Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始③。
 (15) 今やチェカの機関員は、好きなように体勢の敵を処理することができる、と告げられた。
 Peters の署名のあるチェカの回状第47号によると、「チェカは、その活動について、全く独立して、探索、逮捕、処刑を行なう。それらに関して説明する責任は、のちにソヴナルコムおよびソヴェト執行委員会(Ispolkom)に委ねられる」。(注86)
 このような力をもち、かつモスクワからの威嚇によって促進されて、ソヴィエト全土の州や地区のチェカは、今や活発に作業を行なった。
 共産党のプレスは、9月のあいだに、赤色テロルの進展についての州に関する大量の記事や処刑を報告する多数の欄を公にした。
 ときには処刑された者の人数だけが掲載され、ときには姓名と職業も掲載された。後者にはしばしば、「〈kr〉」あるいは「反革命」という特定が付いていた。
 チェカは、9月の末に、自分の組織の機関紙の〈週刊チェカ〉(〈Ezhenedel’nik VChK〉)を発刊した。情報と経験の交換を通じて、チェキストの間での仕事上の友愛関係の形成を助けるためだった。
 この機関紙は、ほとんどが州によって編集された処刑の概括を、定期的に掲載した。まるで、地域のフットボール戦の試合結果であるかのごとく。
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 (16) 共産党指導者たちがこの時期に流血を呼びかけた熱心さを読者に伝えるのは、困難だ。
 まるで隣人よりも「優しく」なく、「ブルジョア的」でないことを、競い合っていたかのごときだった。
 スターリン主義者とナツィのホロコースト(holocausts)は、はるかに大きい端正さ(decorum)をもって実行された。
 飢えや消耗で死ぬよう宣告された、スターリンにとっての「クラク」や政治的に望ましくない者は、「矯正収容所」に送られることになる。一方で、ヒトラーにとってのユダヤ人は、ガス室を経て、「撤去」(evacuate)または「再配置」(relocate)されることになる。
 これらと対照的に、初期のボルシェヴィキのテロルは、公然と(in the open)実行された。
 ここには躊躇はなく、婉曲的な言い回しもなかった。世界じゅうのGrand Guignol〔恐怖劇の人形〕は、—支配者であれ被支配者であれ—全ての者に責任感をもたせ、それによって体制の存続への共通の関心を発展させることで「教育的」目的に役立つ、という意味をもたされているのだから。
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 (17) 赤色テロルの開始の2週間後、共産党員の集会に向かって、ジノヴィエフは、こう述べた。
 「ソヴィエト・ロシアの住民1億人のうち、我々は9,000万人と何とか一緒に進まなければならない。残りの1,000万人については、言うべきことは何もない。彼らは、消滅(annihiate)されなければならない。」(注87)
 ソヴィエトの最高の地位をもった者の一人である者のこのような言葉は、1,000万人の人間に対して死刑の判決を下した。
 そして、赤軍の機関が大衆に大量虐殺(pogroms)をさせようとする、つぎの言葉もある。
 「哀れみもなく、寛容さもなく、我々は、数千の単位で敵を殺すだろう。彼らを数千のままでいさせよ。彼らを自分の血で溺れさせよ。
 レーニンとUritskii の血のために…。ブルジョアジーの血で溢れさせよ。—可能なかぎり、より大量の血を。」(注88)
 Karl Radek は、「白軍の運動には直接には参画していなかった」人々のような罪なき犠牲者に言及しつつ、こうした大量虐殺に拍手を送った。
 彼は、そのような人々への制裁を自明のこととして語った。
 「全てのソヴィエトの労働者にとって、反革命の工作員の手に落ちる労働者革命の指導者にとって、後者は10人の頭でもって支払う必要がある。」
 彼の唯一の不満は、民衆が十分には巻き込まれていないことだった。
 「ブルジョアジーの中から選ばれ、労働者、農民および赤軍の代表者でなるソヴェトにより発表された判決にもとづいて処刑される5人の人質は、この行為を是認する数千人の労働者が見ている中では、労働者大衆の参加のないチェカの決定のよる500人の処刑よりも、力強い大量テロルの行為だ。」(注89)
 当時の道徳的雰囲気はこのようなものだったので、チェカの収監者の一人によると、「参画するテロル」を呼びかけるRadek の文章は、監獄の被収容者、人質の多くから、人道的(humanitarian)な態度だとして歓迎された。(注90)
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 (18) のちに「革命の良心」として称賛される者たちを含めて、
ボルシェヴィキ党と政府の中の誰一人として、このような残忍な諸行為(atrocities)に、公的には反対しなかった。ましてや、抗議して辞職する者は存在しなかった。
 実際に、彼らは、支持していた。こうして、レーニンに対する狙撃の翌日の金曜日に、ボルシェヴィキ指導部の上層は、モスクワに対して、政府の政策を防衛するよう煽り立てた。
 大量殺戮に対する関心と嫌悪感の表明や実際にあったような人間の生命を救おうとする試みは、第二ランクのボルシェヴィキ党員、中でもM. S. Omninskii、D. B. Riazanov、E. M. Iaroslavskii によって行なわれた。但し、事態の推移にはほとんど影響を与えなかった。(脚注3)
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 (脚注3) 1918年11月、尊敬すべきアナキスト理論家のPeter Kropotkin が、テロルに抗議するためにレーニンと逢った。Lenin, Khronika, VI, p.195. 彼は、1920年に、人質を取るという「中世的」実務に反対する感情のこもった願いを書いた。G. Woodcock & I. Avakumovic, The Ancient Prince(London-New York, 1950), p.426-7.
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 (19) 初期段階での赤色テロルは、奇妙なことに、ボルシェヴィキが最初から反体制の暴力行為の元凶だと見なしてきた政党を攻撃しなかった。社会主義革命党(エスエル)だ。
 モスクワがエスエルに向かわなかったのは、エスエルが農民に支持されていたからか、白軍との戦闘で彼らの支援を必要としたからか、あるいはボルシェヴィキ指導者に対するテロルの波を却って煽るのを怖れたからか。いずれにせよ、ボルシェヴィキは、エスエルの人質たちを逮捕して射殺すると脅かしはしなかった。
 いわゆる赤色テロルのレーニンの時代に、ただ一人のエスエル党員だけが、モスクワで処刑された。(注91)
 チェカの犠牲になった者の大多数は、〈旧体制〉の者たち、ふつうの裕福な市民で、これらの多数はボルシェヴィキによる苛酷な弾圧を是認していた。
 収監されつつ、ボルシェヴィキによる抑圧を称賛した保守的な官僚や帝制時代の将校がいた、とする証拠資料がある。このような厳格な措置こそがロシアを混乱から抜け出させ、ロシアを再び大国にする、と考えていたのだ。(注92)
 すでに〔第12章で/試訳者〕記したように、君主制主義者のVladimir Purishkevich は、1918年春に、宥和的な調子で、共産党体制を、臨時政府よりもかなり「堅固だ」(firm)として称賛した。(注93)
 チェカはその犠牲者をこのような者たち—政治的な無害者および場合によっては支持者ですら—から選んだ、ということによって、次のことが確認される。すなわち、赤色テロルの目的は、特定の反対派を殲滅させるというよりも、一般的な威嚇の雰囲気を作り出すことであり、その目的のためにはテロルの犠牲者の考え方や活動ぶりは二次的に考慮されるにすぎなかった。
 ある意味では、テロルが非合理的であればあるほど、それだけ有効になった。テロルは、まさに合理的な検討を見当違いのものにし、人々を畜群の地位へと落とし込むからだ。
 Krylenko は、こう言った。—「有罪者だけを処刑してはならない。無実の者の処刑こそが、大衆にとっていっそう印象深いものにする。」(注94)
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 第七節、終わり。第八節へ。