Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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 第三節/チェカの起源。
 (01) チェカは、実質的に秘密に生まれた。
 保安機構を設置する決定—基本的には帝制時代の警察とOkhrana の復活—は、1917年12月7日にソヴナルコム(人民委員会議)によって採択された。これは、事務職の被用者によるストライキを意味する「サボタージュ」(sabotage)との闘いに関するDzerzhinskii の報告にもとづいていた。(脚注1)
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 (脚注1) <Iz istorii Vserossiiskoi Chrezvychainoi Kommissii 1917-1921 gg.>(Moscow, 1958), p.78-p.79. この趣旨の決議を採択した農民大会の圧力を受けて、ボルシェヴィキは軍事革命委員会を解散した(Revoliutsiia, VI, p.144)。チェカは、これの後継組織だった。
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 ソヴナルコムの決定は、このとき、公表されなかった。
 最初に活字で発表されたのは1924年で、虚偽の部分のある不完全なものだった。1926年により完全だが虚偽を含むものが、そしてようやく1958年に完全で真正なものが、明らかにされた(注33)。
 1917年には、ボルシェヴィキの新聞に、ソヴナルコムは「反革命およびサボタージュと闘う非常委員会」を設置した、役所はペテログラードのGorokhovaia 2番地に位置するだろう、という短い、二文だけが掲載された(注34)。
 この建物は革命前は、市長の事務局および警察の地方支部として使われていた。
 チェカの権能も、責任も、何ら説明されていなかった。
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 (02) ボルシェヴィキ政府が創設時にチェカの役割や権限を公表しなかったことで、チェカには不吉な効用が生じた。チェカがもとうと意図していた権限を要求するのが可能になったからだ。
 今では知られているが、チェカの使命は、帝制時代の保安警察を範として、国家に対する犯罪を捜査し、阻止することだった。
 チェカは、司法的権力を有しないものとされた。ソヴナルコムは、チェカが政治的犯罪の容疑者を訴追と判決のために革命審判所に引き渡すことを想定していた。
 チェカを設立する秘密の決定の関係条項には、つぎのように書かれていた。
 「(非常)委員会の任務 (1) ロシア全国で各区画での反革命と怠業の全ての試みと行為を抑圧し、絶滅すること。(2) 全ての怠業者と反革命者を革命審判所の法廷に引き渡し、彼らと闘う手段を考え出すこと。(3) 委員会は[反革命と怠業を]阻止するために必要な範囲内で、前審での審問のみを行なう。」(注35)
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 (03) 最初に発表された決定(1924、1926)では、一つの重要な言葉が変わっていた。
 今は知られているように、決定の原稿では「抑圧する」—「presekat」—という言葉が「pre-seklat」の省略形として用いられていた。
 最も早い発表では、この言葉は「presledovat」に変更され、これは「訴追する」を意味した(注36)。
 若干の文字の交換や置き換えは、チェカに司法的権限を与える、という効果をもった。
 スターリンの死後にようやく明らかになったこの偽作によって、チェカとその後継組織(GPU、OGPU、NKVD)には、非公開で行われる略式の手続で、政治的収監者に対して、死刑を含む全ての範囲の制裁を課す判決を下すことが認められた。
 ソヴィエトの保安警察はこの権限を剥奪された。このことは、1956年だけで数百万の生命に関係した。
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 (04) 通常は官僚主義的儀礼に几帳面なボルシェヴィキは、秘密警察に関しては、重大な例外を設けた。
 のちには体制を救ったと信頼されたこの機構には、長いあいだ、法的な立場がなかった(注37)。
 1917-18年の法令集では無視されていて、形式的な一体性をもっていなかった。
 これは、意図的な政策方針だった。
 1918年の初めに、チェカは、自らが承認した場合を除いて、チェカに関する情報を発表するのを禁止した(注38)。
 この差止め命令は厳格に守られたのではなかったが、チェカに関するそれ自身や社会での役割に関する一定の像を与えた。
 この点で、ボルシェヴィキは、正規の勅令なくしてロシアの最初の秘密警察、Preobrazhenskii の役所、を設置したピョートル大帝の先例に従っていた。(脚注2)
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 (脚注2) この機構は内密に設けられたので、歴史家は今日まで、これの設立を根拠づける布令の所在を突き止める、または発せられただろう大まかな時期を決定する、ということができていない。Richard Pipes, Russia under the Old Regime(London, 1974), p.130.
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 (05) チェカは、少人数の事務職員と若干の軍事部隊で出発した。
 三月に政府とともにモスクワへ移った。そこでは、Bolshaia Lubianka 11番地にあるIakor 保険会社の広い区画を利用した。
 このとき、わずか120人の被用者がいた、とされた。但し、本当の数字は600人近くだった、と見積もる研究者もいる(注39)。
 チェキストのPeters は、つぎのことを認めた。チェカは人員を新しく補充するのが困難だった。なぜなら、ロシア人には帝制時代の警察の像がまだ鮮やかで、「感情的に」反応し、旧体制の迫害と新しいそれとの区別がつかず、彼らは加入するのを拒んだからだ(注40)(脚注2)
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 (脚注2) 当時の多くの者が報告しているが、この混乱は一部は、看守を含む多くのチェカ被用者は帝制下でも同じ仕事に従事した、ということによるのかもしれない。
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 その結果として、チェカ活動家のうち高い割合を占めたのは、非ロシア人だった。
 Dzerzhinskii はポーランド人で、彼に近い同僚の多くはラトヴィア人、アルメニア人、ユダヤ人だった。
 チェカが共産党員の官僚や重要な収監者を守るために用いた警護者は、もっぱらラトヴィア人ライフル部隊から選抜された。ラトヴィア人はより冷厳で、賄賂をより受けにくいと考えられていたからだ。
 レーニンは、外国人たちへのこの信頼を強く支持した。
 Steinberg は、ロシア人の民族的性格へのレーニンの「恐怖」を思い出す。
 レーニンは、ロシア人には断固さがない、と考えた。彼はこう言ったものだ。「ロシア人は穏やかだ。穏やかすぎる。革命的テロルという過酷な手段を行使することができない。」(注41)
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 (06) 外国人を雇用することには、つぎのような利点が追加的にあった。すなわち、血縁の紐帯によって潜在的な犠牲者たちと結びつくのがなさそうであること、ロシアの地域共同体からの非難によって躊躇することはないこと。
 例えば、Dzerzhinskii は、強いポーランド民族主義の雰囲気の中で育ち、若いときは、ポーランド人に加えた迫害を理由として「ロシア人(Muscovites)全員を絶滅」させたかった(脚注3)
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 (脚注3) PR, No.9(1926), p.55. のちにレーニンは、彼とジョージア人のスターリンを、ロシア排外的愛国主義だと批判した。
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 ラトヴィア人は、ロシア人を軽蔑していた。
 Bruce Lockhart は、1918年9月にチェカに拘禁されていた短いあいだに、ラトヴィア人警護者が「ロシア人はのろくて汚い」、戦闘のときはいつも「彼らに失望した」と言うのを聞いた(注42)。
 ロシアの民衆にテロルを加える外国人をレーニンが信頼していたことは、イワン雷帝の実務を想起させる。イワン雷帝(Ivan the Terrible)のテロル装置であるOprichnina には、多数の外国人が、とくにドイツ人が、いた。
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 (07) 社会主義国の政治警察につきまとう悪評を除去するために、ボルシェヴィキは、政治的であるチェカの主要な任務を、通常の犯罪と闘う任務と結びつけようとした。
 ソヴィエト・ロシアには殺人、略奪、強盗が蔓延しており、市民たちはこれらをなくそうと必死だった。
 体制側はまた、新しい政治警察をより受け入れやすいものにするために、チェカに対して山賊行為や「投機」を含む通常の犯罪を撲滅減する責任を割り当てた。
 1918年6月のメンシェヴィキの日刊紙のインタビュー記事で、Dzerzhinskii はチェカには二つの任務があると強調した。
 「(チェカの任務は)ソヴィエト当局の敵および新しい生活様式に対する敵と闘うことだ。
 このような敵は、我々の政治的対抗者および蛮族、窃盗、投機者その他の社会主義秩序の基盤を破壊する犯罪者の双方だ。」(注43)
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 第三節、終わり。