Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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第五節/レーニン暗殺未遂①。
(01) ロシア皇帝ならば、いかに過激なテロリズムのもとでも、レーニンほどには生命の危険を怖れなかった。また、皇帝は、レーニンほどには十分に警護されなかった。
皇帝たちは、ロシアや外国を旅行した。彼らは公的行事を楽しみ、姿を現わした。
レーニンは、四六時中ラトヴィア人ライフル部隊に警護されて、クレムリンの煉瓦の壁の中に隠れていた。
ときに市内へ行くとき、通常は事前の告知はなかった。
1918年3月に首都がモスクワに移動したときと1924年の彼の死のあいだ、レーニンは、革命の勝利の舞台だったペテログラードをわずか二回しか再訪せず、国を見たり民衆と交流したりするためには一度も旅行しなかった。
彼が最も遠くまで出かけたのは、モスクワの近くの村のGorki で静養するためにRolls-Royce で旅したときだった。静養したGorki の場所は、レーニンが使うために徴発されていた。
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(02) トロツキーは、より大胆だった。司令官に話すためにしょっちゅう前線へ行き、暗殺の企てを空振りさせるために頻繁に予定と日程を変更した。
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(03) 1918年9月以前は、レーニンやトロツキーの生命を狙う深刻な暗殺の企ては行なわれなかった。それ自体が秀れたテロリストの党であるエスエルが、ボルシェヴィキに対する積極的な抵抗に反対していたからだ。
エスエルが皇帝やその官僚層に対抗して用いた手段に訴えようとしなかったことは、二つの考慮に由来していた。
第一は、エスエル指導部が、時勢は自分たちの側にあり、じっと耐えて、ロシアに民主主義が復活するのを待つことが肝心だ、と考えたことだ。
彼らの見方によれば、ボルシェヴィキの指導者を殺害することは確実に、反革命の勝利につながる。
第二は、ボルシェヴィキによる報復と大虐殺を恐れたことだ。
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(04) 全てのエスエル党員がこの考え方だったのではなかった。
党中央委員会の是認を得てまたは得ないで、ボルシェヴィキに対抗して武器を取る気持ちの者もいた。
1918年の夏、モスクワのチェカのまさに鼻先で、このようなグループの一つが形成され始めた。
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(05) モスクワの様々な場所で、金曜日の午後か夕方に、労働者や党員に向けて演説を行なうのは、レーニンを含むボルシェヴィキの指導者たちの習慣だった。
レーニンが登場することは、通常は事前には発表されなかった。
8月30日、金曜日、レーニンは、二つの集会に出席する予定だった。一つは、Basmannyi 地区の穀物日用品販売所の建物で、もう一つは、市の南部にあるMichelson 工場で。
その日の早くに、ペテログラード・チェカの主任、M. S. Uritskii が射殺された、という報せが届いた。
暗殺者はユダヤ人の青年のL. A. Kannegisser で、穏健な人民社会党の党員だった。
のちに、彼は友人の処刑に復讐するために自分で行動した、ということが明らかにされた。
しかし、そのときは知らされず、おそらくはテロリストの組織的行動が進行している、という恐怖が巻き起こった。
憂慮した家族がレーニンに出席を控えるよう迫ったが、彼はいつもと違って、危険に向き合うことを選んで、信頼する運転手のS. K. Gil が運転する車で市内へ向かった。
彼はまず、穀物日用品販売所に現われ、そこからMichelson 工場へと進んだ。
聴衆は半分はレーニンを期待していたけれども、彼が来るのが確実になったのは、自動車が中庭に入ってきたときだった。
レーニンは、西側の「帝国主義者たち」を攻撃するいつもの用意された演説を行なった。
彼は、「死ぬか勝利するかだ」という言葉で結んだ。
Gil がのちにチェカに語ったところによると、レーニンが演説しているあいだ、白い服を着た女性がやって来て、レーニンは内部にいるのかと尋ねた。
彼は、捉え難い曖昧な返事をした。
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(06) レーニンが密になった群衆を抜けて出口に向かっていたとき、彼のすぐ後ろの誰かが滑って倒れて、群衆を塞いだ。
レーニンは、数人を従えて、中庭に入った、
まさに車に乗ろうとしたとき、一人の女性が接近して、パンが鉄道駅で没収されたと不満を言った。
レーニンは、パンに関するその実務を止めるよう指示がなされている、と言った。
動いている踏み板に足を乗せたとき、三発の射撃音が響きわたった。
Gil は、振り向いた。
彼は、数歩離れた場所から銃撃した人物がレーニンについて調べていた女性だと認識した。
レーニンは、地上に倒れた。
パニックに襲われた見物者たちは、四方に逃げ去った。
Gil は、回転銃を取り出して、暗殺者を追って走った。だが、彼女を見失った。
中庭に残っていた子どもたちは、彼女が逃げ去った方向指し示した。
数人だけが、彼女を追っていた。
彼女は走りつづけたが、突然に立ち止まり、追跡者に対して顔を向けた。
逮捕され、Lubianka のチェカ本部に連れていかれた。
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(07) レーニンは意識のない状態で車の中に運び込まれ、車は最高の速さでクレムリンへと急いだ。
医師が、呼ばれた。
そのときまで、レーニンは、ほとんど動くことができなかった。
彼の心拍は微かになり、大量の血を流していた。
レーニンは、死にかけているように見えた。
医師の検査によって、二カ所の傷が明らかになった。一発の銃弾は比較的に無害で、腕の中にとどまっていた。もう一発は潜在的に致命的で、顎と首の連結部にあった。
(のちに知られたが、第三の銃弾はレーニンが狙撃されたときに彼と会話していた女性に当たっていた。)
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(08) つづく数時間、テロリストはチェカの機関員によって5つの尋問を受けていた。(脚注1)
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(脚注1) これらの尋問の調書は、PR, No.6-7(1923年)p.282-5 に公表された。Peters によると、何を意味しているのであれ、主要な尋問者、現存する事件の記録は「きわめて不完全」だった。〈Izvestiia〉, No.194/1, 931(1923年8月30日), p.1.
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彼女はほとんど口を開かなかった。
名前は、Fannie Efimofvna Kaplan。生まれ名は、Feiga Roidman またはRoitblat。
父親は、ウクライナで教師をしていた。
少女のときにアナキストに加わっていたことが、のちに知られた。
アナキストがKiev の知事を殺害するために彼女の部屋で組み立てていた爆弾が爆発したとき、16歳だった。
野戦軍事法廷は彼女に死刑判決を下し、そのあと無期の重労働刑に変更した。この判決に、彼女はシベリアで服した。
そこでSpiridonova その他の確信あるテロリストと遭遇し、彼らの影響を受けて、エスエルに加入した。
1917年の早くに、政治的恩赦を受けて、中央ロシアに戻った。最初はウクライナ、あとでクリミアに住んだ。。それまでに、彼女の家族はアメリカ合衆国に亡命していた。
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(09) 宣誓供述書によると、彼女は、1918年2月に、立憲会議の解散と接近しているブレスト=リトフスク条約の締結に報復するために、レーニンを暗殺することを決めた。
だが、レーニンに対する反感は、もっと深い所にあった。彼女は、チェカにこう言った。
「レーニンは裏切り者だと考えているので、射撃した。
彼は、数十年で実現するはずの社会主義の考えを延期した。」
さらに、こうも言った。どの政党にも帰属していないが、Samaraの立憲会議委員会に共鳴する、Chernov が好きで、ドイツに対抗するイギリスとフランスの同盟に賛成だ。
彼女は、仲間の存在を一貫して否定し、誰から銃砲を与えられたかを言うのを拒んだ。(脚注2)
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(脚注2) その銃、Browning 銃は、犯罪の場所から消失した。1918年9月1日に〈Izvestiia〉(No.188/452, p.3)は、この銃の存在場所に関する情報を求めるチェカの声明を掲載した。
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②へ。
「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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第五節/レーニン暗殺未遂①。
(01) ロシア皇帝ならば、いかに過激なテロリズムのもとでも、レーニンほどには生命の危険を怖れなかった。また、皇帝は、レーニンほどには十分に警護されなかった。
皇帝たちは、ロシアや外国を旅行した。彼らは公的行事を楽しみ、姿を現わした。
レーニンは、四六時中ラトヴィア人ライフル部隊に警護されて、クレムリンの煉瓦の壁の中に隠れていた。
ときに市内へ行くとき、通常は事前の告知はなかった。
1918年3月に首都がモスクワに移動したときと1924年の彼の死のあいだ、レーニンは、革命の勝利の舞台だったペテログラードをわずか二回しか再訪せず、国を見たり民衆と交流したりするためには一度も旅行しなかった。
彼が最も遠くまで出かけたのは、モスクワの近くの村のGorki で静養するためにRolls-Royce で旅したときだった。静養したGorki の場所は、レーニンが使うために徴発されていた。
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(02) トロツキーは、より大胆だった。司令官に話すためにしょっちゅう前線へ行き、暗殺の企てを空振りさせるために頻繁に予定と日程を変更した。
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(03) 1918年9月以前は、レーニンやトロツキーの生命を狙う深刻な暗殺の企ては行なわれなかった。それ自体が秀れたテロリストの党であるエスエルが、ボルシェヴィキに対する積極的な抵抗に反対していたからだ。
エスエルが皇帝やその官僚層に対抗して用いた手段に訴えようとしなかったことは、二つの考慮に由来していた。
第一は、エスエル指導部が、時勢は自分たちの側にあり、じっと耐えて、ロシアに民主主義が復活するのを待つことが肝心だ、と考えたことだ。
彼らの見方によれば、ボルシェヴィキの指導者を殺害することは確実に、反革命の勝利につながる。
第二は、ボルシェヴィキによる報復と大虐殺を恐れたことだ。
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(04) 全てのエスエル党員がこの考え方だったのではなかった。
党中央委員会の是認を得てまたは得ないで、ボルシェヴィキに対抗して武器を取る気持ちの者もいた。
1918年の夏、モスクワのチェカのまさに鼻先で、このようなグループの一つが形成され始めた。
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(05) モスクワの様々な場所で、金曜日の午後か夕方に、労働者や党員に向けて演説を行なうのは、レーニンを含むボルシェヴィキの指導者たちの習慣だった。
レーニンが登場することは、通常は事前には発表されなかった。
8月30日、金曜日、レーニンは、二つの集会に出席する予定だった。一つは、Basmannyi 地区の穀物日用品販売所の建物で、もう一つは、市の南部にあるMichelson 工場で。
その日の早くに、ペテログラード・チェカの主任、M. S. Uritskii が射殺された、という報せが届いた。
暗殺者はユダヤ人の青年のL. A. Kannegisser で、穏健な人民社会党の党員だった。
のちに、彼は友人の処刑に復讐するために自分で行動した、ということが明らかにされた。
しかし、そのときは知らされず、おそらくはテロリストの組織的行動が進行している、という恐怖が巻き起こった。
憂慮した家族がレーニンに出席を控えるよう迫ったが、彼はいつもと違って、危険に向き合うことを選んで、信頼する運転手のS. K. Gil が運転する車で市内へ向かった。
彼はまず、穀物日用品販売所に現われ、そこからMichelson 工場へと進んだ。
聴衆は半分はレーニンを期待していたけれども、彼が来るのが確実になったのは、自動車が中庭に入ってきたときだった。
レーニンは、西側の「帝国主義者たち」を攻撃するいつもの用意された演説を行なった。
彼は、「死ぬか勝利するかだ」という言葉で結んだ。
Gil がのちにチェカに語ったところによると、レーニンが演説しているあいだ、白い服を着た女性がやって来て、レーニンは内部にいるのかと尋ねた。
彼は、捉え難い曖昧な返事をした。
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(06) レーニンが密になった群衆を抜けて出口に向かっていたとき、彼のすぐ後ろの誰かが滑って倒れて、群衆を塞いだ。
レーニンは、数人を従えて、中庭に入った、
まさに車に乗ろうとしたとき、一人の女性が接近して、パンが鉄道駅で没収されたと不満を言った。
レーニンは、パンに関するその実務を止めるよう指示がなされている、と言った。
動いている踏み板に足を乗せたとき、三発の射撃音が響きわたった。
Gil は、振り向いた。
彼は、数歩離れた場所から銃撃した人物がレーニンについて調べていた女性だと認識した。
レーニンは、地上に倒れた。
パニックに襲われた見物者たちは、四方に逃げ去った。
Gil は、回転銃を取り出して、暗殺者を追って走った。だが、彼女を見失った。
中庭に残っていた子どもたちは、彼女が逃げ去った方向指し示した。
数人だけが、彼女を追っていた。
彼女は走りつづけたが、突然に立ち止まり、追跡者に対して顔を向けた。
逮捕され、Lubianka のチェカ本部に連れていかれた。
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(07) レーニンは意識のない状態で車の中に運び込まれ、車は最高の速さでクレムリンへと急いだ。
医師が、呼ばれた。
そのときまで、レーニンは、ほとんど動くことができなかった。
彼の心拍は微かになり、大量の血を流していた。
レーニンは、死にかけているように見えた。
医師の検査によって、二カ所の傷が明らかになった。一発の銃弾は比較的に無害で、腕の中にとどまっていた。もう一発は潜在的に致命的で、顎と首の連結部にあった。
(のちに知られたが、第三の銃弾はレーニンが狙撃されたときに彼と会話していた女性に当たっていた。)
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(08) つづく数時間、テロリストはチェカの機関員によって5つの尋問を受けていた。(脚注1)
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(脚注1) これらの尋問の調書は、PR, No.6-7(1923年)p.282-5 に公表された。Peters によると、何を意味しているのであれ、主要な尋問者、現存する事件の記録は「きわめて不完全」だった。〈Izvestiia〉, No.194/1, 931(1923年8月30日), p.1.
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彼女はほとんど口を開かなかった。
名前は、Fannie Efimofvna Kaplan。生まれ名は、Feiga Roidman またはRoitblat。
父親は、ウクライナで教師をしていた。
少女のときにアナキストに加わっていたことが、のちに知られた。
アナキストがKiev の知事を殺害するために彼女の部屋で組み立てていた爆弾が爆発したとき、16歳だった。
野戦軍事法廷は彼女に死刑判決を下し、そのあと無期の重労働刑に変更した。この判決に、彼女はシベリアで服した。
そこでSpiridonova その他の確信あるテロリストと遭遇し、彼らの影響を受けて、エスエルに加入した。
1917年の早くに、政治的恩赦を受けて、中央ロシアに戻った。最初はウクライナ、あとでクリミアに住んだ。。それまでに、彼女の家族はアメリカ合衆国に亡命していた。
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(09) 宣誓供述書によると、彼女は、1918年2月に、立憲会議の解散と接近しているブレスト=リトフスク条約の締結に報復するために、レーニンを暗殺することを決めた。
だが、レーニンに対する反感は、もっと深い所にあった。彼女は、チェカにこう言った。
「レーニンは裏切り者だと考えているので、射撃した。
彼は、数十年で実現するはずの社会主義の考えを延期した。」
さらに、こうも言った。どの政党にも帰属していないが、Samaraの立憲会議委員会に共鳴する、Chernov が好きで、ドイツに対抗するイギリスとフランスの同盟に賛成だ。
彼女は、仲間の存在を一貫して否定し、誰から銃砲を与えられたかを言うのを拒んだ。(脚注2)
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(脚注2) その銃、Browning 銃は、犯罪の場所から消失した。1918年9月1日に〈Izvestiia〉(No.188/452, p.3)は、この銃の存在場所に関する情報を求めるチェカの声明を掲載した。
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