中川八洋・正統の哲学/異端の思想(1996)の次の読書のベースは、同・保守主義の哲学(PHP、2004)だ。すでに1月末に100頁以上読んでいたが、96年の上掲書を入手したので、年代的に古いその方に途中から切り替えて、前者は過日読み終えた。
 後者の保守主義の哲学は読了しておらず、全読了してから何かを書こうと思っていたのだが、引用・紹介したい部分が出てきた。
 カール・ポパーという人の名を、またこの人が反共産主義・保守主義の(中川によれば「バークとハイエクに次ぐ、偉大な功績を遺した」)思想家であることを、いかほどの日本人が知っているだろうか。
 科学方法論の分野でむしろ著名らしいが、中川によると1.(ヘーゲルの)弁証法批判、2.歴史(法則)主義批判、3.「全体主義」批判>共産主義批判の3点こそが、中核だ、という。
 ポパーはヘーゲル、コント、ミルそしてマルクスの思惟方法をhistoricism(「歴史(法則)主義」)と呼んで、『歴史(法則)主義の貧困』という本を1944年に刊行した。この本は翌1945年の『開かれた社会とその敵』および1958年の講演録「西洋は何を信じるか」とともに、代表作とされる。
 なぜか不思議にも卒然と引用・紹介したくなったのは、この本の次の「献詞」だ。
 「歴史的命運という峻厳な法則を信じたファシストやコミュニストの犠牲になった、あらゆる信条、国籍、民族に属する無数の男女への追憶に献ぐ。」(中川著p.236。「献ぐ」は「捧げる」と同じ意味だろう。)
 「犠牲になった」とは意図的にであれ結果的にであれ「殺戮」されたということを意味するのだろう。そうした「無数の男女」を想って、彼らのためにこの本を書いた、というのだ。
 1944年であれば、毛沢東の中国共産党の「犠牲」者はまだ少なかっただろう。それよりも、レーニン・スターリンのソ連「社会主義」への幻想がまだ強く存在していただろう。そういう時期に反ファシズムとともに反共産主義の立場を明確にしていたわけだ。
 そのことの偉大さもあるが、引用したくなったのは、「
コミュニストの犠牲になった、あらゆる信条、国籍、民族に属する無数の男女に想いを馳せたからに違いない
 
コミュニズム(共産主義、マルクス主義)のために、いったいなぜ多数の人々が生命を奪われなければならなかったのか。現在も某国や某国では続いているのだが、なぜこんな「悪魔の思想」のために貴重な生命が無為に奪われなければならないのか。
 死に至らなくとも、そして主観的には「幸福」で、主観的には「敵(=資本家階級・独占資本・帝国主義・反動勢力等)と闘った(闘っている)」と思っている人々も、客観的に見れば、無駄な、無為なエネルギーを、彼らのいう「闘い」や「運動」に注ぎ込んでいることは間違いない。一度しかない人生を、宗教の如き「ホラの大系」、宗教の如き「夢想的予言」を信じて送らなくてもよいではないか。
 本当は、日本共産党員をはじめとする共産主義「信奉」者全員に、早く今の「闘い」や「運動」から離れて、「組織」からも離れて、まっとうな、いや「ふつうの」生活をし人生を全うしてほしい、と呼びかけたい。ここでこんなこと書いても殆ど役に立たないことは解っているのだが…。
 繰り返せば、たった一度しかない、それも数十年間しかない人生を、「悪魔の思想」に取り憑かれて過ごしている人々は(日本にはまだまだたくさんいる)、残酷な言い方だろうが、本当に気の毒だ。やや感傷的にすらなってしまう。