Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員①。
(01) 赤色テロルが二ヶ月めに入ったとき、ボルシェヴィキの中層および下位の党員のあいだに、テロルへの嫌悪が感じられるようになった。
1918-19年の冬のあいだにその感情は強くなり、政府は1919年2月、チェカの権能を制限する一連の規則の発令を強いられた。
しかし、この規制は、ほとんど紙の上だけのものだった。
1919年の夏、赤軍がDenikin の攻勢によって後退し、モスクワが奪取される切迫感が生まれたとき、恐れ慄いたボルシェヴィキ指導部は、一般民衆をテロルする完全な自由をチェカに復活させた。
--------
(02) 共産党組織の内部でのチェカに対する批判は、人道主義的な衝動からではなく、チェカが独立していることへの不満や、チェカを統制下に置かなければやがてそれが忠誠心ある共産党員を脅かすことになる、という怖れによって、掻き立てられた。
チェカに付与された赤色テロルを行なう自由は、チェカの権能が党の指導層へすら及ぶことを意味した。
チェキストがつぎのように誇るのを聞いたとき、ふつうのボルシェヴィキ党員がどう感じるかを、容易に想像することができる。—我々は、「好むならば」ソヴナルコムの一員を、レーニンですらも、逮捕することができる、自分たちはチェカに対してのみ忠実なのだから。(注99)
--------
(03) 多数のボルシェヴィキ党員が思っていることを最初に語った最初の官僚は、〈プラウダ〉編集部員のOlminskii だった。
Olminskii は、1918年10月早くに、チェカは党とソヴェトの上位にあると考えている、と非難した。(注100)
州の行政を監督すると想定されていた内務人民委員部の官僚たちは、州や〈uezd〉のチェカが地方ソヴェトを無視していることに不満を表明した。
1918年10月、内務人民委員部は、地方のチェカとの関係について調査するために、州と〈uezd〉のソヴェトに対して調査団を派遣した。
回答した147のソヴェトのうち、20ソヴェトだけが、チェカが独立して行動していることに満足していた。残りの127ソヴェト(85パーセント)は、自分たちの監督のもとでチェカに活動させることを望んだ。(注101)
司法人民委員部も同様に困惑しており、政治的犯罪者を審理し判決を出す手続から自分たちは排除されている、と考えていた。
その長官であるN. V. Korylenko は、テロルの熱心な支持者で、無実の者を処刑することすら擁護していた。彼は、のちに、スターリンの見せ物裁判の、指導的な訴追者になる。
彼は、しかし、全く自然に、自分の人民委員部が殺害を担当することを望んだ。
1918年12月、彼は、党中央委員会に対して、チェカを本来の機能—すなわち、捜査—に限定し、司法人民委員部に審理と判決の権能を委ねようとする企画書を提示した。(注102)
党中央委員会は、当分のあいだ、この提案を棚上げした。
--------
(04) チェカに対する批判は、1918-19年の冬に、継続した。
〈週刊チェカ〉の刊行については、編集部の論評はなかったが、州のボルシェヴィキ官僚の手紙によって嫌悪感が広がった。ボルシェヴィキ官僚たちは、レーニンの生命を狙って共謀したとして非難されたBruce Lochkart が「最も優しい拷問」すら受けることなく釈放されたことに対して、怒りを表明した。(注103)
Olminskii は、1919年2月に、批判を再開した。
彼は、無実の者の処刑に異議を挟んだ。そのような数少ない著名なボルシェヴィキ党員の一人として、こう書いた。
「赤色テロルについては、異なる見解があり得る。
しかし、いま諸州で行なわれているのは、赤色テロルでは全くない。最初から最後まで、犯罪だ。」(注104)
モスクワで噂話として呟かれたのは、チェカの座右銘(motto)はこうだ、ということだった。—「有罪者一人を見逃すよりは、10人の無罪の者たちを処刑する方がよい」。(注105)
--------
(05) チェカは、反撃した。
反撃の仕事は、Dzerzhinskii のラトヴィア人副官であるLatsis とPeters に委ねられた。Dzerzhinskii は10月早くに、スイスへと1ヶ月の休暇をとりに行っていたからだ。
彼は、レーニンの暗殺未遂が起きて以降の6週間を、レーニンによる赤色テロルに目を光らせながら、過ごした。
髭を剃って、そっとモスクワから抜け出た。
ドイツを経由してスイスへ行き、妻と子どもたちに合流した。彼ら家族は、ベルン(Berne)のソヴィエト代表部に落ち着いていた。
赤色テロルが頂点に達していた1918年の10月に撮影された、彼の写真が、残っている。上品な私服を着て家族とともにLugano 湖畔に立って、ポーズをとっている。(注106)
大虐殺に耐えられないかのごとき様子は、テロルのこの熟達者についてよく知られた最もよい写真だった。彼は二度と、このような非ボルシェヴィキ的弱さを示そうとしなくなった。
--------
(06) チェカの報道官は、批判に応えて、彼らの組織を防衛するとともに、反対攻撃も行なった。
批判者を、こう呼んだ。反革命と闘う実際的経験のない、そしてチェカに無制約の行動の自由を認める必要性を理解することができない「アームチェア」政治家だ、と。
Peters は、反チェカの情報宣伝の背後には、「プロレタリアートと革命に敵対的な」悪辣な分子がいると非難した。チェカを批判するのは、国家反逆の罪を冒させることにつながる契機だとも、言った。(注107)
チェカは、ソヴェトから独立して行動することによって、ソヴィエトの憲法(Constitution)を侵犯している、とする批判があった。これに対して、〈週刊チェカ〉の編集部は、憲法は「ブルジョアジーと反革命が完全に粉砕されたあと」で初めて効力もち得る、と答えた。(脚注1)
----
(脚注1) Pravda, No.229(1918年10月23日), p.1. この時期のチェカをめぐる紛議に関する資料の多くは、Melgunov Archive, Box 2, Folder 6, Hoover Institution にファイルされている。さらに、Leggett, Cheka, p.121-p.157 を見よ。
————
②へ、つづく。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
————
第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員①。
(01) 赤色テロルが二ヶ月めに入ったとき、ボルシェヴィキの中層および下位の党員のあいだに、テロルへの嫌悪が感じられるようになった。
1918-19年の冬のあいだにその感情は強くなり、政府は1919年2月、チェカの権能を制限する一連の規則の発令を強いられた。
しかし、この規制は、ほとんど紙の上だけのものだった。
1919年の夏、赤軍がDenikin の攻勢によって後退し、モスクワが奪取される切迫感が生まれたとき、恐れ慄いたボルシェヴィキ指導部は、一般民衆をテロルする完全な自由をチェカに復活させた。
--------
(02) 共産党組織の内部でのチェカに対する批判は、人道主義的な衝動からではなく、チェカが独立していることへの不満や、チェカを統制下に置かなければやがてそれが忠誠心ある共産党員を脅かすことになる、という怖れによって、掻き立てられた。
チェカに付与された赤色テロルを行なう自由は、チェカの権能が党の指導層へすら及ぶことを意味した。
チェキストがつぎのように誇るのを聞いたとき、ふつうのボルシェヴィキ党員がどう感じるかを、容易に想像することができる。—我々は、「好むならば」ソヴナルコムの一員を、レーニンですらも、逮捕することができる、自分たちはチェカに対してのみ忠実なのだから。(注99)
--------
(03) 多数のボルシェヴィキ党員が思っていることを最初に語った最初の官僚は、〈プラウダ〉編集部員のOlminskii だった。
Olminskii は、1918年10月早くに、チェカは党とソヴェトの上位にあると考えている、と非難した。(注100)
州の行政を監督すると想定されていた内務人民委員部の官僚たちは、州や〈uezd〉のチェカが地方ソヴェトを無視していることに不満を表明した。
1918年10月、内務人民委員部は、地方のチェカとの関係について調査するために、州と〈uezd〉のソヴェトに対して調査団を派遣した。
回答した147のソヴェトのうち、20ソヴェトだけが、チェカが独立して行動していることに満足していた。残りの127ソヴェト(85パーセント)は、自分たちの監督のもとでチェカに活動させることを望んだ。(注101)
司法人民委員部も同様に困惑しており、政治的犯罪者を審理し判決を出す手続から自分たちは排除されている、と考えていた。
その長官であるN. V. Korylenko は、テロルの熱心な支持者で、無実の者を処刑することすら擁護していた。彼は、のちに、スターリンの見せ物裁判の、指導的な訴追者になる。
彼は、しかし、全く自然に、自分の人民委員部が殺害を担当することを望んだ。
1918年12月、彼は、党中央委員会に対して、チェカを本来の機能—すなわち、捜査—に限定し、司法人民委員部に審理と判決の権能を委ねようとする企画書を提示した。(注102)
党中央委員会は、当分のあいだ、この提案を棚上げした。
--------
(04) チェカに対する批判は、1918-19年の冬に、継続した。
〈週刊チェカ〉の刊行については、編集部の論評はなかったが、州のボルシェヴィキ官僚の手紙によって嫌悪感が広がった。ボルシェヴィキ官僚たちは、レーニンの生命を狙って共謀したとして非難されたBruce Lochkart が「最も優しい拷問」すら受けることなく釈放されたことに対して、怒りを表明した。(注103)
Olminskii は、1919年2月に、批判を再開した。
彼は、無実の者の処刑に異議を挟んだ。そのような数少ない著名なボルシェヴィキ党員の一人として、こう書いた。
「赤色テロルについては、異なる見解があり得る。
しかし、いま諸州で行なわれているのは、赤色テロルでは全くない。最初から最後まで、犯罪だ。」(注104)
モスクワで噂話として呟かれたのは、チェカの座右銘(motto)はこうだ、ということだった。—「有罪者一人を見逃すよりは、10人の無罪の者たちを処刑する方がよい」。(注105)
--------
(05) チェカは、反撃した。
反撃の仕事は、Dzerzhinskii のラトヴィア人副官であるLatsis とPeters に委ねられた。Dzerzhinskii は10月早くに、スイスへと1ヶ月の休暇をとりに行っていたからだ。
彼は、レーニンの暗殺未遂が起きて以降の6週間を、レーニンによる赤色テロルに目を光らせながら、過ごした。
髭を剃って、そっとモスクワから抜け出た。
ドイツを経由してスイスへ行き、妻と子どもたちに合流した。彼ら家族は、ベルン(Berne)のソヴィエト代表部に落ち着いていた。
赤色テロルが頂点に達していた1918年の10月に撮影された、彼の写真が、残っている。上品な私服を着て家族とともにLugano 湖畔に立って、ポーズをとっている。(注106)
大虐殺に耐えられないかのごとき様子は、テロルのこの熟達者についてよく知られた最もよい写真だった。彼は二度と、このような非ボルシェヴィキ的弱さを示そうとしなくなった。
--------
(06) チェカの報道官は、批判に応えて、彼らの組織を防衛するとともに、反対攻撃も行なった。
批判者を、こう呼んだ。反革命と闘う実際的経験のない、そしてチェカに無制約の行動の自由を認める必要性を理解することができない「アームチェア」政治家だ、と。
Peters は、反チェカの情報宣伝の背後には、「プロレタリアートと革命に敵対的な」悪辣な分子がいると非難した。チェカを批判するのは、国家反逆の罪を冒させることにつながる契機だとも、言った。(注107)
チェカは、ソヴェトから独立して行動することによって、ソヴィエトの憲法(Constitution)を侵犯している、とする批判があった。これに対して、〈週刊チェカ〉の編集部は、憲法は「ブルジョアジーと反革命が完全に粉砕されたあと」で初めて効力もち得る、と答えた。(脚注1)
----
(脚注1) Pravda, No.229(1918年10月23日), p.1. この時期のチェカをめぐる紛議に関する資料の多くは、Melgunov Archive, Box 2, Folder 6, Hoover Institution にファイルされている。さらに、Leggett, Cheka, p.121-p.157 を見よ。
————
②へ、つづく。



























































