義)思想>の広がりと影響力を感じる。
1.何をもって、「否定論」と<肯定論>とを分けるのか。安保改定を許したという点では、否定も肯定もなく、60年安保(改定阻止)闘争は<敗北>だったのだ。
2.敗北でありながら<よく頑張った>というのは立花隆にも共通している。
そして、60年安保闘争の「広がりと高まり」が自民党・政府に憲法改正を諦めさせ、経済成長・低姿勢路線を歩ませたのだとすれば、それは日本にとって歴史的に大きな厄災だった。60年代に憲法改正、正確には九条改正・自衛軍保持明記がなされていれば、今日になお問題を残すことはなかった。
60年安保闘争の指導者たち、理論的支援者たちは、その後に日本社会党等の改憲反対勢力が国会で1/3以上の議席を占め続け、自主憲法の制定(占領体制からの基本的脱却)ができなかったことについて、歴史的に大きな責任を負うべきだ。当時の「全学連」の指導者たち(西部邁、唐牛某ら)、煽った知識人たち(清水幾太郎、丸山真男ら)も当然に入ってくる。
(なお、当時の自由民主党幹部にも大きな責任がある。)
長部はp.47で<あの頃、学生たちをデモに向かわせたのは、左翼思想だけでなく、戦争反対の強い危機意識だった>とも書く。
<左翼>イデオロギーにやられている人がここにもいる。60年安保闘争の中核にいたのは、<左翼>=マルクス主義者=ソ連等社会主義国支持者=日本を社会主義国にしたい者たち、だったのだ。
1934年生の長部もデモに参加したのだろうか。過去の自分の行動を美化・正当化したい気持ちがあるのだろう。だが、上に紹介のような認識は誤っている。左翼的=反戦平和=良きこと、というような「戦後思想」にズブズブに浸っている。
60年安保闘争については「否定論」が「圧倒的に多いだろう」が、自分は、<あの…未曾有の大衆行動の広がりと高まりが、…憲法改正と本格的な再軍備を…無理だ、という判断を日米双方の政府に固めさせ、…ベトナム戦争にわが国が直接的に介入するのを防ぎ止めた>と考える、と。
歴史学者・政治学者ではないその意味で非専門的な「文化人」らしき者が簡単にこう書いてしまっているところにも、<戦後(民主主義)思想>の広がりと影響力を感じる。
1.何をもって、「否定論」と<肯定論>とを分けるのか。安保改定を許したという点では、否定も肯定もなく、60年安保(改定阻止)闘争は<敗北>だったのだ。
2.敗北でありながら<よく頑張った>というのは立花隆にも共通している。
そして、60年安保闘争の「広がりと高まり」が自民党・政府に憲法改正を諦めさせ、経済成長・低姿勢路線を歩ませたのだとすれば、それは日本にとって歴史的に大きな厄災だった。60年代に憲法改正、正確には九条改正・自衛軍保持明記がなされていれば、今日になお問題を残すことはなかった。
60年安保闘争の指導者たち、理論的支援者たちは、その後に日本社会党等の改憲反対勢力が国会で1/3以上の議席を占め続け、自主憲法の制定(占領体制からの基本的脱却)ができなかったことについて、歴史的に大きな責任を負うべきだ。当時の「全学連」の指導者たち(西部邁、唐牛某ら)、煽った知識人たち(清水幾太郎、丸山真男ら)も当然に入ってくる。
(なお、当時の自由民主党幹部にも大きな責任がある。)
長部はp.47で<あの頃、学生たちをデモに向かわせたのは、左翼思想だけでなく、戦争反対の強い危機意識だった>とも書く。
<左翼>イデオロギーにやられている人がここにもいる。60年安保闘争の中核にいたのは、<左翼>=マルクス主義者=ソ連等社会主義国支持者=日本を社会主義国にしたい者たち、だったのだ。
1934年生の長部もデモに参加したのだろうか。過去の自分の行動を美化・正当化したい気持ちがあるのだろう。だが、上に紹介のような認識は誤っている。左翼的=反戦平和=良きこと、というような「戦後思想」にズブズブに浸っている。