Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)
 「第18章・赤色テロル」のつづき。
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 第七節/赤色テロルの公式の開始①。
 (01) ボルシェヴィキは、権力を掌握した日から、テロルを実行した。権力を増すにつれて、そして彼らの人気が落ちてくるにつれて、テロルは激しくなった。
 1917年11月のカデット党員の逮捕、それに続いたカデット指導者のKokoshkin とShingarev の罰せられなかった殺害は、テロル行為だった。立憲会議の閉鎖と立憲会議を支持した示威行進者の射殺がそうだったように。
 赤軍兵団と1918年春に解散してボルシェヴィキを権力外に置こうと票決したソヴェトを都市から都市へと乱暴に扱った赤衛隊は、テロル行為をやらかしていた。
 主として1918年2月22日のレーニンの布令により与えられた権限にもとづき州および地区のチェカが実行した処刑は、テロルを新しい段階の激烈さにまで押し上げた。当時にモスクワに住んでいた歴史家のS. Melgunov は、プレスの記事から、1918年前半に行なわれた882の処刑に関する証拠資料を一冊にまとめた。(注73)
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 (02) しかしながら、初期のボルシェヴィキによるテロルは、のちの内戦中の白軍のテロルにむしろ似た非体系的なもので、また、犠牲者の多くは「投機者」を含む通常の犯罪者だった。
 ボルシェヴィキの状勢が底をついていた1918年の夏にようやく、テロルは体系的で政治的な性格を帯び始めた。
 チェカは、7月6日の左翼エスエルに対する弾圧のあとで、初めての大量処刑を実行した。その犠牲者は、その前月に逮捕されていたSavinkov の秘密組織のメンバーや、左翼エスエルの蜂起への参加者だった。
 モスクワのチェカ役員会から左翼エスエルを追放することによって、政治警察に対する最後の制約が除去された。
 7月半ば、Iaroslavl の蜂起(uprising)に加わっていた多数の将校たちが、射殺された。
 チェカは、軍事的陰謀に怖れ慄いて、旧軍隊の将校たちを探索し始め、審判手続なしで、彼らを処刑した。
 Melgunov の記録によれば、主としてチェカが、1918年7月だけで、1,115の処刑を実行した。(注74)
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 (03) 皇帝家族とその縁戚者の殺害は、テロルのいっそうの拡大を示した。
 チェカの組織員は今や、収監者や容疑者を意のままに射殺する力をもつことを誇った。但し、その後のモスクワによる苦情から判断すると、州当局は必ずしもつねに彼らの力を利用したわけではなかった。
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 (04) レーニンは、このような政府によるテロルの激化にもかかわらず、なおも満足しなかった。
 彼は、「大衆」をこのようなテロルに巻き込もうと考えていた。おそらくは、政府機関の者と民衆の両者を巻き込む組織的殺戮(pogrom)こそがこの両者をお互いに近密にするのに役立つ、と思ったからだ。
 彼は、共産党員官僚と市民たちがより断固として行動すること、殺害に対する抑制感を排除すること、を強く求めつづけた。
 他にどのようにすれば、「階級戦争」は現実のものになるのか?
 1918年の2月に早くも、レーニンは、ソヴィエト体制は「穏やかすぎる」という不満を述べていた。彼が欲したのは「鉄の権力」だった。ところが実際には、「異様に柔軟で、どの段階ででも鉄ではなくゼリーのようだ」というわけだ。(注75)
 ペテログラードの党官僚が、労働者がVolodarskii 暗殺に対する報復として虐殺を行なうのを制止した。このことを1918年6月に聞いて、レーニンは烈火のごとく憤慨し、かれの副官にに怒りの手紙を送った。
 「ジノヴィエフ同志!
 中央委員会は、今日ようやく、ペテログラードでは〈労働者たち〉がVolodarskii の殺害に対して大量のテロルでもって反応しようとしたこと、きみ(きみ個人ではなくペテログラード中央委員会または地域委員会)はそれを却下したこと、を知った。
 私は、断固として抗議する!
 我々は体面を傷つけている。ソヴェトの決議によって大量テロルで脅かしても、それを行動に移すときでも、我々は、大衆の〈全体として〉正しい革命的な主導性を〈邪魔して〉いる。
 こんなことは、許-され-ない!。」(注76)
 レーニンは、2ヶ月後に、Nizhnii Novgorod の当局に対して、「〈ただちに〉大量テロルを始め、〈数百人の〉売春婦、泥酔した兵士、元将校、等々を〈処刑し、放逐する〉」ことを指示した。(注77)
 ここでの恐ろしくも不正確な三文字—「等々(etc.)」—は、体制の組織員に対して、犠牲者を自由に選択することを認めた。それは、体制がもつ不屈の「革命的意思」表現するものとしての、大量虐殺のための大量虐殺(carnage)であるべきだった。その「革命的意思」は、脚元で崩れつつあった。
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 (05) テロルは、政府による村落に対する戦争の宣言に関連して、地方へも広がった。
 労働者に「クラク」を殺すことを奨励するレーニンの言葉を、すでに引用した。
 自分たちの穀物を食糧派遣隊から守ろうとして1918年の夏と秋に殺された農民について、その大まかな数ですら知るのは、不可能だ。
 政府の側での犠牲者の数が数千人になるとすれば、もっと少なかったということはあり得ないだろう。
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 (06) レーニンの仲間たちは、革命の教条のために民衆を殺害させ、殺害に関与させることが高貴で高揚させるものであると、明確に残酷な行為の用語法を用いて、誘い込むことについて、お互いに競い合った。
 例えば、トロツキーは、ある場合に、赤軍へと徴用した元帝制将校の誰かが背信的な行動をしたとしても、「特別な場所以外に何も残らないだろう」と警告した。(注78)
 チェキストのLatsis は、「内戦の法」はソヴィエト体制に反抗して闘う「全ての負傷者を殺戮すること」だ、と宣告した。「生か死かの闘いだ。きみが殺さなければ、殺されるだろう。だから、殺されないように、殺せ。」(注79)
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 (07) フランス革命ででも、白軍の側でも、このような大量殺戮の奨励は、聞かれなかった。
 ボルシェヴィキは、意識的に、市民を残虐にすること、前線の兵士が敵の軍服を着た者を見るのと同じように、つまり人間ではなく抽象物を見るように、仲間の市民の誰かを見させること、を追求した。
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 (08) 銃弾がUrirskii とレーニンを襲ったときまでに、殺害志向の精神状態は、きわめて高度の激烈さを達成していた。
 上の二つのテロリストの行為—判明したように関連性はないが、当時は組織的陰謀の一部と見なされた—は、形式的な意味での赤色テロルを解き放った。
 犠牲者の多数は、主に社会的背景、裕福さ、および旧体制との関係を理由として、適当に手当たり次第に、選ばれた人質だった。
 ボルシェヴィキは、こうした大虐殺は体制に対する具体的な脅威を抑圧することのみならず、市民を脅迫し、市民を心理的な屈服状態に陥らせるためにも必要だ、と考えた。
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 (09) 赤色テロルが公式に始まったのは、内務人民委員と司法人民委員の署名付きで9月4日と5日に発せられた、二つの布令によってだった。
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