Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)①。
 (01) モスクワがロマノフ家の殺害を命じた、との争う余地のない証拠資料がかりに存在しなかったとしても、ニコライの「処刑」に関する公式の報道がその決定があったとされたEkaterinburg でではなく、モスクワで行なわれたという事実からしても、それが事実だったかを強く疑い得ただろう。
 実際に、Ural 地方ソヴェトは、すでに外国で報道されていた、発生したあとの5日間は、事件を公的に発表することを許されなかった。
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 (02) 証拠資料は決定的ではないけれども、皇妃と子どもたちの運命はきわめて微妙な問題だったがゆえに、モスクワはEkaterinburg に対して、発表を控えるよう命令したように見える。
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 (03) 問題は、この時期にボルシェヴィキが大いに取り入っていた、ドイツ人だった。
 ドイツ皇帝(Kaiser)はニコライの従兄で、ニコライの子どもたちの名付け親だった。
 彼〔Wilhelm 二世〕がその気になれば、ブレスト=リトフスク条約による解決の一部として、前皇帝とその家族をドイツに引き渡せと要求できただろう。この要求を、ボルシェヴィキは断わることのできない立場にあった。
 しかし、彼は何もしなかった。
 3月早くにデンマーク王がロシア前皇帝らのために取り持つよう求めたとき、ドイツ皇帝は、ロシアの皇帝家族の庇護場所を提供することはできない、と反応した。その理由は、ロシア人は君主制の復活の企てだと解釈するだろう、ということだった(注86)。
 スウェーデン王から、ロマノフ家がその苦境から楽になるのを助けるよう求められても、彼は拒否した(注87)。
 こうした振る舞いについての最もあり得る説明を、Bothmer が行なった。ドイツの左翼諸政党に対する恐れによる、というものだ(脚注1)
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 (脚注1) K. von Bothmer, Mit Graf Mirbach in Moskau(Tübingen, 1922), p.104. あるドイツ人学者は、ドイツの行動を擁護して、Alexandra が言ったこと—娘たちの家庭教師だったGilliard が記録した—を引用した。自分は「ドイツに助けられるより、ロシアで激烈に死にたい」。Jagow, BM, No.5(1935), p.351. そうかもしれないが、しかしもちろん、ドイツ政府は当時に彼女がこのように考えていることを知りようがなかった。
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 (04) ドイツ政府は、ニコライの運命に対して無関心だったにもかかわらず、ドイツの血統の前皇妃、彼女の娘たち、その他のロシア宮廷のドイツ人女性たち、とくにAlexandra の妹のElizabeta Fedorovna、の安全にはある程度の関心を示した。彼らは、これら女性をまとめて「ドイツの皇女たち」として言及した。
 Mirbach〔ロシア駐在ドイツ大使〕は5月10日に、Karakhan やRadek とともにこの問題を取り上げ、政府につぎのように報告した。
 「もちろん、打倒された体制を擁護するような冒険的行為をしてはいけないが、それにもかかわらず、私は、人民委員たちに対し、<ドイツの>皇女たちはあり得る全ての配慮でもって扱われる、とくに、彼女たちの生命への脅威はもちろんだが、どんな小さなごまかしもあってはならない、という期待を表明する。体調の悪いChicherin に代わってKarakhan とRadek は、きわめて協力的にかつよく理解して、私の見解を聞いてくれた。」(注88)
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 (05) 7月17日の朝、前夜の出来事に関する報告を、Ekaterinburg にあるソヴェトのある官僚—ほとんど確実に、その議長であるBeloborodov—は、クレムリンに電信で送ったと見られる。
 レーニンの生涯についてはきわめて詳細な編年記録があって、一時間ごとに彼の公的な活動を辿っている。しかし、不可解なことだが、その7月17日の記録はこう記している。
 「レーニンは(正午に)Ekaterinburg からの通信を受け、封筒に書く。『受領した。レーニン』」(注89)。
 Ekaterinburg はこの時期にはクレムリンと郵便では連絡しておらず直接の電信によっていたので、問題の通信は手紙ではなく電報だった、ということを当然視することができる。
 つぎに、当該の編年記録は通常は、レーニンに対する、挙げている文書の要点を記載している。
 この場合での省略が示唆するのは、共産党の文献がレーニンとの関係をつねに否定する主題、すなわち皇帝家族の殺害にそれは関連していた、ということだ。
 通信文は、ニコライの妻と子どもたちの運命に関して、明らかに十分に詳細ではなかった。そのことは、説明を求めてクレムリンがEkaterinburg に電信したことで分かる。
 同じ日ののちに、Beloborodov はモスクワへ、尋問に対する答えであるかのような暗号化した通信を送った。
 Solokov はEkaterinburg の電信電話局で、この電信文の写しを見つけた。
 彼はこの暗号を解読できなかった。
 ようやく二年後にパリで、あるロシアの暗号使用者が、解読した。
 解読された通信文は、皇帝家族の最終的運命に関する問題を決着させた。
 「モスクワ、クレムリン。人民委員会議秘書Gorbunov、返信証明。
 Sverdlov に知らせる、家族全員が長と同じ運命に遭う。公式には、家族は避難中に死ぬだろう。Beloborodorv。」(注90)
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 (06) Beloborodov の通信文は、その夜にモスクワに届いた。
 Sverdlov は、全ロシア・ソヴェト中央執行委員会の幹部会に報せを伝えた。注意深く、ニコライの家族の運命に言及することを省略して。
 彼は、前皇帝がチェコ人の手に落ちることの重大な危険性について語り、Ural 地方ソヴェトの行動について幹部会から正式の是認を得た(注91)。
 彼は、適切な時期があった6月か7月初旬に皇帝家族をモスクワへ移送しなかった理由を説明するという、面倒なことしなかった。
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 (07) Sverdlov はその日の遅く、クレムリンで進行中だった人民委員会議の会合に立ち寄った。
 目撃者は、その光景をこう叙述する。
 「Semashko 同志が報告していた公衆衛生の企画に関する議論のあいだに、Sverdlov が入ってきて、Ilich(レーニン)の後ろの椅子に着席した。
 Semashko は終わった。
 Sverdlov は身体をIlich の方に曲げて近づき、何かを言った。
 『Sverdlov 同志は、出席者に対して、発表することを求める』。
 Sverdlov はいつもの落ち着いた声で始めた。
 『私は、言わなければならない。地方ソヴェトの決定により、Ekaterinburg で、ニコライは射殺された。Alexandra とその息子は、信頼できる者の手にある。
 ニコライは逃亡しようとした。チェコ人が近くに来ていた。
 〔全ロシア・ソヴェト〕執行委員会幹部会は、是認を与えた。』
 一同、沈黙。
 Ilich が提案した。『条項から条項へ、企画書を読み進まなければならない。』
 条項から条項へと読むのが進行し、統計に関する計画案の議論がつづいた。」(注92)
 このような偽装でもってどうしようとしていたのか、我々が知るのは困難だ。必ずや、ボルシェヴィキ内閣の一員たちは真実を知っただろうからだ(脚注2)
 このような成り行きは、恣意的な行動を正当化する「正しさ」を必要とするボルシェヴィキを満足させたように見える。
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 (脚注2) Bruce Lockhart は、7月17日の夕方にすでに、Karakhan が自分に、皇帝家族の全員が死んだと言った、と主張する。<あるイギリス人工作員の回想>(London, 1935), p.303-4.
 ニコライの4人の娘たちは誰の「手」のうちにいるのかと、なぜ誰かが問わなかったのか、不思議なことだ。
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 ②へとつづく。