勝谷誠彦は<さるさる日記>の2006年12/12にこう書いていた。
 「私はこの国は小泉政権からタライの中を水がザブンザブンと行ったり来たりするようなメディアが囃すと馬鹿踊りが始まる衆愚政治時代に入ったと思っている。
 これを読んで一瞬に感じたのは、では小泉政権以前の時代は「衆愚政治時代」ではなかったのか、とっくに「衆愚政治」だったのではないか、ということだった。森首相、小渕首相、橋本首相…、どの時代であれ、民主主義とは極論すればつまりは衆愚政治のことではないのか。
 民主主義は衆愚政治に陥る危険があるという言い方もされるが、民主主義(デモクラシー)、すなわち直訳すれば大衆(民衆)支配政治(体制)とは、「大衆(民衆)」が全体として賢くなく愚かであれば、もともとの意味が「衆愚政治」のことなのだ。
 こんなことを書くのも、中川八洋・保守主義の哲学(PHP)の影響だろう。民主主義と平等主義とが結合するとき、「多数者の専制」(バークの語)となる。「多数者」の判断が誤っていれば、少数者にとっては我慢できない圧政となる。
 トクヴィルはこう言ったという。「デモクラシー政治の本質は、多数者の支配の絶対に存する」。また、中川によれば、デモクラシーを「専制」又は「暴政」と捉えるのは、「英米とくに米国では普通」のことだという。
 民主主義を最高の価値の如く理解している日本人も多いのかもしれないが、多数の(過半数の)者が支持した決定は相対的には合理的なことが多いだろうという程度のことにすぎず、少数者の判断の方がより合理的でより正しい可能性は客観的にはつねに残されている(何がより合理的でより正しいかを決定するのがそもそも困難なのだが)。
 民主主義という「多数者の専制」を排するために存在するのが、国民により「民主的」に選出された代表が構成する議会の「民主的」な決定(法律の制定等)も憲法には違反できないという意味で、憲法だ。
 憲法は民主主義と対立する、それを制約する価値を秘めてもいることを理解しておいてよいだろう。
 民主主義なるものを最高の価値の如く理解していけないのは、民主主義の名のもとに、「人民の名」による圧政が現実にあったし、今でもあることでも判る。社会主義・東ドイツの国名はドイツ「民主」共和国だったし、北朝鮮の国名は朝鮮「民主主義」人民共和国だ。
 民主主義と平等原理が結合するとき、容易に社会主義への途を開くことにもなる。日本共産党系の大衆団体が「民主」の名を冠していることが多いのも理由がある。民主主義文学者同盟(機関誌は「民主文学」?)、民主青年同盟(民青)、全国民主医療機関連合会(民医連)、民主商工会…。日本共産党が民主主義の徹底を通じて社会主義へという途を展望しているのは、周知のことだろう(日本共産党を支持する多数派の形成は容易に同党の「多数」の名による=「民主主義」の名による一党独裁を容認することになろう)。
 フォン・ハイエクの有名な著は隷従への道(東京創元社)だが、中川によると、このタイトルは「デモクラシーの全体主義への転換」を論じるトクヴィルの次の文章に由来するのだという(p.277)。
 「平等は、二つの傾向をうみ出す。第一の傾向は、…突然に無政府状態になることがある。第二の傾向は、…もっと人知れず、しかし確実な道を通って人々を隷従に導く」。
 なお、ここでの「隷従」状態とは、トクヴィルやハイエクにおいて、「全体主義」の支配を意味する。そして、「全体主義」とは共産主義又はファシズムのことだ。
 安倍首相が、「人権、自由、民主主義、法の支配」の<価値観外交>を進めてよいし、中国との関係では進めるべきなのだが、上の4つの全てについて、~とは何かという厳密な議論が必要であり、現に議論されてもきている。
 中川八洋の具体的な主張には賛成し難い点もあるのだが、読了まであと70頁ほどになった彼の本が、知的刺激に満ちていることは間違いない。