L.コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流-第17章⑥。
 第三節/経験批判論②。
 (04) しかしながら、錯覚を除去しても、「認識という行為」(act of cognition)の問題を、解消するすることはできない。これは、通常の意味では、知るものと知られるものの間の区別を含む。
 これらの関係は、取り込み(introjection)の誤りとは別の観点から、明らかにされなければならない。
 Introjection に対する批判は、Avanarius の思想の否定的な側面だ。これに対応する積極的な側面は、「主調整」(principal co-ordination)という思想だ。
 私の経験の内容は、事物、他の人々、そして私自身を、含んでいる。私が直接に経験する自己(self)は、事物と同じように存在している。換言すると、知るものではなく、知られるものとして、存在する。
 自己は、事物を事物自体の複写物に変える主観的な「内部」ではない。
 同時に、自己は、経験の相対的に永続的な部分として、経験の中に動かし得ないものとして存在する。
 そして、「主調整」とは、経験の「項」(term)と「反対項」(counter-term)の永続的な連結(conjunction)を指すために付与された名称だ。これらは等価であって、他者には、どちらも「優先的」ではなく、結合されている。
 「中心項」(central term)は、別々の各人間であり、「反対項」、すなわち経験の客体と従前は呼ばれたものは、数の上では、中心項のいかなる数とも同一だ。
 言い換えると、異なる人々は、同じ客体を知覚する。反対項は「主体」(subjective)の数と一致するのであり、それよりも増えることはない。そして、このことこそが、認識論的観念論を否定する。
 我々はまた、観念論や唯我論(solipsism)の可能性を排除することによって、現象の背後に隠れている「事物それ自体」の問題も、排斥する。なぜなら、このことは、「所与のもの」ではないがゆえに反対項ではない反対項を意味するだろうし、そのゆえに自己矛盾に陥るだろうからだ。
 Avenarius は、さらにつづける。「主調整」は、科学的知識に我々が帰属させる意味(sense)に影響を与えない。我々が何らかの客体に向かうとき、我々は「主調整」の状態を生み出すのだから。つまり、我々は、その客体を認識上の結合(cognitive combination)の中に含み入れる。
 我々は、例えば、それを知覚する者がいないときに世界はどのようなものであるかを尋ねる、と考えるかもしれない。しかし、我々は、実際には、意味(sense)に対する想像上の観察者を加えているのであり、世界はそのときどうであったかを尋ねている。
 我々は、探求行為(act of inquiry)の中に含め込み、そうして経験の反対項にしないかぎり、宇宙のいかなる一部に関しても、疑問を発することができない。
 我々はこう言うかもしれず、そしてそれはおそらくAvenarius が意図したことだった。探求行為を疑問の内容から排除することはできず、そのゆえに、疑問を発する状況は、「主調整」の一事例だ、と。
 「独立した」存在に関する疑問を発するのは、不可能だ。疑問を発するまさにその行為が、依存していることを明証しているのだから。
 「存在それ自体」に関して問うことは、いかにして、認識する状態を生み出すことなく、言ってみればそれを知る(know)ことなく、世界を知る(know)ことができるのか、を問うことだ。
 このような意味で、Descartes、Locke、Kant、およびこれらの継承者たちが提示してきた、認識論や形而上学の全ての伝統的諸問題は、間違って設定(frame)されており、意味がない、ということが分かる。
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 (05) Avenarius は、こう主張する。かりに人間の認識活動をこのように理解するならば、人間の認識活動の本当の生物的な意義が明瞭になる。
 認識(cognition)は、我々の生物的平衡状態(equilibrium)をつねに撹乱する刺激に対する身体の諸反応、およびそれを復活させること以外の目的をもたない諸反応、を包括する行動の、一形態だ。
 認識は、たんに生物的な反応であるので、いかなる超自然的な意味での「真実」とは、あるいは「事物は現実にはどうであるのか」の発見とは、何ら関係がない。
 「正しい」と「間違っている」という述語は、経験の構成要素に含まれない。「愉快な」と「苦痛だ」、「良い」と「悪い」、「美しい」と「醜い」のように、これらの述語は、経験の特定の解釈に関連しており、経験の「性質」であって、「要素」ではない。
 世界に関する人間の諸思想(ideas)は、哲学的教理であれ宗教的信念であれ、「真実」との関係においてではなく、生物学的に、解釈されなければならない。人間の諸思想は、例外なく、環境の変化によって惹起される必要に対する、個人または共同社会の反応として、発生学的(genetically)に、理解することができる。
 このことは、私の知識の内容は全人類にとっては有効でない、ということを意味しない。
 生物学的存在のいくつかの特質は、普遍的だ。そして、そのゆえに、人間が明瞭に述べる一定の「真実」だ。しかし、この普遍性は、人間という種に関係するのであり、知識の超自然的な有効性とは関係がない。
 純粋に生物的観点から見て、認識はもちろん可能だ。しかし、それに関するいかなる理論も、我々の知識が「客観的に」、すなわち認識の行為から独立して正しい(true)、と述べる資格を、我々に与えることはないだろう。
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 (06) Avenarius の目標は、自己と客体とが同等の項に存在する経験へと、全ての存在(Being)を変えることによって、「心」(mind)と「物質」の二元論から哲学を解放することだった。
 しかし、彼は、「主観主義」または首尾一貫性の欠如という疑問を生じさせる結論を叙述するのを、避けることができなかった。
 かりに自己が主体ではなく知られるものであれば、そして、かりに「中心項」が何らかの経験の記述と分離できないものであれば、知る(knowing)という行為は、いったい何処に存在するのか?
 誰のものでもない経験であるように見える。特定の誰かにとってではなく一般に「所与のものである」状態、明敏な覚知力(percipient)のない知覚する行為(act of perception)、だ。
 かりにある物または別の物を「私が見る」と言うとすれば、この言明は、文法上および認識論上の主体としての「me」を含んでおり、認識する主体としての「I」は、知覚上の分野のその他の構成要素と同等ではない。そうでなければ、「I」が知覚するのではなく、ある物が「知覚された」と言う方が、より本当(true)だろう。
 しかし、Avenarius の説明は、明瞭ではない。主体という範疇は、いかにして、経験の説明から排除され得るのか。また、経験批判論の「中心項」と通常の意味での「主体」との間の差異はいったい何なのか。
 かりに自己は知覚する分野の構成要素にすぎない、という見地を採用するとすれば、なぜそもそも「主調整」が発生するのか、換言すると、なぜ自己は全ての経験する行為の中に存在しなければならないのか。
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 ③へ。