Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(1978)のこの欄ヘ試訳状況を、振り返ってみた。すると、第二部第16章〜第三部第5章+いくつかの章を全部試訳したと思っていたところ、第二部の第17章第3節「経験批判論」、第4節「Bogdanov とロシア経験批判論」、第5節「プロレタリアートの哲学」、第6節「'神建設者」は、概要だけで、きちんと邦訳していないことに気づいた、第7節は「レーニンの哲学への逍遥」。
 第17章第3節「経験批判論」から、試訳を掲載してみる。
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 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 第三節/経験批判主義(Empiriocriticism)①。
 (01) この用語は、主としてドイツとオーストリアの、相当に多数の哲学者と物理学者に関連している。中でも、最も著名な名前は、Ernst Mach とRichard Avenarius だ。
 この二人は、相互に独立して仕事をした。そして、二人の結論は、同一ではない。
 しかし、二人の思考(thinking)は、異なる言葉遣いで表現されているとしても、類似の方向で進められた。
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 (02) Avenarius が設定した目標は、我々が知覚(perceive)する現象とその背後にある「本当の」現実(true reality)の間の差異を前提にすることによって世界を神秘(mystery)に変える、そのような全ての哲学上の観念や説明を、破壊(demolish)することだった。
 彼は、とりわけ、「心的印象」(mental impression)と到達し難い「事物それ自体」の間の区別から生じる認識論的観念論(epistemological idealism)を論駁しようとした。
 彼はまた、全ての不可知論(agnostic)的教理は同じ間違った区別を基礎にしている、と考えた。
 もしも彼の思想が、とくにWundt によるように、「客観主義」の新しい一つの変種だと、あるいは「内在論」(immanentism)だとすら、相当に頻繁に解釈されたとするならば、その理由の一つは、彼の議論にある一定の一貫性の欠如にあり、また一つは、彼の用語法の極端な複雑さにあった。彼の議論は、新造語や、哲学上の伝統的な全ての抽象概念を一掃しようとする努力で、充ち溢れていた。
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 (03) 我々が「心の内容」(contents of mind)と事物それ自体を区別する、あるいは主体の「内部」と客体の間の区別をする原因となっている誤り(error)。—観念論や不可知論(agnosticism)という逸脱(aberrations)につながっているこの誤りは、Avenarius が「取り込み」(introjection)と称する、本能的な過程を理由としている。
 かりに我々が、いかなる哲学上の前提もなくして我々の知覚(perceptions)を検証するならば、我々は、その知覚を神秘的だとは感じない。
 しかしながら、哲学は、我々に対して執拗に、こう主張する。すなわち、我々の「印象」または「感情」(sensation)は、例えば我々が石に触るとき、事物それ自体(この場合は石)とは異なる。問題は、この両者が相互にどういう関係にあるかだ、と。
 そうであるなら、我々は、答えを見出すことができないだろう。なぜなら、原物(the original)との類似性を比較し、その結果が一致しているかどうか、そのことがいったい厳密には何を意味するのか、を判断する方法は存在しないからだ。
 我々は、事物と印象とを別々に扱う必要はない。
 そして、かりに我々が、そのように世界を二分(dichotomize)するならば、我々は、不毛な考察に追い込まれ、感情のベールによって隠された世界の神秘を前にして屈服する、または、世界は「心的状態」の寄せ集めにすぎないという観念論的な錯覚(delusion)を抱く、という帰結にしかならないだろう。
 取り込み(introjection)—換言すると、我々がいわば、「主観的」心象(subjektive image)または反射物という形で物理的な客体を「取り入れる」(take in)心的過程—は、歴史的に不可避だったとしても、世界と我々の関係に関する間違った(false)解釈によっている。
 我々は正しく、他の人々の心的経験は我々のそれとよく似ている、と推測する。また、我々はそうして、他の人々は、自動操作物ではない、経験する主体だ、と推測する。
 そのゆえに、我々は他の人々は、我々自身のそれとよく似た心的な「内部」(mental interior)をもっていると考える。—我々が自分たちで直接には知覚することのできない、彼らの経験についての一種の容器だ。
 他の人々を二分化してしまえば、我々は自分たちについて同じことを行なう。我々自身の知覚を、外からの刺激によって、かつ他の人々とは異なって生じた心的状態だと見なすことになる。
 我々はかくして、世界を「主観的なもの」と「客観的なもの」
に分ける。そして、これら二つがどういう関係にあるのか、について考察する。
 ゆえに、当然のこととして、身体と非物質的な精神(immaterial soul)、そして全ての心霊主義(spiritualists)や宗教的幻想の間の区別も、そうなる。
 しかし、取り込みによる失敗は、回避することができる。
 私は、彼と私の〈内部〉と外部にあるものを区別することなく、他の人は私自身のような認識主体だ、と認めることができる。
 我々は「外部にある客体」が神秘的に存在する、と考える「内部的意識」をもつ、という幻想をいったん振りほどいてしまえば—この客体とは、所与のものだということとは無関係に存在し、我々がどういう方法によっても知る(know)ことができないものだが—、我々は、哲学上の伝統的な諸問題の全てや心霊主義、および実体、有形力、因果関係といった諸観念に内在する解決不能の諸問題から、解放される
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 ②へ。