Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する②。
(03) チェカは、徐々に、国家の保安に通常は影響を与えないと考えられる広い範囲の管理や監督の権能を掌握した。
「投機」—すなわち私的取引—を取り締まる布告を執行するために、チェカは、1918年の後半に、鉄道、水路、主要道路その他の交通手段に対する統制権を握った。
Dzerzhinskii は、この職務を効率的に実行するために、1921年4月、交通人民委員に任命された。(注121)
チェカは、あらゆる形態の強制労働を監督かつ実施した。この義務を逃れる者や不十分にしか履行しない者に対しては、これらを制裁する裁量的権限をもった。
銃撃による処刑は、このような目的のために使われた、一般的な方法だった。
ある目撃者は、経済的成果を上げるためにチェカが用いた手段について、貴重な洞察を与えてくれている。この人物は、ソヴェトが雇用したメンシェヴィキの森林専門家で、レーニンとDzerzhinskii が材木生産の増大について決定したときに、たまたま在職していた。
「あるソヴィエトの布令が公示された。この布令は、政府所有の森林の近くに居住する全ての農民に対して、1ダースの木材を用意し、輸送するよう義務づけた。
だが、この義務づけは、森林労働者(foresters)をどうするか—彼らに何を要求するか—という問題を生じさせた。
ソヴェト当局から見ると、これら森林労働者たちは、新政府が冷淡に処理をした妨害者的知識人の一部だった。/
この特定の問題を議論した労働・防衛会議(the Council of Labor and Defence)の会合には、他の人民委員の中でも、Felix Dzerzhinskii が出席した。…
彼は、しばらく聴いていたあと、こう言った。
『正義と衡平のために、提案する。森林労働者は、農民への割当て量の達成について個人的な責任を負わされる。加えて、各森林労働者は一人ずつ、同じ量—1ダースの木材—を達成するものとする。』/
会議の若干の構成員たちは、反対した。
彼らが指摘したのは、森林労働者は重い肉体労働に慣れていない知識人だ、ということだった。
Dzerzhinskii は、農民と森林労働者の間の年齢による不平等を無くす良いときだ、と答えた。/
チェカの長官は、結論としてこう発言した。
『さらに加えて、かりに農民が割当て量を達成できなければ、それに責任を負う森林労働者は、射殺されなければならない。
残りの者は、真剣に仕事に取り組むだろう。』/
森林労働者の多数は反共産主義者だと、広く知られていた。
依然として、部屋にある、当惑した静けさを感じた。
突然に、私は、無作法な声を聴いた。
『この提案に、誰か反対するか?』/
レーニンだった。彼の真似のできないやり方で、議論を終わらせようとしていた。
当然ながら、誰もあえてレーニンとDzerzhinskii に反対しなかった。
レーニンは、思い直したかのように、森林労働者の射殺の部分—承認されていたが—は会合の正式の議事録から削除するよう、提案した。
これもまた、彼が望んだとおりに承認された。/
会合のあいだ、私は気分が悪かった。
私はもちろん、1年以上、処刑がロシアをひどく破壊していることを、知ってきていた。—だが、多数の無実の人々の運命にかかわる5分間の議論に、私自身が同席していた。
私は、心底から動揺した。
咳き込んだけれども、私の冬風邪の一つの咳以上のものだった。/
1、2週間以内に森林労働者の処刑が行なわれても、彼らの死は先の事態を少しも変えないだろう、ということは、私には苦痛だった。
このような恐るべき決定は、この非常識な措置を発動する者たちにある、憤懣と復讐の感情から来ている、と私は知った。」(注122)
文書には何の痕跡も残さない、このような決定が多数あったに違いない。
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(04) チェカは、着実に、その軍事力を増大させた。
1918年夏、その戦闘部隊(Combat Detachments)が、赤軍から分離した一つの組織となった。これは、Korpus Voisk VChK(AU-ロシア・チェカの軍団)と称された。(注123)
帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)を範としたこの軍団は、「国内戦線」のための常備軍へと成長した。
1919年5月、政府は、内務人民委員としての新しい権能をもつDzerzhinskii が主導して、これらの部隊の全てを、共和国の国内的保安の軍隊(Voiska Vnutrennei Okhrany Respubliki)へと統合し、戦争人民委員ではなく内務人民委員が監督するものとした。(注124)
このとき、この国内軍には、12万人ないし12万5000人の兵士がいた。
1920年代の半ばまでには、この数は二倍になり、全体でほとんど25万人になった。この兵士たちは、工業施設、輸送設備を守り、供給人民委員部が食料を徴発するのを助け、強制労働と強制収容所を護衛した。(注125)
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(05) 重要なことを付言すると、チェカは、Osoby Otdel(特殊部署)として知られる、軍隊のための対抗諜報組織の事務局を設置した。
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(06) チェカは、こうした機能と権能をもつことによって、1920年までに、ソヴィエト・ロシアの最も強力な組織になった。
警察国家の基盤は、かくして、レーニンがその職責にあるあいだに、その主導のもとで、築かれた。
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第十節、終わり。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
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第十節/チェカは全ソヴェト組織に浸透する②。
(03) チェカは、徐々に、国家の保安に通常は影響を与えないと考えられる広い範囲の管理や監督の権能を掌握した。
「投機」—すなわち私的取引—を取り締まる布告を執行するために、チェカは、1918年の後半に、鉄道、水路、主要道路その他の交通手段に対する統制権を握った。
Dzerzhinskii は、この職務を効率的に実行するために、1921年4月、交通人民委員に任命された。(注121)
チェカは、あらゆる形態の強制労働を監督かつ実施した。この義務を逃れる者や不十分にしか履行しない者に対しては、これらを制裁する裁量的権限をもった。
銃撃による処刑は、このような目的のために使われた、一般的な方法だった。
ある目撃者は、経済的成果を上げるためにチェカが用いた手段について、貴重な洞察を与えてくれている。この人物は、ソヴェトが雇用したメンシェヴィキの森林専門家で、レーニンとDzerzhinskii が材木生産の増大について決定したときに、たまたま在職していた。
「あるソヴィエトの布令が公示された。この布令は、政府所有の森林の近くに居住する全ての農民に対して、1ダースの木材を用意し、輸送するよう義務づけた。
だが、この義務づけは、森林労働者(foresters)をどうするか—彼らに何を要求するか—という問題を生じさせた。
ソヴェト当局から見ると、これら森林労働者たちは、新政府が冷淡に処理をした妨害者的知識人の一部だった。/
この特定の問題を議論した労働・防衛会議(the Council of Labor and Defence)の会合には、他の人民委員の中でも、Felix Dzerzhinskii が出席した。…
彼は、しばらく聴いていたあと、こう言った。
『正義と衡平のために、提案する。森林労働者は、農民への割当て量の達成について個人的な責任を負わされる。加えて、各森林労働者は一人ずつ、同じ量—1ダースの木材—を達成するものとする。』/
会議の若干の構成員たちは、反対した。
彼らが指摘したのは、森林労働者は重い肉体労働に慣れていない知識人だ、ということだった。
Dzerzhinskii は、農民と森林労働者の間の年齢による不平等を無くす良いときだ、と答えた。/
チェカの長官は、結論としてこう発言した。
『さらに加えて、かりに農民が割当て量を達成できなければ、それに責任を負う森林労働者は、射殺されなければならない。
残りの者は、真剣に仕事に取り組むだろう。』/
森林労働者の多数は反共産主義者だと、広く知られていた。
依然として、部屋にある、当惑した静けさを感じた。
突然に、私は、無作法な声を聴いた。
『この提案に、誰か反対するか?』/
レーニンだった。彼の真似のできないやり方で、議論を終わらせようとしていた。
当然ながら、誰もあえてレーニンとDzerzhinskii に反対しなかった。
レーニンは、思い直したかのように、森林労働者の射殺の部分—承認されていたが—は会合の正式の議事録から削除するよう、提案した。
これもまた、彼が望んだとおりに承認された。/
会合のあいだ、私は気分が悪かった。
私はもちろん、1年以上、処刑がロシアをひどく破壊していることを、知ってきていた。—だが、多数の無実の人々の運命にかかわる5分間の議論に、私自身が同席していた。
私は、心底から動揺した。
咳き込んだけれども、私の冬風邪の一つの咳以上のものだった。/
1、2週間以内に森林労働者の処刑が行なわれても、彼らの死は先の事態を少しも変えないだろう、ということは、私には苦痛だった。
このような恐るべき決定は、この非常識な措置を発動する者たちにある、憤懣と復讐の感情から来ている、と私は知った。」(注122)
文書には何の痕跡も残さない、このような決定が多数あったに違いない。
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(04) チェカは、着実に、その軍事力を増大させた。
1918年夏、その戦闘部隊(Combat Detachments)が、赤軍から分離した一つの組織となった。これは、Korpus Voisk VChK(AU-ロシア・チェカの軍団)と称された。(注123)
帝制時代の憲兵団(Corps of Gendarmes)を範としたこの軍団は、「国内戦線」のための常備軍へと成長した。
1919年5月、政府は、内務人民委員としての新しい権能をもつDzerzhinskii が主導して、これらの部隊の全てを、共和国の国内的保安の軍隊(Voiska Vnutrennei Okhrany Respubliki)へと統合し、戦争人民委員ではなく内務人民委員が監督するものとした。(注124)
このとき、この国内軍には、12万人ないし12万5000人の兵士がいた。
1920年代の半ばまでには、この数は二倍になり、全体でほとんど25万人になった。この兵士たちは、工業施設、輸送設備を守り、供給人民委員部が食料を徴発するのを助け、強制労働と強制収容所を護衛した。(注125)
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(05) 重要なことを付言すると、チェカは、Osoby Otdel(特殊部署)として知られる、軍隊のための対抗諜報組織の事務局を設置した。
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(06) チェカは、こうした機能と権能をもつことによって、1920年までに、ソヴィエト・ロシアの最も強力な組織になった。
警察国家の基盤は、かくして、レーニンがその職責にあるあいだに、その主導のもとで、築かれた。
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第十節、終わり。



























































