Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第六節/事件の背景とレーニン崇拝の始まり①。
 (01) レーニンの生命を狙う企てに至るテロリストの陰謀の詳細は、ようやく3年後にチェカに知られるようになった。なお、判明したところでは、トロツキーその他のソヴィエトの指導者の生命も狙われていた。
 この情報の主要な源は、老練なエスエルのテロリスト、G. Semenov(Vasilev)だった。
 Semenov は外国へ出ていたが、考えを変えて1921年にロシアに帰った。ロシアで、かつての仲間を裏切り、非難した。
 彼の宣誓供述書は、疑いなくある程度は粉飾されているが、のちに、1922年の社会革命党に対する裁判で、ボルシェヴィキの訴追者によって利用された。(58)
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 (02) 最大限に判断できるところでは、エスエルの闘争組織(Combat Organization)は、1918年の初めにペテログラードで活動を再開した。
 この部隊は、一部は知識人で一部は労働者の14人で構成され、しばらくの間、ジノヴィエフとVolodardkii を尾行していた。
 1918年6月、隊員の一人、労働者のSergeev が、Volodarskii を暗殺した。
 このテロリストは、エスエル中央委員会の裁可を得ることなく、独自に、地下活動を行なった。
 1918年の春、ボルシェヴィキ政府がモスクワに移った後で、闘争組織の何人かの隊員も、これに従った。
 彼らは、最初の犠牲者としてトロツキーを選んだ。彼は戦争遂行を指揮していることから、その死はボルシェヴィキの教条に最大の影響を与える、と考えたからだ。
 レーニンは、その後だとされた。
 帝制時代の官僚に対して行なわれた方法を採用して、隊員たちは、犠牲者の行動様式を判断するために、対象をこっそり追跡した。
 トロツキーはモスクワと前線の間をたびたび、かつ予測させないで、行き来している、ということが分かった。そのゆえに、Semenov がのちに説明するように、「技術的な理由で」、先ずレーニンを処置することが決定された。
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 (03) 彼らは、この任務を実行する前に、エスエル中央委員会の承認を求めた。
 この頃までにほとんどのエスエル指導者はSamara に移動していたが、Abraham Gots を長とする委員会の支部が、モスクワに残っていた。
 Gots ともう一人の委員会委員のD. Donskol は、レーニンの生命を狙う企てに裁可を与えるのを拒んだ。だが、党を巻き込むことなく、「個人的」な行為として行なわれるかぎり、反対しない、と言った。
 彼らはまた、党はレーニン殺害を否認しないだろう、と約束した。
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 (04) Semenov は、計画を練っているあいだに、Fannie Laplan と二人の仲間が同じ目標を目ざして独立に動いていることを知った。
 Kaplan からは、断固とした「革命的テロリスト」という印象を受けていた。これを言い換えると、自殺しそうな(suicidal)タイプだった。
 彼はKaplan を、自分の組織に加わるよう誘った。
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 (05) Semenov は、労働者の集会にレーニンが現れるのを追跡するために、モスクワを4つの地区に分けた。そして、各地区に、彼の組織の2人ずつを割り当てた。一人は観察者(dezhurnyi)、もう一人は「処刑者」(ispolnitel’)として行動する。
 前者は、いつ、どこで、レーニンが演説するかを知るために、群衆の中に混じることとされた。
 そして、これらの情報を得るとすぐに、区域内の中心部で待つ「処刑者」に連絡するものとされた。
 こうした準備は、1918年8月に行なわれた。この頃、Samara のエスエルは、チェコ軍団に対する軍事的勝利を利用して、ロシア全体に対する権威を主張していた。
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 (06) レーニンは、8月16日金曜日に、党のモスクワ委員会の集会で演説した。だが、何らかの不手際があって、Semenov の観察者はその集会に加わることができなかった。
 つぎの金曜日、レーニンは、このときはPolytechnic 博物館で、再び演説した。
 レーニンの登場に関する情報が伝えられ、群衆が現われた。
 このときは全てが計画どおりに進んだが、「処刑者」が怖気づいた。この者を、Semenov はすみやかに闘争組織から追放した。
 Semenov は、さらにつぎの金曜日、8月30日、に関する情報を得た。レーニンはこの日、南部地区に一回か二回、現われるだろう。
 Semenov は、今度は何も間違いが起きないように、この地区に最も信頼の措ける2人を配置した。一人は、観察者として行動する、熟練のテロリストで労働者のNovikov、もう一人は処刑者であるKaplan。
 エスエルのテロリストの伝統に従って、Kaplan は、自分が選択したもののために生命を捨てるつもりでいた。Novikov に、レーニンを撃った後で自分は自首する、と言った。
 しかしながら、彼女が気持ちを変えた場合に備えて、Novikov は別の者を雇って待機させていた。
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 (07) 8月30日の午後、Kaplan は、Serpukhovskii 広場で任務に就いた。
 バッグの中に弾丸を込めたBrowning 銃を入れて、運んだ。三発の銃弾には十字状の刻みがあり、その中にインドの致死性の毒、curare が塗られていた。(脚注1)
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 (脚注1) このことは、医師たちがレーニンの首から銃弾を除去し、首の上に十字架のような形の切り込みを発見した1922年4月に、確認された。P. Posvianskii, ed., Pokushenie na Lenina 30 avgusta 1918 g., 2 ed.(Moscow, 1925), p.64. しかし、医療小記事には論及がないので。毒は有効性を失っていたようだ。
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 (08) Novikov は、レーニンがMikhelson 工場で演説することを知った。
 Kaplan は、この情報が正確であることを確かめるために、レーニンの個人的運転手に尋ねた。その後で、彼女は、建物に入り、出口の近くに立った(別の文献では、中庭で待った)。
 出口につながる階段で事故を演じたのは、Novikov だった。Kaplan がレーニンに近づくのを邪魔されないよう、わざと、群衆の中へ背中から落ちた。
 回転銃が火を噴いたあと、Kaplan は、自首するという約束を忘れていたようで、本能的に走り去った。だが、止まって、抵抗しないで逮捕された。
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 (09) 9月6日、〈プラウダ〉は、エスエル党中央委員会の簡単な声明を掲載した。その声明は、党と全党員を代表して、レーニンの声明を狙ういかなる企てとも関係がない、と主張した。
 これはSeminov がGottおよびDonskoi と結んだ協定を破るもので、テロリストの気持ちをひどく挫いた。
 彼らは、トロツキーを狙っていた。トロツキーが前線に向かっていたからだが、彼は、列車を変更して、最後の瞬間で回避した。
 組織を維持すべく、ソヴィエトの施設の「収用」をいくつか実行した。だが、彼らの意気は沈みつづけた。とくに、ボルシェヴィキが白軍との戦闘で主導権を再び握ったあとでは。
 1918年の末までのどこかで、彼らの「闘争組織」は解体した。
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 (10) レーニンは、目覚ましい早さで、回復した。
 これによって、彼の身体組成と生きる意思の強さが証明されているだろう。だが、仲間たちにとっては、超自然的な性質が示唆されていた。
 まるで、神それ自身がレーニンを生かせ、彼の教条を勝利させようと意図しているかのごときだった。
 レーニンは、ある程度体調が回復するとすぐに、仕事を再開した。だが、働きすぎて、逆戻りした。
 9月25日に、医師の強い勧めに従って、彼とKrupskaia はGor ki へ向かった。
 そこで、回復を待ちながら三週間を過ごした。
 レーニンは、事態の推移を気にし続け、何かを書いていたけれども、国家の日々の業務を他者に任せていた。
 彼に逢うことが許された数少ない訪問者の一人は、Angelica Balabanoff、古くからの同志でZimmerwald 会議への出席者、だった。
 Balabanoff が思い出すように、彼女がFannie Kaplan の処刑を話題にしたとき、Krupskaia は「取り乱し」た。
 のちに、女性二人だけのとき、Krupskaia は処刑について苦い涙を流した。
 Balabanoff は、レーニンはその件を話題にしたくなかった、と感じた。(注59)
 この当時はまだ、仲間の社会主義者を処刑することについて、ボルシェヴィキには当惑する想いがあった。
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 (11)  10月14日に、レーニンはモスクワに戻った。
 10月16日、党中央委員会の会議に出席し、その翌日にソヴナルコムの会合に出た。
 彼が順調に回復していることを周知させるために、クレムリンの中庭に動画用カメラが持ち込まれ、Bonch-Bruevuch と会話しているところが撮影された。
 10月22日、レーニンは初めて公共の場に姿を見せ、その後で、全日の仕事を再開した。
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 ②につづく。