L. コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流17章⑤,三節·経験批判論③。
 (07) 「取り込み」と「主調整」という二つの基本的な範疇を調和させるのは、実際には、困難だ。
 Introjection への批判は、余分な構成物である「主体」、および「主観的」存在と「客観的」存在の区別、を廃止することを意図していた。
 経験は、存在論的に中立的な領域として、残された。経験の「存在それ自体」との関係は、意味あるものとしては、考究することができない。
 認識論的な願望は放棄された。そして、科学は、存在論上の解釈が施されることなく、事実の諸問題を処理するために、残された。
 これは、Mach がこの問題を理解する仕方だった。
 しかしながら、かりに我々も「主調整」の理論を採用するとすれば、主体は、別の名称のもとで、分離した範疇として再登場する。経験においてその存在が不可避であることは、主体は知るものであって知られるものではない、ということを前提としてのみ理解することができる。―だが、Avenarius は、この前提を拒否する。
 かりに我々が彼の解釈のいずれの面も受容するとすれば、容易に行き着くところは、馬鹿々々しさ(absurdity)だ。事物と同じ基盤にある経験の構成要素である自己は、何らかの知り得ない理由で、全ての他の構成要素が出現する条件になる。
 このことが受け入れ難いのは、Avenarius が調整の「中心項」を人間の神経システムと同一視するときに、明瞭だ。―その結果、身体的客体である人間の神経システムは、他の全ての身体的存在の条件になる。
 Avenarius は、もちろん、この馬鹿げた結論を述べていない。しかし、彼の二つの基調が維持されるとすれば、いかにしてこのような結論を回避することができるのか、を理解するのは困難だ。
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 (08) Natrop やとくにフッサール(Husserl)の注意を惹いた第二の根本的な難点は、日常生活上の意味で正しいとされる科学的知識の承認と、認識上の価値に関する生理学(physiological)上の解釈の承認を結びつけた、ということだ。
 かりに、Avenarius が述べるように、真実は経験の一部ではなく、経験の第二次的な解釈だとすれば、科学的知識の全ての目的は、生物学上の有用性へと還元(reduce)される。
 このような純粋に実用的(pragmatic)な見方にもとづくとすれば、「正しい」(true)ことは、所与の条件のもとで受容することが有利(advantageous)であることだ。いくつかの「真実」は普遍的に有効であるかもしれないが、このことが意味するのは、その「真実」は、人間の種としての生活の変わらない特質である理由で、あらゆる状況のもとで有利だ、ということにすぎない。
 しかし、同時に、Avenarius は、知覚の生理学的な観察に、知識に関する彼の生物学的解釈を基礎づける。彼は、その観察を有効なもの、あるいは日常生活上の意味で「本当」だとして受け入れ、そうして、〈論点先取り〉(petitio principii)に陥っているように見える。
 それゆえに、フッサールは、こう論じる。「生物学的認識論」という全ての思想は、不可能だ、と。すなわち、我々が通常の意味で「本当」だと暗黙のうちに見なしている経験に関する一定の個別資料にもとづいては、全ての経験の意味を見出すことはできない。
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 (09) Avenarius は、それなくしては諸疑問が発生しない、不要な構築物である「主観性」を排除することによって、哲学上の伝統的な諸問題を破砕しようとした。
 しかし、彼の「主調整」の教理は、その試みを挫折させ、理論全体の中に多大の首尾一貫性の欠如を持ち込んだ。
 彼の批判が現実に達成したのは、そのために「主調整」の理論は必要なかったのだが、知覚状態から独立している客体の複写または表象で構成されている、そのような知覚の内容を処理することには克服し難い困難さがある、ということを示すことだった。
 彼の意図は、認識行為に、哲学的考察によって不鮮明になっていない、その「自然な」性格を復活させることだった。
 彼の見地によると、世界に関する「自然の」観念には、精神と物質の二元論は存在しない。また、認識は、事物の表象を精神的な容器の中に復活させる過程ではない。
 Introjection に対する批判は、何か新しいものの発見ではなく、世界についての幼稚で直接的な見方への回帰だ、ということを意味していた。この見方では、認識行為は、その本当の生物学的意味を回復することになる。そして、知的な経済の基本的諸原理とも合致する。
 Avenarius の見方では、Mach のそれと同様に、経済の原理は、Mauperyuis のような物理学の一般的法則ではなく、Spencer の哲学におけるように、人間の脳を含むいかなる生体機構も、最小限のエネルギーを消費して、その目的を達成するために行動する、ということを意味する。
 人間の思考の歴史全体が、このことを例証している。すなわち、いっそう全面化し一般化しつつ進行している知識の資本主義化、獲得した情報の記録と伝達についてのいっそうの効率化。
 全ての抽象的な思想は、こうした過程で用いられる道具だ。人間の演説や著作、科学の法則、数学の方法も、同じくそうだ。
 科学的法則は、個別の事実についての全ての詳細まで反映するとはされていない。しかし、生物学的な重要性をもつ現象にある周期的な側面を表現することができる。科学的法則は、事物を取扱う場合の努力を軽減する近道だ。
 「事物」、「実体」、「精神」(spirit)、「物質」のような形而上学上の諸範疇は、同じ活動の副産物だ。
 形而上学上の諸範疇は、経験のうちにある一定の相対的に永続的な諸性質の結合を表示する場合には、有用だ。しかし、言語に変えられるとき、我々の想像力は、それらを形而上学上の実体(entity)だと見なしがちだ。
 科学の任務は、経済の原理と一致させれば、そのような余計な構築物を除去して経験を浄化(purge)することだ。
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 ④へ。