Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime(1994年).
 「第1章・内戦:初期の戦闘(1918年)③。
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 第一節/赤軍が勝利した理由②
 (10) 反ボルシェヴィキの軍隊は、ふつう、「白」軍(Belye)または「白衛」軍(Belogvardeitsy)として知られる。共産党員たちが対立者を非難するために作った形容詞は、彼らにもそのうちに受け入れられた。
 白は、むろん、ブルボン家の紋章であり、フランスの君主制主義者の旗印だった。
 ボルシェヴィキは、1790年代のエミグレがそうだったように、対立者の狙いは君主制を復活させることだ、という印象を与えるために、この語を用いた。
 現実には、いわゆる白軍のどれ一つにも、目標として掲げた中に、ツァーリ体制の復活はなかった。
 白軍の全てが約束したのは、ロシアの民衆に、自分たちの政府の形態を自由に決定する機会を与えることだった。
 最も強力な勢力である義勇軍は、ロマノフ王朝の紋章の黒、オレンジ色、白ではなく、民族的な白、青、赤を選んだ。(注06)
 そして、その代表曲(anthem)としては、「God Save the Tsar」ではなく、Preobrazhenskii 防衛連隊の行進曲を用いた。
 義勇軍の創設者かつ指導者たち—三人ともに農民が出自のAlekseev、コル二ロフ、Denikin の各将軍たち—は、ニコライ二世への敬愛を何ら示さなかった。Alekseev は、ニコライの退位を説得するに際して決定的な役割を果たしたのだった。(注07)
 白軍の将軍たちは、原理の問題としてのみではなく、実際的な理由からも、君主制の復活を拒否した。君主制復活は、全ての皇位継承候補者が殺害されているか政治から引退しているかのいずれかだったので、実現が不可能だった。(脚注3)
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 (脚注3) 典型的だったのは、Nikoiai Nikolaevich 大公の反応だった。この人物は、帝室内で最もよく知られていて、1918年に引退してクリミアですごしていた。
 白軍を引き受けつもりはあるかと尋ねられたとき、彼は、責任回避的に反応した。
 「私は、ニコライ一世の死の直後に生まれた。私と私の教育の全体は、彼の伝統の中で形成された。私は、服従し、命令することに慣れている兵士だ。今では服従すべき者はもういない。ある状況のもとでは、誰かに従属することを自分で決定しなければならない。誰かに、例えば、そのように言われればだが、総主教(Partriarch)に」。「Otry
viki iz dnevnika kn. Grigoria Trubetskogo」, Fenikin Papers, Box 2, Bakhmeteff Archive, Rarebook and Manuscript. Library, Columbia Uni., p.52, Cf., Denikin, Ocherki, IV, p.201-2.
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 いくぶんかロマンティックなGolovin 将軍の見方では、白が全てのスペクトルの色の総体だという意味においてのみ、運動は「白軍」だった。彼によれば、ロシアの白軍に活気を与える精神は、1792年にフランスに押し寄せた反革命勢力の精神ではなく、ナポレオンを登場させた革命軍の精神だった。(脚注4)
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 (脚注4) N. N. Golovin, Rossiiskaia kontro-revolutsiia(Tallin, 1937),Book 9 p.93; Book 5, p.65. 同時に指摘しておくべきなのは、内戦の後半の段階で白軍で闘った将校たちは、ますます又は部分的に、狂信的にすら、君主制主義者になった、ということだ。このことは、白軍に随行していた外国人、例えば、1919年にKolchak 軍の首都だったOmsk にいたJohn Ward 大佐によって観察された。
 彼はこう言う。「ロシアの将校はほとんど一人の人物への忠誠主義者」で、「君主制原理に子どものように執着している」。John Ward, With the “Die Hards” in Siberia(London, 1920), p. 160.
 しかし、この問題を扱う際、我々は、1919年にこの国の一般民衆は、2年前にそうだったようには君主制に対して消極的な気分だった、と理解してはならない。その2年前、レーニンは、この国に君主制に忠誠な者の気分が復活することを怖れて、ニコライ二世の処刑を命じ、1918年夏にロマノフ王朝のほとんどの者たちに対して同じことをした。
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 (11) ウラルの穏やかな丘陵を除いて広大な平原で闘われたロシアの内戦は、西部で1914〜1918年に展開された戦闘とはほとんど共通性がなかった。
 こちらには、決まった前線というものはなかった。
 兵団は主として鉄道路線沿いに動き、占拠されていない広大な領域をそのままにした。
 全てが流動的で、諸部隊は後方にではなく、戦場の付近で形成され、ほとんど訓練されないままで戦闘に投入された。(注08)
 部隊は突然に出現し、同じように突然に解体し、消滅した。
ばらばらになり、秩序のない暴徒へと解体した。
 前線は、わずかしか維持されなかった。数千人の兵団でなる分隊(devisions)が200キロメーターの距離の前線を防衛する、「旅団」(brigades)には数百人しかいない、といったことは異例ではなかった。(注09)
 非正規の部隊は、敵の前で逃亡し、少しのあいだだけ戦闘し、そして、もう一度、攻守を変更したものだ。
 捕えられている数万人の赤軍兵士は、白軍に組み入れられ、昨日までの仲間と戦闘するために派遣されることになる。
 Wrangel の退避のあとで捕えられた白軍の捕虜は、赤軍の制服を着せられ、ポーランド人部隊と闘うよう配置された。
 ごく一部の献身的な義勇兵を除いて、両軍いずれの兵士は、何のために闘っているのかが分からず、しばしば最初の戦闘のときに、脱走した。
 情勢は流動的だったので、戦闘の経緯を図式的に叙述するのは、ほとんど不可能だ。つぎのような事情が加わるので、なおさらそうだ。主要な戦闘部隊のあいだや背後に、諸々の独立した部隊がいた。「アナキスト」、「緑」、「Gregorivites」、「マホヌ派」(Makhonovites)、「Semenovites」の部隊だ。さらに、独自の目標をもつその他のパルチザン。
 内戦の前線の地図のいくつかは、Jackson Pollock の絵画に似ていた。白、赤、緑の線があらゆる方向に走り、かつ無原則に交差していた。
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 (12) 赤軍は内戦に勝ち残ったために、その勝利は優秀な指導力と積極的な士気が理由だった、と叙述したくなる。
 主観的な要因は、疑いなく結果に影響を与えた。しかしながら、軍事的均衡を吟味するならば、決定的要因は客観的性質のものだった、ということが分かる。(脚注5)
 状況は、アメリカの内戦と似ていなくはない。アメリカでは、北軍が人口、工業資源、輸送で圧倒的に優勢だった。そのために、戦闘の意思があるかぎり、北軍が確実に勝利していた。
 戦略的観点から見ると、ほとんど全ての点で、赤軍の側が有利だった。
 このような圧倒的な展望に抗して戦闘しつづけ、ある点では勝利に近づくようにすら見えた白軍の能力は、伝来的な知識とは反対に、将軍たちの手腕と士気をもっていたのはむしろ彼らだった、ということを示唆する。
 最終的には、彼らは敗北した。その理由は人気ある主張が少なかったことや致命的な政治的、軍事的過ちを冒したことではなく、克服することのできない不利な条件(handicaps)あったことだ。
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 (脚注5) この「客観的要因」で私が意味させてているのは、変更しようとする中心人物の能力を超えるものだ。すなわち、例えば、彼らにそれぞれにある地理的位置の条件によって決定されるもの。「主観的要因」は、彼らの姿勢、価値観、能力、その他の個人的な特性だ。
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