Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始②。
 (10) 第一の布令は、人質(hostage)をとるという実務を制度化した。(脚注1)
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 (脚注1) 人質(hostage)について最初に言及したのは、1917年11月11日のトロツキーの演説だ。収監されている軍隊のカデットは、人質になるだろう、と彼は言った。—「我々が敵の手に落ちたならば、…労働者と兵士の各1人ごとに、我々は5人のカデットを要求することになる」。Izvesti
ia, No. 211(1917年11月12日), p.2.
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 これは、野蛮な手段で、最も暗黒の時代への回帰だった。第二次大戦後の国際司法裁判所ならば、戦争犯罪だと断定しただろう。
 チェカによる人質は、ボルシェヴィキ指導者に対する将来の攻撃またはボルシェヴィキ支配に対するその他の何らかの積極的な反抗への報復として実行されるものとされた。
 実際に、人質たちは昼夜を問わず射撃隊の前に並んでいた。
 このような虐殺を公式に裁可したのが、内務人民委員であるGrigorii Petrovskii の署名のある、1918年9月4日の「人質に関する命令(Order)」だった。これは、赤色テロル布令の1日前に発せられ、全ての州のソヴェトへと電信で伝えられた。
 「Volodarskii の殺害、Uritskii の殺害、人民委員会議議長のVladimir Ilich LENIN に対する殺害および傷害の企て、フィンランド、ウクライナでの、Don 地域での、およびチェコスロヴァキア(に支配された地域)での我々の同志数万人の大量処刑、我々の軍隊の後方での陰謀の継続的な発見、これらの陰謀についての右翼エスエルやその他の反革命的な(陰謀に関与している)くずども(scum)による公然たる承認、そして同時に、ソヴェトによる白衛隊兵士やブルジョアのきわめて少数の厳格な抑圧や処刑。
 これらが示すのは、エスエル、白衛隊兵士およびブルジョアジーに対する大量テロルに関する恒常的な話にもかかわらず、テロルは実際には存在しない、ということだ。//
 このような状況は、断固として終わらせなければならない。
 怠慢と寛容は、ただちに止めなければならない。
 地方ソヴェトに知られる全ての右翼エスエルが、ただちに逮捕されなければならない。
 ブルジョアジーと官僚たちの中から多数の人質をとることが、必要だ。
 白衛隊に抵抗して撹乱する企てがあった場合には、どんなに小さいものであっても、ただちに大量処刑の措置がとられなければならない。
 地方の州ソヴェトの執行委員会は、この点に関して特別の主導性を発揮すべきだ。//
 行政官署は、軍団やチェカを用いて、偽名の背後に隠れている全ての者を識別して逮捕する、あらゆる手段を講じなければならない。
 白衛隊の活動に関与する全ての者は、義務的な処刑に服さなければならない。//
 以上の全ての措置は、ただちに実行されるものとする。
 この点に関する地方ソヴェトの諸機関の優柔不断な行動は、ただちに連絡されなければならない。…内務人民委員部に対して。//
 労働者階級と貧しい農民層の権力に反抗する全ての白衛隊や卑劣な陰謀者は、我々の軍隊の後方から、最終的にかつ完全に排除されなければならない。
 大量テロルを行なうに際して、些かの躊躇も、些かの優柔不断さも、あってはならない。//
 前述の電報の受理を確認せよ。〈uezd〉(地区)のソヴェトに伝えよ。
 内務人民委員、Petrovskii。」(注80)
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 (11) この異常な文書は、特定の犠牲者に対する「怠慢と寛容」と称するもの—別言すると人間的優しさ—に対する制裁で脅迫したうえで、無差別のテロルを許容したのみならず、要求した。
 ソヴェトの官僚たちは、大量殺害を実行するか、それとも「反革命」への共謀として追及される危険を冒すか、を選ぶことが要求された。
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 (12) 第二の布令は、ソヴナルコム(人民委員会議)によって是認され、司法人民委員のD. Kurskii が署名した「決議」を1918年9月5日に採択することによって、赤色テロルを制度化した。(注81)
 この布令は、こう述べた。ソヴナルコムは、チェカ長官からの報告を聞いて、テロル政策を強化することが必須だ、と決定した。
 体制の「階級敵」は、強制収容所(concentration camps)に隔離されなければならず、白衛隊組織、陰謀者および反乱的行動[miatezh]と関係をもつ全ての者は、すみやかに処刑される必要がある。
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 (13) 共産党の文書資料や歴史的文献は、これらの命令の起源について、沈黙のままで通り過ぎている。これらをソヴィエトの布令集の中に見出すことはできない。
 レーニンの名前は、周到に、これらと無関係だとされてきた。人質取りは階級戦争にとってきわめて重要だと強く主張した、と知られているけれども。(注82)
 では、誰が、これらの布令の執筆者だったのか?
 表面的には、レーニンは当時は出血によって体調が悪かったので、国家に関係する仕事に関与することができなかった。
 だが、二人の人民委員がこのように重要な措置を、レーニンの明確な是認なくして決定することができた、と信じるのは困難だ。
 赤色テロルを開始する二つの布令をレーニンが裁可した、という疑念は、つぎの事実によって支持される。すなわち、9月5日に彼は、ロシア・ドイツ関係に関する瑣末な布令に何とか署名をすることができた。(注83)
 その署名の存在がレーニンの個人的な関与を、決定的に証明するわけではない。そうであっても、少なくとも、彼の身体上の不可能性を反対証拠として持ち出すことを否定することはできる。
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 (14) 8月31日、上記のような趣旨の公式の命令が発せられる前であっても、Nizhnii Novgorod のチェカは、「敵の陣営」から来た者と特定された41人の人質を検挙し、射殺した。
 犠牲者の名簿は、彼らは主に元将校、「資本主義者」、聖職者だったことを示していた。(注84)
 ジノヴィエフは、ペテログラードで、まるでレーニンが彼を「優しさ」のゆえに叱責する場合に備えるがごとく、512人の人質の略式処刑を命じた。
 処刑された者の中には、〈旧体制〉と関連して監獄に数ヶ月のあいだ収容されていた、したがって、ボルシェヴィキの指導者に対するテロリスト的襲撃と何の関係ももち得ない、そういう多数の人々が含まれていた。(注85)
 Dzerzhinskii は、モスクワで、1917年以来ずっと収監されていた旧帝制政府の何人かの高官たちの処刑を命じた。処刑された者の中には、1人の司法大臣(I. G. Shcheglovitov)、3人の内務大臣(A. N. Khvostov, N. A. Maklakov, A. D. Protopopov)、1人の警察部署の長官(S. P. Beletskii)、および司教(bishop)がいた。
 したがって、こうした殺害は、これらの者が司法や警察に責任をもっていたあいだにDzerzhinskii が収監されて過ごした苛酷な年月に対する報復だった、という印象から逃れることはできない。(脚注2)
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 (脚注2) 同様の現象は、15年後にドイツで観察されることになる。ナツィスが権力を掌握したとき、SAのメンバーはしばしば、個人的な敵を攻撃するために選抜し、拷問にかける。その中には、ワイマール共和国で彼らに判決を下した裁判官たちもいた。Andrzej Kaminskii, Konzentrationslager 1896 bis heute: eine Analyse(Stuttgart, 1982), p.87-88.
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 ③へ。