Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設①。
 (01) チェカの最も重要な職責の中に、「強制収容所」(concentration camps)を組織し、運営することがあった。ボルシェヴィキは、この収容所を全く新しく考案したのではなかったが、新奇できわめて邪悪な意味をこれに与えた。
 強制収容所は、その完全に発展した形態では、一党国家制や全能の政治警察とともに、ボルシェヴィキが20世紀の政治実務に影響を与えた主要なものだった。
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 (02) 「Concentration Camps」という用語は、植民地戦争(colonial war)に関連して19世紀の末に生まれた。(脚注1)
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 (脚注1) この装置に関する最良の歴史書は、Kaminsky, Konzentrationslager だ。この主題を、歴史家は驚くほどに無視してきた。
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 スペイン人は、キューバ人の暴乱に対する戦いのあいだに、このような収容所(camps)を最初に設けた。
 それらは、40万人を収容した、と推算されている。
 アメリカ合衆国は、1898年のフィリピン暴乱と戦うあいだに、スペイン人に見習った。
 イギリスも、ボーア(Boer)戦争のあいだに、同様のことをした。
 しかし、これらは、名前を別とすれば、ボルシェヴィキが1919年に導入し、ナツィスその他の全体主義体制がのちに模倣した強制収容所とほとんど関係がなかった。
 スペイン、アメリカ、イギリスの強制収容所は、植民地のゲリラとの戦いのあいだに採用された非常措置だった。それらの目的は、制裁ではなく、軍事的なものだった。—すなわち、非正規軍を一般民間人から分離すること。
 初期の収容所の条件は苛酷だった、と認めざるを得ない。イギリスに監禁されて、2万人ほどものボーア人が死んだ、と言われている。
 しかし、意図的な虐待は、存在しなかった。苦痛や死は、収容所が急いで完成されたことによっていた。急いだがゆえに、居住条件、食事等の供給、医療が不適切なままだった。
 被収容者たちは、労働を強制されなかった。
 三つの場合はいずれも、戦闘が終結すると、収容所は取り壊され、被収容者は解放された。
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 (03) ソヴィエトの強制収容所や労働収容所(lageri prinuditel’nykh rabot)は、最初から、組織、活動、目的が異なっていた。
  1. 永続的な施設だった。内戦のあいだに導入され、1920年に戦闘が終わっても、消滅しなかった。
 それどころか、様々の目的をもってその場所に維持され、1930年代には途方もない割合で膨張した。その頃のソヴェト・ロシアは平穏で、表向きは「社会主義を建設していた」のだが。
 2. ゲリラを支援したと疑われた外国人を収容しなかったが、政治的反抗者だとの嫌疑を抱いたロシア人その他のソヴィエト市民は、収容した。
 元来の役割は、植民地の人々を軍事的に制圧するのを助けることではなかった。ソヴィエトでは、自国の市民にある不満を抑圧することが任務だった。
 3. ソヴィエトの強制収容所は、重要な経済的役割を果たした。被収容者は、命じられれば、労働しなければならなかった。このことが意味したのは、彼らは隔離されるだけではなく、奴隷労働者として搾取される、ということだった。
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 (04) ソヴィエト・ロシアで強制収容所が最初に話題になったのは、1918年の春、チェコ人の蜂起や従前の帝制期の将校たちの採用に関係してだった。(脚注2)
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 (脚注2) ソヴィエトの強制収容所に関する最も包括的な解説は、Mikhail Geller, Kontsen-tratsionnyi mir i sovetskaia literature(London, 1974)だ。これには、ドイツ語、フランス語、ポーランド語の翻訳書がある。英語のものはない。
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 1918年5月末、トロツキーは、武器を捨てて降伏するのを拒む
チェコ人兵士を、強制収容所への監禁でもって威嚇した。(脚注3) 
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 (脚注3) L. D. Trotskii, Kak vooruzhalas’ revoliutiia, I(Moscow, 1923), p.214, p.216. Geller によると(Konrsentratsionnyi, p.73)、これは、この用語のソヴィエトでの最も早い使用例だ。
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 8月8日、彼は、モスクワからKazan までの鉄道路線を保護するために、近傍のいくつかの地方に強制収容所を建築することを命じた。それは、「その場で」処刑されていないまたは他の制裁を受けている、「悪辣な煽動者、反革命将校、破壊工作者、寄食者、投機者」を隔離するためでもあった。(注126)
 こうして、強制収容所は、訴追することができていないが何らかの理由で当局が処刑しないことを好む、そのような市民を抑留する場所だと理解された。
 レーニンは、8月9日のPenza への電信で、この用語を上のような意味で用いた。反抗する「クラク」は「容赦なき大量テロル」—すなわち処刑—を受けさせるべきだが、疑わしい者は市の外にある強制収容所に監禁せよと、その電信は命令していた。(脚注4)
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 (脚注4) Lenin, PSS, L, p.143-4. チェカの長官代理の地位にあったPeters は、武力でもって捕えた者は「その場で射殺され」、政府に反対して煽動した者は強制収容所に監禁される、と言った。Izvestiia, No.188/452(1918年9月1日), p.3.
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 このような威嚇は、1918年9月5日の「赤色テロルに関する決定」によって、法的および行政的制裁の効果をもった。この決定は、「階級敵を強制収容所へ隔離することによってソヴェト共和国を守る」ために行なわれた。
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 ②へとつづく。