フェミニズムは「家」における男による「女」の搾取を糾弾し子どもの利益よりも母親という「女」個人のそれを優先するもので、女性の立場からの戦後的「個人主義」の一つと見てよいだろう。
 宮崎哲弥・正義の見方(新潮OH文庫)p.25-26等は「父母のどっち側であれ、親の姓が終生つきまとう合理的な根拠とはいったい何か」と問いかけ、福島瑞穂を批判して夫婦別姓ではなく「家」と結びついた「姓氏全廃を叫ぶべき」と説いてる。
 「個人主義」を貫くならば、宮崎の言うとおり、なぜ「姓氏」又は「苗字」が必要なのか、という疑問が生じる筈だ。宮崎はさらに「個人主義の原則に立つ限り、人は、自ら決したただ一つの「名」で生きるべきではないか」とも書くが、この指摘は、とても鋭い。
 私は若かりし頃、親から引き継いだ又は与えられた氏名を18歳くらいで本人が変更する自由又は権利を認めることを「夢想」し、何かに書いたこともあった。「個人の尊厳」(憲法13条)というなら、個人の名前くらいは自分で選び又は決定できるべきだ、親が決めたものを一生名乗るべき合理的理由はない、と考えたからだ。いま再び構想すれば、18歳~20歳と期間を限って姓名の変更を認め、その旨を戸籍や住民基本台帳に反映させることとなる(中学卒業後の就職者は16歳まで下げてもよい)。
 だが、上のような主張は大勢の支持をおそらく得られないだろう。「個人主義」とは別に「家」又は「家族」という観念は-「戸主」を伴う戦前的家族制度と結合していなくとも-やはり残り続けているのだ(欧米でも、いやたぶんほぼ全世界でそうだ)。それは親-子という人間関係がある限り、永続する(すべき)ように思われる。
 話を変えるが、改正教育基本法は「家庭教育」にも言及している。昨年11月の某番組で、週刊金曜日編集者・九条の会賛同者の石坂啓(女性)は教育基本法改正前のタウンミーティング問題に関連して「家庭教育が大事だと思うと女性に言わせてましたね。これね、それもありだよなと一見異を唱える人はいらっしゃらないと思います。家も大事だし親御さんたちにも参加してもらって子供の教育を一生懸命にやりますよと見せかけていますが、私はその場にいると異を唱えると思います。というのは、そのように巧妙に(不明)ますが、結局は国が都合のよいように女性であったりお母さんであったり子供への役割というのをもっと色々と強いてくる法律なんです非常に危険だというか、根本から変わるんです、教育内容が。」とコメントしていた。  こんなことを平然とテレビでのたまうフェミニストがいるからこそ、日本の「教育」はおかしくなったのでないか、と思っている。