Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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第一節/レーニンとテロル③。
(16) レーニンのJacobin 的確信の根源にあったのは、ボルシェヴィキが権力を維持してさらに拡張させるべきだとすれば、「ブルジョアジー」と烙印される「邪悪な」思想や関心が具現化したものを物理的に廃絶しなければならない、ということだった。
ボルシェヴィキは「ブルジョアジー」という言葉を大まかに二つの集団のために用いた。第一は、工業上の百万長者であれ余剰の農地をもつ農民であれ、出自や経済上の地位のおかげで「搾取者」として機能している者たち。第二は、経済的または社会的地位とは無関係に、ボルシェヴィキの政策に反対している者たち。
このようにして、主観的におよび客観的に、その者がもつ見解によって、「ブルジョア」に分類することができる。
レーニンが、内閣にいた頃についてのSteinberg の回想録に猛烈に怒った、という証言が存在している。
レーニンは1918年2日21日に、「危機にある社会主義の祖国」と称される布令案を内閣に提出した(注12)。
これの刺激になったのは、ブレスト=リトフスク条約に署名するというボルシェヴィキの失敗につづくドイツ軍のロシアへの前進だった。
布令案の文書は、国と革命を防衛するために立ち上がることを人々に訴えていた。
レーニンはその中に、「その場での」—すなわち裁判手続を経ないでの—処刑を認める条項を挿入した。処刑対象とされたのは、「敵の代理人、投機者、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイ」と烙印された、広くて曖昧な悪者の範疇に入る者たちだった。
レーニンは、布令への民衆の支持を得るために、通常の犯罪者(「投機者、押し込み泥棒、ごろつき」)に対する略式の司法手続を含ませた。民衆が犯罪に苦しんでいたからだが、レーニンの本当の狙いは、「反革命煽動者」と呼ばれる彼の政治的対立者たちだった。
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(17) 左翼エスエルは、このような措置を批判し、政治的対立者に対する死刑の導入に原理的に反対した。
Steinberg は、こう書く。
「私は、この残虐な脅迫は、宣言がもつ哀れみを殺してしまう、として反対した。
レーニンは嘲弄しつつ、こう答えた。
『逆に、ここにこそ本当の革命的哀れみがある。
まさに最も乱暴な革命的テロルなくして我々は勝利できると、きみは本当に考えているのか?』/
この点でレーニンと議論するのは困難だった。我々はすぐに、行き詰まった。
我々は、きわめて広い範囲に及ぶテロルの潜在的可能性がある厳格な警察の措置について討論した。
レーニンは、革命的正義という語を出して私の意見に対して怒った。
私は憤慨してこう言った。
『では、我々は何のために司法人民委員部を置いているのか?
率直に、<社会的絶滅のための>人民委員部と呼ぼう。そして、司法人民委員部はなくしてしまえ!』
レーニンの顔が突然に輝いて、彼はこう答えた。
『よし。…それはまさしく行なうべきことだ。…しかし我々は、そう言うことができない』」。(脚注)
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(脚注) Steinberg, In the Workshop, p.145. Steinberg は間違って、この布令の草案起草者をトロツキーだとしている。
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(18) レーニンは長い間ずっと赤色テロルを主導し、しばしばより人間的な同僚たちを甘言を用いて誘導しなければならなかったけれども、自分の名前をテロルと切り離そうときわめて大きな努力をした。
彼は全ての法令に自分の署名を付すことに執拗にこだわった。しかし、国家による暴力行使に関係する場合はいつでも、これを省略した。この場合に彼が好んだのは、(ボルシェヴィキ)中央委員会議長や内務人民委員その他の当局者が行なったとすることだった。そのような当局者の中には、偽って皇帝家族の虐殺の責任を取らせたUral 地方ソヴェトもあった。
レーニンは、自分が煽動した非人間的な行為が自分の名前と歴史的に結びつけられることを、懸命に避けようとした。
あるレーニンの伝記作家は、こう書く。
「彼は、テロルやLubianka 〔チェカ本部が所在する建物/試訳者〕その他の地下室での殺害を行なった個人的行為が自分自身とは切り離されて抽象的にのみ語られるよう、気を配った。…
レーニンは、自分はテロルから離れていると振る舞い続けたので、彼はテロルに積極的には関与していない、全ての決定はDzerzhinskii によって行なわれた、という伝説が生まれて、大きくなった。
これは、あり得ない伝説だ。なぜなら、レーニンはその性格上、重要な問題に関する権限を委ねることができない人間だったからだ。」(注13)
実際に、一般的な手続に関するものであれ重要な収監者の処刑に関することであれ、重要性をおびる全ての決定には、ボルシェヴィキの中央委員会(のちには政治局)の承認が必要だった。レーニンはその中央委員会の、永遠の事実上の議長だった(注14)。
赤色テロルは、レーニンの子どもだった。父親であることを必死で否定しようとしたのだったとしても。
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(19) この認知されていない子どもの保護者は、チェカの創設者であり監督者である、Dzerzhinskii だった。
この人物は、革命勃発時にほとんど40歳になっていた。Vilno の近くで、愛国的なポーランドの地主階層の家庭で生まれた。
その家庭の宗教的、民族主義的な継承物と決別し、リトアニア社会民主党に加入した。そして、職業的な革命組織家および煽動家になった。
帝制時代の監獄で重労働をしながら、11年を過ごした。
これは過酷な年月であり、彼の精神に拭い去ることのできない傷跡を残した。そしてそれは、癒すことのできない復讐への渇望とともに不屈の意思を形成した。
彼は、考え得る最も残虐な行為を、愉しみではなく理想家の義務として、行なうことができた。
レーニンの指示を、宗教的献身さをもって、無駄なくかつ素っ気なく、「ブルジョア」や「反革命者」を射撃部隊の前に送って、実行した。その際に、同じく愉しみのない強迫意識があったのだが、それは、数世紀前であれば異端者を火炙りの刑に処すことを命じたような意識状態だっただろう。
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第一節、終わり。
「第18章・赤色テロル」の試訳のつづき。
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第一節/レーニンとテロル③。
(16) レーニンのJacobin 的確信の根源にあったのは、ボルシェヴィキが権力を維持してさらに拡張させるべきだとすれば、「ブルジョアジー」と烙印される「邪悪な」思想や関心が具現化したものを物理的に廃絶しなければならない、ということだった。
ボルシェヴィキは「ブルジョアジー」という言葉を大まかに二つの集団のために用いた。第一は、工業上の百万長者であれ余剰の農地をもつ農民であれ、出自や経済上の地位のおかげで「搾取者」として機能している者たち。第二は、経済的または社会的地位とは無関係に、ボルシェヴィキの政策に反対している者たち。
このようにして、主観的におよび客観的に、その者がもつ見解によって、「ブルジョア」に分類することができる。
レーニンが、内閣にいた頃についてのSteinberg の回想録に猛烈に怒った、という証言が存在している。
レーニンは1918年2日21日に、「危機にある社会主義の祖国」と称される布令案を内閣に提出した(注12)。
これの刺激になったのは、ブレスト=リトフスク条約に署名するというボルシェヴィキの失敗につづくドイツ軍のロシアへの前進だった。
布令案の文書は、国と革命を防衛するために立ち上がることを人々に訴えていた。
レーニンはその中に、「その場での」—すなわち裁判手続を経ないでの—処刑を認める条項を挿入した。処刑対象とされたのは、「敵の代理人、投機者、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイ」と烙印された、広くて曖昧な悪者の範疇に入る者たちだった。
レーニンは、布令への民衆の支持を得るために、通常の犯罪者(「投機者、押し込み泥棒、ごろつき」)に対する略式の司法手続を含ませた。民衆が犯罪に苦しんでいたからだが、レーニンの本当の狙いは、「反革命煽動者」と呼ばれる彼の政治的対立者たちだった。
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(17) 左翼エスエルは、このような措置を批判し、政治的対立者に対する死刑の導入に原理的に反対した。
Steinberg は、こう書く。
「私は、この残虐な脅迫は、宣言がもつ哀れみを殺してしまう、として反対した。
レーニンは嘲弄しつつ、こう答えた。
『逆に、ここにこそ本当の革命的哀れみがある。
まさに最も乱暴な革命的テロルなくして我々は勝利できると、きみは本当に考えているのか?』/
この点でレーニンと議論するのは困難だった。我々はすぐに、行き詰まった。
我々は、きわめて広い範囲に及ぶテロルの潜在的可能性がある厳格な警察の措置について討論した。
レーニンは、革命的正義という語を出して私の意見に対して怒った。
私は憤慨してこう言った。
『では、我々は何のために司法人民委員部を置いているのか?
率直に、<社会的絶滅のための>人民委員部と呼ぼう。そして、司法人民委員部はなくしてしまえ!』
レーニンの顔が突然に輝いて、彼はこう答えた。
『よし。…それはまさしく行なうべきことだ。…しかし我々は、そう言うことができない』」。(脚注)
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(脚注) Steinberg, In the Workshop, p.145. Steinberg は間違って、この布令の草案起草者をトロツキーだとしている。
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(18) レーニンは長い間ずっと赤色テロルを主導し、しばしばより人間的な同僚たちを甘言を用いて誘導しなければならなかったけれども、自分の名前をテロルと切り離そうときわめて大きな努力をした。
彼は全ての法令に自分の署名を付すことに執拗にこだわった。しかし、国家による暴力行使に関係する場合はいつでも、これを省略した。この場合に彼が好んだのは、(ボルシェヴィキ)中央委員会議長や内務人民委員その他の当局者が行なったとすることだった。そのような当局者の中には、偽って皇帝家族の虐殺の責任を取らせたUral 地方ソヴェトもあった。
レーニンは、自分が煽動した非人間的な行為が自分の名前と歴史的に結びつけられることを、懸命に避けようとした。
あるレーニンの伝記作家は、こう書く。
「彼は、テロルやLubianka 〔チェカ本部が所在する建物/試訳者〕その他の地下室での殺害を行なった個人的行為が自分自身とは切り離されて抽象的にのみ語られるよう、気を配った。…
レーニンは、自分はテロルから離れていると振る舞い続けたので、彼はテロルに積極的には関与していない、全ての決定はDzerzhinskii によって行なわれた、という伝説が生まれて、大きくなった。
これは、あり得ない伝説だ。なぜなら、レーニンはその性格上、重要な問題に関する権限を委ねることができない人間だったからだ。」(注13)
実際に、一般的な手続に関するものであれ重要な収監者の処刑に関することであれ、重要性をおびる全ての決定には、ボルシェヴィキの中央委員会(のちには政治局)の承認が必要だった。レーニンはその中央委員会の、永遠の事実上の議長だった(注14)。
赤色テロルは、レーニンの子どもだった。父親であることを必死で否定しようとしたのだったとしても。
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(19) この認知されていない子どもの保護者は、チェカの創設者であり監督者である、Dzerzhinskii だった。
この人物は、革命勃発時にほとんど40歳になっていた。Vilno の近くで、愛国的なポーランドの地主階層の家庭で生まれた。
その家庭の宗教的、民族主義的な継承物と決別し、リトアニア社会民主党に加入した。そして、職業的な革命組織家および煽動家になった。
帝制時代の監獄で重労働をしながら、11年を過ごした。
これは過酷な年月であり、彼の精神に拭い去ることのできない傷跡を残した。そしてそれは、癒すことのできない復讐への渇望とともに不屈の意思を形成した。
彼は、考え得る最も残虐な行為を、愉しみではなく理想家の義務として、行なうことができた。
レーニンの指示を、宗教的献身さをもって、無駄なくかつ素っ気なく、「ブルジョア」や「反革命者」を射撃部隊の前に送って、実行した。その際に、同じく愉しみのない強迫意識があったのだが、それは、数世紀前であれば異端者を火炙りの刑に処すことを命じたような意識状態だっただろう。
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第一節、終わり。



























































